ホーム |  説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡

「言は肉となって宿られた」

2007年12月30日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 1章14節~18節

本当のつまずき

 毎年のことでありますが、今年もクリスマスにまつわる聖書箇所が繰り返し朗読されました。天使がマリアに受胎告知をした話。ベツレヘムでマリアが初めての子を出産した時、宿屋には泊まるところがなく、飼い葉桶にその子を寝かせた話。野宿をして羊の群れの番をしていた羊飼いたちに天使が現れ、救い主の誕生を告げた話。天の大軍が現れて神を賛美した話。東方の博士たちが星に導かれてやってきた話。今年初めて教会にいらした方でありましても、ページェントで演じられたり、礼拝の中でこれらの聖書箇所が朗読される分には、違和感を感じることはなかったに違いありません。

 しかし、改めて真顔で、「この話、信じる?この話、受け入れられる?」と尋ねたら何と答えられるでしょうか。ページェントの中のお話としてはいいけれど、現実のこととして受け入れられるかどうかと言えば、それはかなり難しいことではないかと思うのです。というのも、私たちの日常生活においては、通常天使が現れたりはしないからです。聖霊によって赤ん坊を身ごもった人の話を耳にすることもありません。キリストの誕生にまつわる一連の物語は、現代人にとって極めて受け入れがたい物語であるように思います。

 では、これは現代人だから受け入れがたいのであって、今から二千年前の人には受け入れやすい話だったのでしょうか。いいえ、実はそうではありません。この話は、私たちが感じる以上に、当時の人たち、特にギリシアの文化圏にある人たちにとっては、非常に違和感を覚える話だったのです。ここにはイエスがメシアであり神の子であることを宣べ伝える上で極めて不利になることが書かれているのです。それは天使が現れるなど、不思議なことが記されている点ではありません。むしろ逆なのです。不思議なことが記されていない点にあるのです。すなわち、このイエスという御方が通常の出産の仕方で産まれたということです。もちろん家畜小屋の中でという特殊な状況ではあります。しかし、ともかく普通の人間として通常の仕方で産まれたのです。

 乳飲み子は「布にくるまって」いたことが繰り返し書かれています。「布にくるまって」というのは、いわゆる「おしめ」のことであるとある人は説明しています。おしめをするのは、赤ん坊がウンチやオシッコをするからです。明らかに、そこに寝ているのは、親にとって手のかかる、おしめを汚す赤ん坊に他ならないのです。そのようにウンチで汚したおしめを取り替えてもらわなくてはならない赤ん坊を指して、教会は「この方こそ神の御子であり、御子なる神なのであり、まことの神なのだ」と宣べ伝えたのです。これは常識的な人たちにとっては、大きなつまずきとなりました。本当に神さまならば、神さまらしくして欲しいのです。おしめとは別世界の存在であって欲しいのです。それはもしかしたら、今日の私たちでも同じかもしれません。おしめを汚しているイエス様、お漏らししているイエス様のことなどは、あまり考えたくないのではないでしょうか。

 実はそこにこそ、聖書の物語の本当の受け入れがたさはあるのです。ヨハネによる福音書は、それを単純に次のように表現しました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1:14)。言(ことば)とは御子なる神のことです。御子なる神は「肉となった」のだ、と言うのです。「肉となった」というのは、人間となった、ということです。おしめを汚す赤ん坊にもなったということです。

 この言葉がもたらすつまずきに比べれば、天使が現れることなど、本当は大したことではありません。神について語られるところに《不思議なこと》が伴うのは、ある意味で当然のことでしょう。ましてや救い主がこの世に来られたという、決定的な神の介入が起こったと言うのなら、不思議なことの一つや二つ起こらなくてどうしますか。天使の軍団ぐらい現れてくれなくては困ります。そんなことは当然のことなのです。むしろ問題は、本当に大事な時に、不思議なことが起こっていないことにあるのです。その誕生の仕方があまりにも普通であることなのです。ごく普通の赤ん坊としてマリアから生まれたことなのです。「言は肉となった」のです。

わたしたちが肉であること

 さて、先ほど「おむつを汚す赤ん坊」になったと言いました。しかし、赤ん坊がおむつを汚すことなど、本当は大したことではありません。むしろ、それはかわいらしいことです。「肉」と聖書が表現している現実は、もっともっと厳しいものであるに違いありません。例えば、私たちは肉体を持つ人間として、疲れたり、空腹になったりします。病気にもなります。病気になれば様々な苦痛を味わうことになります。本人も周りの家族も、肉体を持つ人間であるということはいかに大変なことかを、いやというほどに思い知らされることになります。また私たちは年々齢を重ねます。年を取るということは厳しいことです。できたことが出来なくなります。そのように年齢を重ねて最終的には死を迎えます。私たちが肉体を持って生きているということは、そのように実に厳しいことです。

 いや、「肉」であることの厳しさはそれだけではありません。肉体と精神は結びついています。肉体と感情は結びついています。肉体の関わる生活の中で、しばしば私たちは抑えがたい感情、抑えがたい衝動を経験します。それもまた「肉」なる現実です。それは怒りであるかもしれません。ねたみや憎しみであるかもしれません。様々な欲情であるかもしれません。私たちはそのような肉の衝動にしばしば手を焼きます。自分の身を持て余します。思うようにならない自分自身に悲しい思いをいたします。パウロという人は、このことを次のように表現しました。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。…わたしはなんと惨めな人間でしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:18、24)。そうです、私たちが「肉」であるとはそういうことなのです。

 ですから当時のギリシア的なものの見方においては、肉体を汚れたものと見なす考え方があったのも無理はないと思うのです。私たちもしばしばそう考えているからです。肉体は汚れたもの、肉体を持った人間であること自体、実に忌むべき現実である、と。この福音書が書かれた頃、この肉体を含め、この目に見える物質世界はすべて価値なきもの、汚れたもの、忌むべき悪なのであり、目に見えざる霊こそ永遠なるものであり善なるものなのだ、という思想は教会にも大きな影響を及ぼしておりました。ですからある人々はこう言っていたのです。「御子なる神が我々と同じ肉体を持つ人間となったなんて、とんでもない。それは、そのように見えただけなのだ。それは仮の姿に過ぎないのだ。イエス様はあくまで神なのであって、人間とはまったく別な存在なのだ!」どうですか?このほうが常識的に聞こえるでしょう?

 しかし、それに対して教会は、「いいや、それは違うよ。確かに御子は人間となられたのだ」と言い続けたのです。「イエス様は確かに通常の出産によってマリアから産まれたのだ。そして、おしめをしたのだ。おしめを汚す普通の赤ん坊だったんだ」と語ったのです。そして、「私たちが身を切れば血を流すのとまったく同じように赤い血を流し、私たちが苦しむのとまったく同じように苦しみ、そして、私たちが死ぬように、それとまったく同じように、十字架の上で死んだのだ」と語り続けたのです。

肉となられたのは何のため

 いったい、どうして教会はイエス様を宣べ伝えるのに、この御方が真に「人間であった」ということに、それほどまでこだわったのでしょうか。どうしてマリアという人間から産まれた方であると、信仰告白において語り続けたのでしょうか。「言は肉となった」ということが、それほど重要なことなのでしょうか。

 第一に、これは神さまと私たちの深い関わりを示しているからです。神はこの世界を、あくまでも御自分が造られた世界として関わられたのです。私たちをも、この肉体を含めた、「私」という存在全体をも、神が造られた存在として重んじられたのです。どれほどに重んじられたのでしょうか。御子なる神が自ら肉となられるほどにです。

 御子があえて肉となられたほどに、そこまで私たちと徹底的に連帯される神。それが私たちの信じている神さまです。この私たちにそこまで徹底的につきあってくださる神。この世界も、そこに生きる私たちをも決して見捨てない神。それがクリスマスの物語が伝えている神さまです。御子は飼い葉桶の中に寝かされている赤ん坊になられたのです。おむつまでされたのです。

 先ほど、私たちが肉であることは厳しい現実だと申しました。しかし、私たちは肉なる存在としてこの目に見える世界で生きていくという、この極めて厳しい現実を一人で背負っていく必要はないのです。あるいは背負いきれないからと言って投げ出してしまう必要はないのです。肉となられた神が共に背負ってくださるからです。だから神が見捨てられていないものを、私たちは見捨ててはなりません。この世界についても、私たち自身についてもです。どんなに醜かろうが、どんなに手を焼こうが、私たち自身を見捨ててはならないのです。否、むしろ神が愛しておられる世界として、神が愛してくださっている私たち自身として、真に尊んで生きるべきなのです。「言は肉となった」からです。

 そして第二に、「言が肉となった」ということが重要であるのは、それが罪の贖いにおいて決定的な意味を持っているからです。

 本日の第2朗読ではコロサイの信徒への手紙が読まれました。その最後の部分をもう一度お読みします。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちはその御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(コロサイ1:13‐14)。そうです、私たちは御子によって罪の赦しを与えられました。信仰生活とは、御子によって罪の赦しを与えられ、御子の御支配のもとに生きることです。その時、もはや私たちは闇の力の支配下にはいないのです。もはや何ものも、死の力さえも、私たちを滅ぼすことはできないのです。罪を赦された者として御子と共にあるからです。

 その御子なる神は、どのようにして私たちに罪の赦しを与えてくださったのでしょう。どのようにして罪の贖いの御業を成し遂げられたのでしょう。御子なる神が、肉となって、私たちと同じ人間となって、私たちの代表となることによってでした。徹底的に連帯してくださっただけではありません。肉となられたその肉体をもって、十字架の上で苦しんでくださったのです。あくまでも人間として、一人の人間として、血を流して、苦しみ抜いて死んでくださったのです。何のために。私たち人間の罪を、人間の代表として一人で背負い、その裁きを受けるためです。自らが人間の代表として裁きを受けて、私たちに罪の赦しを与えるためでした。わたしたちはその御子によって、肉となられた御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得たのです。

 クリスマスから一週間経ちまして、あれほど豪華に飾られていたクリスマスの電飾はあっという間に街から消えていきました。しかし、私たちにとってクリスマスの喜びがそのようなものであってよいはずがありません。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。これが私たちに与えられている信仰です。そこにこそ簡単に消え去ってしまわない、決して色あせることのないクリスマスの喜びがあるのです。

 
ホーム |  説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡