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「傷ついた葦を折ることなく」

2008年1月6日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 42章1節~4節

見よ、わたしの僕

 新年最初の礼拝において、私たちに与えられていますのはイザヤ書42章の言葉です。神様が私たちに「見よ」と言って一人の人物を指し示しています。その人は「わたしの僕」と呼ばれています。僕は仕える者です。彼は主に仕えるために選ばれた人です。何を行って主に仕えるのでしょうか。1節には「彼は国々の裁きを導き出す」と書かれております。これが彼の使命です。3節には「裁きを導き出して、確かなものとする」と書かれています。それはいつまで続けられるかと言いますと、「この地に裁きを置くときまで」であります。そのような主の僕に注目しなさい、と神様は私たちに言っておられるのです。

 このイザヤ書の言葉は、マタイによる福音書にも引用されています。話の流れは次のとおりです。それはある安息日のことでした。イエス様はいつものように会堂に入られました。するとそこに一人の片手の萎えた人がおりました。悪意を抱いている人々は、イエスを試そうとしてこう言います。「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか。」イエスはきっとその人を放ってはおけないだろうと彼らは思ったのです。だからきっと癒すに違いない。そして、もし癒したならば、安息日の律法違反として訴えようと企んでいたのです。彼らの魂胆を知っているイエス様は、このように答えられました。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」(マタイ12:11‐12)。そう言って、あえて安息日にもかかわらず、いや、安息日であるからこそ、その人を癒されたのです。

 この出来事はユダヤ人たち、特にファリサイ派の人々の憎しみを引き起こすことになりました。「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(同14節)。そのことに続いて、次のように書かれているのです。「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」(同15‐17節)。そして、先ほどのイザヤ書の言葉が引用されているのです。つまり福音書は、このようなイエス様のお姿の中に、あのイザヤ書の言葉の実現を見ているのです。

 神様は私たちに「見よ」と言って、一人の人物を指し示します。そして、その指先の方向をたどっていくと、そこにはキリストがおられるのです。

傷ついた葦を折ることのない主の僕

 「見よ、わたしの僕、わたしが支えるものを。わたしが選び、喜び迎えるものを」。先にも触れましたように、その「主の僕」については、「彼は国々の裁きを導き出す」と語られています。それが僕に与えられた使命です。

 しかし、「国々の裁きを導き出す」とは何を意味しているのでしょう。「裁き」という日本語は、教会の中で聞かれる時、あまり肯定的な響きを持ってはおりません。「あの人は他人を裁く人だ」と言った場合、それは決して誉め言葉ではありません。「神の裁き」と聞くと、多くの人は恐ろしさしか感じないことでしょう。しかし、ここで「裁き」と訳されている言葉は、もともと否定的なニュアンスを持った言葉ではありません。聖書協会訳では「彼はもろもろの国びとに道をしめす」と訳されておりました。「道」ならば、そこに否定的な響きを感じることはないでしょう。

 イザヤ書においてこの言葉は神の定められた計画を意味しているものと思われます。ですから、そこには「裁き」も含まれます。神の正義が貫かれることが含まれます。神の道が示されることも含まれます。すべては救いが実現することへと向かっているのです。そのような神の意志と計画をこの僕は示し、またそれを実現するのです。

 しかもここで「国々の」と書かれていることは重要です。国々というのは、イスラエルの民以外の諸国民です。「異邦人」と言ってもよいでしょう。4節には「島々は彼の教えを待ち望む」と書かれています。地中海の島々は、当時の認識では「世界の果て」です。神様の救いの御計画は諸国民に及び、地の果てにまで及びます。神様の関心の対象は常に世界の全体です。イスラエルの民だけではありません。信仰者だけではありません。神様の関心は常に外へと向かいます。

 今日は1月6日です。この日は教会の暦では「顕現祭」に当たります。今年はちょうど日曜日に重なりました。この「顕現祭」は、ページェントでもお馴染みの出来事、あの東方から来た博士たちが幼子イエスに黄金、乳香、没薬を捧げて礼拝したことを記念する日です。神様は、異邦人である占星術の学者たちをも心にかけられ、導かれました。この出来事は、神様の救いの御計画がイスラエルの民に留まらず、異邦人に向かっていること、全世界に向かっていることを示しています。そして、そのような諸国民へと向かい異邦人へと向かう神様の御意志と御計画は、既に旧約聖書の時代に語られていたのです。そのような神の御計画を示し、そして実現する主の僕について、語られていたのです。

 しかし、ここで注目したいのは、そのような世界の果てにまで及ぶ働きをする主の僕が、次のように描写されている点です。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」(2‐3節)。

 「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」。そのようにして、人々の耳に、人々の心に、無理矢理に入って行こうとはしないのです。そのような形で人々を動かしたり、人々を支配しようとしないのです。そのような僕の姿がここに描かれています。しかも、彼は「傷ついた葦」を折りません。傷ついた葦とは何でしょうか。同じ言葉が別の箇所では「折れかけの葦の杖」(列王下18・21)と訳されています。ある人は、杖ではなくて燭台の支柱のことだと説明します。杖であろうが支柱であろうが、折れかけていたら役に立ちません。そんなものは危ないので、折って捨てるものです。ところが、主の僕は、その《役立たず》にあえて目を向けます。彼はそれを折らないのです。捨ててしまわないのです。また、彼は「暗くなってゆく灯心」を消すこともしないのです。暗くなってゆく灯心とは何でしょう。それは火がくすぶって煙を出している灯心です。役に立たないだけならまだ良いでしょう。暗くなってゆく灯心は存在するだけで迷惑です。そんなものは消してしまうものです。ところが、主の僕はその迷惑な存在に目を向けます。彼はその火を消しません。再び明るく輝くのを待つのです。

 傷ついた葦や暗くなってゆく灯心に関わり合うのは面倒なことです。叫ぶことなく、巷に声も響かせず、そんな事をちまちまとやっていたのでは事は進みません。誰もがそう考えます。世界に及ぶ働きのために立てられた主の僕が、そんなことをしていてよいのでしょうか。しかし、そのような「主の僕」を指さして、神様は「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」と言うのです。神様が「見よ」と言っているのは、私たち人間が往々にして全く別な方向を見ているからでしょう。

主の僕であるキリストの体として

 この預言の言葉がもともと語られたのは紀元前6世紀のことでした。それは世界が大きく変わりつつあった激動の時代でありました。その時代の主役となったのはペルシャの王キュロスという人物でした。彼が率いるペルシャは東方から勢力を伸ばし、メディアを征服し、リディアを征服し、ついにバビロンに入城を果たし、バビロニア帝国をも征服してしまったのです。こうして、彼はオリエントの勢力図を完全に塗り替えてしまいました。

 人々はそのような世界の有り様を目の当たりにしていたのです。力が世界を変えていく有り様を見ていたのです。人々はまさにその中心となっているキュロスという人物とその力に目を注いでいたのです。

 確かに今日の私たちが見ているのも「力がものを言う」という世界です。力を持つ者が世界を動かすのです。だから私たちもまた、今日のキュロスに目を注ぎます。大きな働きのためには、そのための力が必要だと常に考えています。世界を変えるには、政治的な力、経済的な力が必要だと考えています。また、今日でありますならば、声を巷に響かせるぐらいでは十分ではありません。人々の耳と目と心の中に無理矢理にでも入り込んでいくためには、マスメディアをも動かさねばなりません。マスメディアを制する者が世界を制する。そう思うのです。そうだ、神の御計画の実現のためには、神の救いが世界に及ぶためには、権力も金も必要だ。と、二千五百年前の人々と同じように、私たちも現代のキュロスとその力、そしてその力のもたらす変化の方に目が行ってしまいます。

 しかし、神様は「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を」と言われるのです。そして、私たちは、神様の指先が誰を指し示しているのかを既に知らされているのです。それは全くこの世の権力やカネの力とは無縁であった人。金持ちや為政者を動かすような大きな運動を展開しようともしなかった人です。神の国を告げ知らせ、神の救いの御計画を実現するために来られたイエス様は、それどころか、人々が熱狂的にイエスのことを触れ回ろうとした時、御自分のことを言いふらさないようにと戒められたのです。

 私たちは聖書の中に「大勢の群衆が従った」という言葉を読みます時に、イエス様が当時の世界において誰もが注目するような一大ムーブメントを巻き起こしたかのように錯覚しやすいのですが、それは所詮あの狭いユダヤの世界の中での出来事に過ぎないのです。実際、福音書などの教会の文書を除くと、当時のイエスに関する記録はほとんど残ってはおりません。要するにこのイエスという御方に関して、世間は私たちが思うほど注目していなかったということです。この世の観点からするならば、イエス様に起こった出来事は、ローマ帝国に起こった諸々の出来事の中に埋もれてしまうような、小さなことに過ぎませんでした。声は巷に響き渡ってなどいなかったのです。

 そのような中で、イエス様はまさに傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、箸にも棒にもかからないような弟子たちと共に忍耐強く歩まれ、誰からも顧みられないような人々にちまちまと関わりながら生き、そして十字架の上で死なれたのです。そのキリストの十字架は、まさにこの世の片隅に立てられたのです。

 しかし神は、このキリストを指し示して、「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」と言われるのです。十字架にかかられたその御方は、復活して今も生きておられます。そして、キリストの体である教会を通して今も働いておられます。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、ひとりひとりの人間に忍耐強く関わり続けておられます。そのようなキリストであるからこそ、私たちもまたここにいるのでしょう。そのようにして、神の救いの御計画は確実に現され、進められているのです。

 神の救いの御業が実現するために、この世の政治的な権力を獲得すること、支配者の側に立つこと――必要ありません。お金をかけた大々的なキャンペーンを張り、あるいはマスコミの力を動員して人々の耳と心を捕らえること――必要ありません。必要なのは、傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことのない御方の体として、私たちもまた、傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことのない者であり続けることなのです。

 
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