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「この世に属さない国」

2007年11月25日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ 18章33節~40節

 イエス様は総督ポンティオ・ピラトのもとで裁判にかけられた時、ピラトに対してこう宣言されました。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」(ヨハネ18:36)。「わたしの国」と書かれていますが、これは「わたしの王国」という意味の言葉です。「わたしの王国」について語るということは、自らが王であるとの宣言に他なりません。しかし、イエス様の王国は、この世の王国とは異なると言うのです。いったいそれは何を意味するのでしょうか。

妬みと偽り

 まず、イエス様がその王国について語られたその場面をもう少し詳しく見ておきましょう。今日は33節からお読みしましたが、その前の28節以下には次のように書かれています。「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸には入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。そこで、ピラトが彼らのところへ出てきて、『どういう罪でこの男を訴えるのか』と言った。彼らは答えて、『この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう』と言った。ピラトが、『あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け』と言うと、ユダヤ人たちは、『わたしたちには、人を死刑にする権限がありません』と言った」(28‐31節)。

 人々はイエスを総督に訴えました。この男は悪いことをした、と言って訴えたのです。死刑に価する悪いことをした、と。ただ死刑にする権限は彼らにはなかった。ですからその権限を持つローマの権力に訴え出たのです。人々はイエスを訴えた、と言いましたが、その人々とは一般的な民衆ではありません。大祭司カイアファのところから来た人々です。すなわちその中心にいるのは宗教的な権威者たちです。

 宗教的な権威者たちがイエスを憎んで殺そうと考えるようになったのには、それなりのいきさつがありました。それは11章まで遡りますと分かります。その47節において、祭司長たちとファリサイ派の人々が最高法院を召集してこう言っているのです。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」。

 イエス様が行っていた多くのしるしは神の愛の現れでした。人々はイエス様を通して、宗教的な教えや戒律ではなくて、神の愛のリアリティに触れたのです。それゆえに多くの人々がイエス様に惹かれていきました。するとどうなりますか。それまで宗教的な権威と見なされていた彼らの立場は脅かされることになるでしょう。彼らがイエス様に敵意を抱いた理由の一つがここにあります。マルコによる福音書には、もっとあからさまに、「(ピラトには)祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた」(マルコ15:10)と書かれているのです。

 しかも、人々が熱狂的にイエスに従うようになると、さらに困ったことになります。それはローマに対する反乱と見なされる可能性があるのです。そのようなことにでもなればローマ人たちは軍隊を送り込んでくるでしょう。彼らが「我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と危惧している事態になりかねないのです。そのように彼らは宗教的にも政治的にも脅威にさらされていたのです。そこで大祭司カイアファはこう言ったのです。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(11:49‐50)。つまり、イエスを抹殺してしまえば済む話ではないか、ということです。そして、その後にこう書かれているのです。「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」(53節)。

 そのような彼らが、自らの正義を振りかざしてイエスを訴えている。それが今日お読みした場面なのです。イエスは悪だ。自分たちは正しい。そう言って訴えているのです。けれど裁いている側の彼らには嘘があるわけでしょう。その背後には醜い妬みや自己保身があるのでしょう。しかも皮肉なことに、こう書かれているのです。「彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。」

 彼らはイエスをなんとしてでも死刑にするためにローマの国家権力に訴え出ているわけですが、本心を言えばユダヤ人にとってローマ人はイヌやブタと一緒なのです。汚れた者なのです。汚れた者の住んでいるところに入れば自分が汚れてしまう。宗教的に汚れてしまうのです。だから汚れないで過ぎ越しの食事をするために、総督官邸には入らなかったのです。

 実に皮肉な描写ではありませんか。彼らは汚れることを避けているのです。しかし、他者を汚れた者と見なしながら自分の内にある醜い思い、汚れた心に気づかない。他人をイヌやブタのごとくに見下しながら、自分の下劣さに気づかない。人を罪に定めながら、自分の罪に気づかない。汚れることを避けながら、いったい汚れているということがどいういうことであるかが分からない。それがここに描かれている姿です。

 ここまで読みまして、私たちはこれを他人事にできなくなります。これは二千年を経てなお、今日のこの世の姿です。この世に生きる私たちの姿です。しかし、嘘と偽りに満ちた実に醜いこの世のただ中に、キリストが立っておられるのです。救い主が立っておられるのです。それが今日お読みしているこの場面です。そこでイエス様は宣言されるのです。「わたしの国はこの世に属していない」と。

真理の支配する国

 イエス様はピラトの前で、もう一つの王国の存在を主張しています。自らが王である「わたしの国、わたしの王国」について語っておられるのです。それはローマ帝国の内部にある反体制組織のようなものではありません。かつてオウム真理教がサリン事件を起こした時、一連の調査によってその組織が独自の国家形成を目論んでいたことが明らかにされました。しかし、イエス様が語っておられるのは、カルト集団が一つの国家形成を目指すのとは異なります。それはたとえ国家として成立したとしても、この世に属するもう一つの国にしかならないからです。

 イエス様は「わたしの国はこの世に属していない」と言われたのです。この世に属する王国であるならば、「わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう」と主は言われました。この世に属する王国ならば戦うための武力がモノを言うのでしょう。しかし、キリストの王国はそうではないと言われるのです。それは武力がモノを言い、武力によって守られるこの世の王国とは異なるのです。それはこの世に属さない、見えざる王国です。

 その言葉はピラトには相当滑稽に聞こえたに違いありません。それはそうでしょう。ボロ雑巾のようにされて、縛られて、訴えられて、殺されようとしている無力な男が「わたしの王国」について語っているのですから。ですからピラトは言ったのです。「それでは、やはり王なのか。」明らかにバカにして言っているのです。それに対してイエス様はお答えになりました。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」と。

 実は、細かいことになりますが、これは「わたしが王であるとは、あなたが言うとおりだ」とも訳せるのです。確かにイエス様はローマの権力に対置されるような意味での王であると誤解さないように注意深く語っておられます。しかし、「わたしの王国」について語っておられたのですから、ここでもやはりイエス様は自らが王であると主張しておられると見るのが良いでしょう。しかし、イエス様は自らが王であることを語られた上で、こう続けられました。「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(37節)。そのようにキリストの王国は、武力によって形づくられるのではなく、真理によって形づくられるのです。そこで問題となるのは何ですか。「真理とは何か」ということでしょう。ですから、ピラトも尋ねているのです。「真理とは何か」と。

 皆さん、真理とは何ですか。日本語で「真理」と言いますと、何か哲学的な抽象的なイメージを抱いてしまいますが、実はもっと生々しい身近な話なのです。というのも、ここでいう真理とは「見せかけのもの」に対する「見せかけでない本物」、「嘘や偽り」に対する「嘘や偽りではないもの」を意味する言葉だからです。ですからさらには、本当に信頼できるもの、本当に大丈夫と言えるものを意味する言葉でもあるのです。ですから「真実」と言った方が良いのかもしれません。なぜこれが身近な話なのか。お分かりでしょう。先ほど見ましたように、「真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た」と語るイエス様は、まさに嘘や偽りで満ちているこの世界のただ中に立っておられるからです。

 汚れを受けないようにと細心の注意を払う人々が正義を振りかざす中に、実のところは妬みと憎しみとがうずまいている。そんな人々の姿はまさにこの世の現実そのものであり、その中に生きている私たちの現実そのものであることは、既に見てきたとおりです。厳密に言えば、この世に属するすべてのものは、「真理」とか「真実」という言葉とは結びつかないのです。しかし、そんなこの世のただ中において、「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た」と宣言する方がおられるのです。

 いったい何が見せかけでない本物なのか。いったい何が本当に偽りではないと言えるものなのか。いったい何が本当に信頼できる真実なるものなのか。イエス様は何を証しするためにこの世に来られたのでしょうか。――それは神の愛なのです。嘘と偽りに満ちたこの世を、罪と汚れに満ちた私たちを、それでもなお愛して赦して受け入れくださる、その神の愛、唯一真実なるものを証しするためにイエス様は来られたのです。イエス様は神の愛をどのように証しなさるつもりだったのでしょう。それはこの先を読めば分かります。私たちの罪の贖いとして十字架にかかることによってなのです。私たちのために血を流し、命を与えることによってです。ですから、ヨハネはその手紙において次のように語っているのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:10)。その意味でキリストは神の愛そのものです。

 その御方が、もう一つの王国について語っておられるのです。目に見えるこの世界のただ中に、この世に属さない、目に見えない王国が到来しているのだと言っておられるのです。見せかけではない愛、嘘や偽りではない愛、決して変わらない真実なる愛、神の愛の支配する王国が到来しているのです。神の愛そのものであるキリストと共に到来しているのです。

 ならば私たちは、この世に満ちる嘘や偽りだけを見て、人間の不真実だけを見て、絶望する必要はないのです。この世の罪だけを見て、他の人や自分自身の罪だけを見て、絶望する必要はないのです。私たちは、この世のただ中にあって、もう一つの王国に生きることができるのです。神の愛の支配の中に、真実なる神の愛に信頼して生きていくことができるのです。神の真実はこの世の不真実よりも強いのです。神の愛はこの世の罪よりも強いのです。キリストが十字架において証ししてくださった永遠なる真理、永遠に真実な神の愛が私たちを必ず救ってくださる。その神の愛を信じて生きるのです。それが私たちの信仰生活です。

 
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