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「キリストを証しするもの」

2007年12月9日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 5章31節~40節

父なる神の証し

 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる」(31節)。そうイエス様は言われました。御自分がメシアであること、神の子であることを、イエス様は自ら一生懸命に論証しようとはなさいませんでした。その証拠を挙げて人々を説得しようとはしませんでした。イエス様はただひたすら父の子として、父なる神の御名を呼んで生きていました。それで十分でした。なぜならイエス様が御子であることは、父なる神が自ら証ししてくださることを知っていたからです。「わたしについて証しをなさる方は別におられる」。それは父なる神のことです。

 もちろん、イエス様がメシアであることを一生懸命に語っていた人はいました。その人生をかけてイエス様を指し示した人はいました。その代表は洗礼者ヨハネという人です。彼は一世を風靡した大説教家であり、洗礼運動の推進者でした。彼の説教は人々の心を揺さぶりました。彼の言葉によって自分自身の罪を示された人々は、神の赦しを求め、続々とヨルダン川のほとりにいるヨハネのもとにやってきて洗礼を受けました。しかし、ヨハネはどれほど有名になっても、偉大な人物と見なされても、「わたしはメシアではない」と言い続けました。自分は荒れ野で叫ぶ声に過ぎないと。そして、ひたすらメシアを指し示し続けたのです。ナザレのイエスを指し示し、「見よ、世の罪を除く神の小羊だ」と。そして、「この方こそ神の子である」と。

 そのようにヨハネはイエスが神の子でありメシアであることを証ししました。しかし、イエス様は言われました。「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」と。イエス様は神の子として、父に従って生きたらそれでよかったのです。父が与えてくださった業を成し遂げればそれでよかったのです。そこで父自らが証ししてくださることを知っていたのです。

 「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのもの」とは、いったい何を指しているのでしょう。まず考えられるのは、イエス様のなさった数々の奇跡です。今日はヨハネによる福音書5章をお読みしていますが、この章は38年間病気で苦しんでいた人がベトザタの池において奇跡的に癒されたという話から始まります。床に横たわっていた人に対して、イエス様が「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われました。すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した、と書かれております。

 しかし、「イエス様がそのような人間には通常できないような不思議なことをなさったから、それが神の子でありメシアである証しである」と言いますならば、それはあまりにも単純に過ぎる主張だと思います。というのも、当時の世界には不思議なことをする人はいくらでもいたからです。占い師や魔術師の類もいたのです。あるいは不思議な仕方で病気を治す人もいたのです。不思議なことをするから神の子であるということなら、皆、神の子としての証しを持っていることになるでしょう。

 あるいは、「イエス様はただ奇跡や不思議なことをなさったというのではなくて、神の力によって人々を助けたのだ。それが神の子の証しである」と言う人がいるかもしれません。しかし、それもまた単純に過ぎるのではありませんか。確かに癒していただいた人は、イエス様が自分に対して「ありがたいこと」をしてくださったから、「あなたはまことに神の子です」と言うかもしれません。そのように今日でも、自分が病気を癒されたから、あるいは困っていたのに助けていただいたから、「わたしはイエス様を信じます。イエス様がメシアだと信じます」と言う人がいるものです。しかし、ある人が奇跡的に癒されることは、その人にとっては「ありがたいこと」であっても、隣にいる人にとっては必ずしも「ありがたいこと」であるとは限らないでしょう。隣にいる人が同じような重い病気だったらどうですか。むしろ「なぜ、あの人は癒されて、わたしはいつまで経っても癒されないんだろう」という悲しい思いを抱くかもしれません。そのように癒された本人は神の力によって助けられたかもしれないけど、それがその隣にいる人の助けになるとは限らない。すると神の力によって人を助けたことが神の子である証しなら、皆を一人残らず平等に癒さなくてはなりませんでしょう。しかし、イエス様はそうなさいませんでした。ベトザタの池には病人が大勢いたはずなのに、癒されたのは一人でした。

 そのように、「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのもの」とは、単に不思議なことをしたことや、単に神の力によって人を助けたということではないのです。ではいったい何なのでしょう。イエス様の行っていた業とは何なのでしょう。人々はそこに何を見たのでしょう。――人々は、イエス様の行われた御業の中に、神の愛を見たのです。イエス様のご人格を通して流れ出る、父なる神の愛を見たのです。この世を愛しておられる父の愛を見たのです。癒された本人だけが、病気が癒されたから神の愛を見たというのではなくて、そこにいた弟子たちもまた、その御業に接した多くの人々もまた、イエス様の人格を通して流れ出る神の愛を見たのです。

 ですから、それは単に病気の癒しに限られないのです。例えば、イエス様が罪人や徴税人たちと一緒に食事をしたこともまた、神の愛の現れとして伝えられてきたのです。いや、それだけではありません。イエス様が捕らえられ、裁かれ、十字架にかけられたことすら、神の愛の現れとして伝えられてきたのです。いやその十字架にかけられた出来事こそまさに、神の愛の現れであり、「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業」とイエス様が言っておられたことの頂点に位置しているのです。イエス様は十字架の上で最後の一息を振り絞るようにして叫ばれましたでしょう。「成し遂げられた!」と。まさに十字架の上において、「成し遂げるようにお与えになった業」が完全に成し遂げられたのです。

 そのようにイエス様がその御生涯においてなさった御業が、その頂点としての十字架の出来事が、「父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」とイエス様は言われるのです。そこにおいて現された神の愛こそが、神が独り子を遣わした証し、「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という証しに他ならないのです。このイエスにおいて現された愛なる神との交わりにこそ、私たちの救いがあるのです。愛なる神との交わりにこそ死によってさえも奪われない永遠の命があるのです。

人間の証しと聖書

 では人はどのようにして神の子のもとに導かれ、キリストの御業に出会い、また神の愛に出会い、神との交わりに入れられ、救われるのでしょうか。そのために用いられるものが、今日の聖書箇所には二つ挙げられています。人間の証しと聖書です。しかし、人間の証しと聖書を通して真に御子キリストに出会い、神の愛に出会うためには、人間の証しと聖書とに対する相応しい関わり方があるのです。実際、今日の聖書箇所においてイエス様が語りかけておられる相手は、直にイエス様と向き合っているのです。それほどにイエス様に近くにいるにもかかわらず、イエス様と本当の意味で出会っていないのです。なぜでしょうか。相応しい仕方で人間の証しと聖書とに関わっていなかったからです。

 先ほどにも触れましたように、洗礼者ヨハネはその言葉をもってイエス・キリストを指し示しました。後の教会もまた、そのように言葉をもってイエス・キリストを指し示してきました。キリスト者は、キリストの「証人」と呼ばれました。そのようにキリストを証しすることは、時として命掛けのこととなりました。ですから、後の時代には「証人」という言葉は殉教者をも意味するようになりました。いずれにせよ、そのようにしてイエス・キリストは人間の証しを通して伝えられてきました。今日においても、そのようにキリストは伝えられています。

 しかし、そのように自らの言葉をもってイエス様を指し示したヨハネについて、イエス様はこう言っておられるのです。「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」(33‐35節)。

 これはある意味では非常に辛辣な指摘です。確かに、洗礼者ヨハネが現れた時、彼らは関心を抱いたのです。このヨハネがメシアではないか、とさえ思った人もいた。しかし、悔い改めを求めるヨハネのメッセージを自ら聞いて受け止めようとはしませんでした。彼らは人を遣わして尋ねさせたのです。いわば調査しようとしたのです。ですから、メシアを指し示す言葉も自分に関わる言葉として受け止めることはありませんでした。自らを外において、距離を置いて――それがヨハネの証しに対する彼らの関わり方でした。そのような彼らについて、イエス様は言われたのです。「ヨハネは燃えて輝くともし火だった。ヨハネは自らが燃えて燃え尽きて消えていくことを承知の上で、精一杯輝いたんだ。そのようにして、命を燃やし尽くして、あなたたちが救われるために救いを語り、メシアを証ししたんだ。――実際この時点でヨハネは牢の中にいたか、あるいは既に殉教の死を遂げていたのです。――それなのに、そのヨハネの光はあなたたちにとっては、ただ一時の楽しみ程度のものでしかなかった!」

 ヨハネはキリストを証しする者のモデルと言ってよいでしょう。その後の時代、多くの人々が燃えて輝くともし火となりました。命を燃やし尽くしてキリストを証しして、文字通り命と引き替えにして伝えてきた言葉、それが今日私たちに伝えられている証しの言葉であり、イエス・キリストを伝える福音の言葉です。その言葉に対して、自らを外に置いて、距離を置いて、一時の楽しみ程度のものとして関わっているならば、本当の意味でキリストに出会うことも、キリストを通して現された神の愛に出会うこともできなくなってしまう。それは今日の私たちにも言えることであろうと思います。

 そしてもう一つ。それは聖書との関わりです。イエス様は言われました。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」(39‐40節)。

 ユダヤ人たちは聖書を研究していました。ラビ的解釈の細かさは現代の私たちが読んでも驚きます。本当に細かく、一語一句大切に解釈するわけです。それはそれで素晴らしい。私たちは彼らがどれほど聖書を大切にしたか、見習わなくてはならないでしょう。しかし、残念ながら彼らは永遠の命が「聖書の中に」あると考えていたのです。聖書そのものが永遠の命を与えてくれるように思ったのです。だから、聖書の言葉、律法をどれだけ身につけるかが最大の関心だったわけです。「律法の言葉を身につけたなら、来世の命を身につけたのである」とは有名なラビであるヒレルの言葉です。

 しかし、イエス様は、「そうではない」と言われるのです。聖書は、そのものが永遠の命を持つのではなくて、神との愛の交わりへと導いて永遠の命を与えて下さる救い主へと連れて行くものなのです。救い主を指し示し、救い主に導くのが聖書なのです。私たちをイエス様のもとに行かせ、イエス様のもとにひざまづかせ、「わたしをお救い下さい」と言わしめるもの、それが聖書なのです。聖書を身につけて何か自分が立派なものになったかのように思い、永遠の命にふさわしい者になったかのように思う。それは正しい聖書の読み方ではありません。イエス様は「あなたがたは命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」と嘆いておられます。

 私たちがまことの命を得るために必要なただ一つのこと。それはイエス様のもとに行くことです。まことの命に生きるために必要なただ一つのこと。それはイエス様のもとに留まることです。そのためにこそ人間の証しも聖書も与えられているのです。

 
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