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「慈しみにとどまりなさい」

2007年12月2日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 11章13節~24節

 「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」(20節)。今日、第2朗読において読まれた言葉です。パウロは誰に対して「思い上がってはなりません」と言っているのでしょう。13節には「では、あなたがた異邦人に言います」と書かれています。パウロは、異邦人キリスト者に語りかけているのです。「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」と。

思い上がってはなりません

 ご存じのように、イエス様はユダヤ人でした。イエス様の弟子たちもユダヤ人でした。最初の教会のメンバーは皆、ユダヤ人でした。教会で用いられていた聖書も、もともとはユダヤ人が伝えてきたユダヤ人の書物でした。メシアの到来の希望も、神の救いの約束も、もともとユダヤ人に与えられたものでした。しかし、使徒言行録に見るように、教会の伝道が進んで行った時、教会が宣べ伝える福音の言葉を多くのユダヤ人は受け入れませんでした。むしろ福音の言葉を受け入れたのは、聖書も知らなかった、メシアの到来の希望も救いの約束も知らなかった異邦人でした。自分の罪を認めて、イエス・キリストによる罪の贖いを受け入れ、神の赦しに与って、喜びと感謝をもって神と共に生き始めたのは、ユダヤ人ではなく異邦人でした。この手紙はローマの教会に宛てられた手紙ですが、パレスチナの教会以外の各地の教会において、大勢を占めていたのはユダヤ人ではなくて異邦人だったのです。

 異邦人でキリスト者となった人たちは、身近に福音を拒否したユダヤ人たちを見ていました。確かに聖書は良く知っている。聖書に書かれている戒律も守っている。しかし、イエス・キリストによる罪の赦しも、救いの喜びも知らないままでいる。そのような姿を見て、異邦人キリスト者たちはこう言ったのです。「彼らは不信仰のゆえに折り取られた枝だ。彼らは折り取られて、異邦人である私たちが接ぎ木されたのだ。私たちは根から豊かな養分を受けて実を結ぶようになるけれど、彼らは折り取られて枯れ枝になるだけだ」と。

 しかし、そのような異邦人キリスト者に対して、パウロはこう言うのです。17節以下を御覧ください。「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」(17‐18節)。

 確かに接ぎ木された枝であることは事実かもしれません。根から豊かな養分を受け取っていることは、何ら悪いことではありません。喜ぶべきことです。しかし、そのゆえに、折り取られた枝、根につながっていない枝に対して誇るようになったり、見下すような思いを抱くようになったら、それはやはり間違ったことでしょう。接ぎ木された枝は根を支えているわけではないのです。根によって百パーセント支えられているのです。それは何ら誇るべきことではないのです。

 私は両親がキリスト者でしたから母の胎にいる時から教会に行っていました。小さい時から、両親をはじめ、クリスチャンの姿はいつでも身近にありました。しかし、正直言いまして、大人のクリスチャンの姿を見て、「ああ、僕も大きくなったらクリスチャンになりたいなあ」って思ったこと、残念ながら一度もありません。むしろ、信仰暦も長い熱心なクリスチャンが時折見せる、信仰を持っていない人たちや他のクリスチャンに対する横柄な態度や見下したような物言いが嫌で仕方ありませんでした。

 信仰を持っていない夫や妻、子どもたちを悪く言う大人たちの姿。他の信仰者のために祈るのではなくただ批判するだけの冷たい言葉。「あの人は清められていない」というような物言い。子どもは結構ちゃんと見ているものです。大人たちの会話をしっかりと聞いているものです。そのように育った私なのですけれど、自分自身がキリスト者となって、また牧師となって、時々ふと思うのです。子ども心にあれほどいやだと思っていたのに、私は知らず知らずのうちに同じことをしているのではないか、と。多分しているのでしょう。ですから、今日お読みしたような聖書の言葉が、私にも、そして恐らくここにいる皆さんにも必要なのだろうと思うのです。「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」。

神の慈しみにとどまりなさい

 そして、パウロは続けてこう言うのです。「神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」(21‐22節)。

 「あなたをも容赦されないでしょう」とは、「あなたも折り取られた枝になる」ということです。もう根から豊かな養分にあずかることができない枝になり、枯れ枝になるということです。それはあり得ることなのだ、と言っているのです。「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい」(22節)とパウロは言うのです。私たちは神の厳しさを考えねばなりません。しかし、それは私たちが神の裁きを恐れて戦々恐々として生きることを意味しません。パウロはあえて「《慈しみ》と厳しさ」と言っているのです。思い上がらず、むしろ恐れてどうすべきなのでしょう。神の慈しみにとどまるのです。「神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです」と語られているのです。

 ここで「神の慈しみにとどまる」と表現されていることは重要です。この後の23節には「不信仰にとどまらないならば」という言葉が出てきますから、ここは本来なら「信仰にとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです」と書かれていても良いところなのです。しかし、パウロはあえて「信仰にとどまる」と言わず、「神の慈しみにとどまる」と言いました。それはなぜかを考えなくてはなりません。

 野生のオリーブであった私たちが、今こうして接ぎ木されているのは、ただひとえに神の慈しみによるのでしょう。神に背いて生きてきた私たちが、罪を赦されて、神に祈ることを許され、神と共に生きることができるのは、ただひとえに神の慈しみによるのでしょう。本来ならばここにいるはずのない私たちが、私たちが今こうしていられるのは、ただひとえに神の慈しみによるのでしょう。すべてはただ神の慈しみによるのだということを思いつつ、神の慈しみなくしてはとうてい神の御前に立てないような私たちであることを思いつつ、その神の慈しみの中を生きていく。それが神の慈しみにとどまるということなのです。

 具体的には神の慈しみの最高の現れであるイエス・キリストの体と血とにあずかり続けながら生きるということです。洗礼はただ神の慈しみによるのです。聖餐はただ神の慈しみによるのです。今日も聖餐式が行われます。これは神の慈しみによるのです。この聖餐卓の周りに身を置いているのは、ただ神の慈しみによるのです。ですから洗礼の恵みから離れないことです。またこの主の食卓から離れないことです。すべては神の慈しみによるのですから。すべては神の慈しみによるのだということを弁えているならば、そこには誇りが入る余地など微塵もないはずです。「神の慈しみにとどまる」ことを理解しない信仰生活には、誤った誇りが入り込んできます。思い上がりが入り込んでくるのです。

ねたみが起こるように

 さて、そもそもパウロはなぜこのような話をしているのでしょう。なぜ既にキリストを信じた者の思い上がりが問題となるのでしょう。――それは神様の救いのご計画と深く関わっているからなのです。

 先に申しましたように、イエス・キリストの福音はユダヤ人のみならず異邦人にも宣べ伝えられました。そして、救いの言葉を喜んで受け入れたのは、ユダヤ人よりもむしろ異邦人でした。そのように異邦人に福音が宣べ伝えられるに当たって大きな働きをしたのはこのパウロでした。13節においてパウロは自ら「わたしは異邦人ための使徒である」と語っています。そのように異邦人の救いのために用いられたことを、何よりも光栄に思っているのです。

 しかし、それにもかかわらず、パウロの働きは異邦人がキリスト者となることで完結しないことを知っているのです。パウロの何よりもの願いは、やはり同胞であるユダヤ人の救いなのです。いやパウロの願いというよりも、神様が何よりもそのことを望んでおられることをパウロは知っているのです。ですから彼はこう言うのです。「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。」同胞であるユダヤ人が救われるために、まずは彼らの間にねたみが起こるように!それがパウロの切なる願いだったのです。

 救いの話をしているのに、ここで「ねたみ」という極めて人間臭い言葉が用いられるのは奇妙に思われるかもしれません。しかし考えてみれば、人が信仰に導かれる動機というものは必ずしも崇高なものばかりではないでしょう。時には人間のねたみでさえも神様は用いられるのではありませんか。「ねたみ」とは感情的な動きです。神様は感情的な動きを用いられるのです。この場合は「うらやましくなること」と言い換えてもよいでしょう。パウロは、異邦人キリスト者を見て、ユダヤ人たちがうらやましく思うように、ねたましく思うように願っているのです。本来は自分たちに約束されていたはずの救いの恵みに異邦人があずかっているのを見て、ユダヤ人たちがうらやましく思うように、ねたましく思うようにと願っているのです。

 だからこそ、この場合異邦人キリスト者が現実に生きている姿が重要になってくるのです。「ねたみ」というものは、単に言葉によってではなく、目に見える現実の姿によって起こるからです。そこで重要なのは単に正しい人になることでも、清い人になることでもありません。どんなに真面目であろうと正しい人であろうと、信仰を持って自分が一段高く上ったかのように思って他の人を見下したり裁いたりしているならば、人はそれを見てうらやましくなるでしょうか。ねたましく思うでしょうか。私もあの人のようになりたいと思うでしょうか。ならないだろうと思うのです。

 大切なことは、キリストの十字架によって罪が赦されたことを喜び、神に愛されていることを喜び、神への感謝と賛美をもって生きていることなのです。パウロの言うように、「慈しみにとどまる」ことなのです。すべては神の慈しみによることを思って生きていることなのです。「不信仰なユダヤ人を神に見捨てられた者であるかのように断罪するのではなくて、むしろ神の慈しみを喜ぶあなたがたの生活を通して、彼らの内にねたみを起こしてほしい!」そんなパウロの心の叫びが聞こえるような気がしませんか。そのような思いのゆえに、先に読みましたように、この後の「思い上がってはなりません」という彼の言葉が続くのです。

 これから聖餐を行います。求道中の方々は、神の慈しみによって洗礼へ、そして聖餐へと招かれていることを思い起こしてください。既に洗礼を受けておられる方は、今あるを得ているのはすべて神の慈しみによることを思いつつ、聖餐卓に進み出てください。神の慈しみにとどまりましょう。

 
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