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「子どもの上に祝福を求めるなら」

2007年11月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 申命記6章4節~9節

これらの言葉を心に留めよ

 今日は、「子ども祝福礼拝」を共にお捧げします。世の中ではちょうど七五三の時期です。多くの人たちが子どもたちの幸せを願ってお宮に連れていくのでしょう。教会でもこうして子どもの上に祝福を祈ります。皆がやはり子どもたちの幸せを願っています。しかし、私たちはただ祝福を祈るだけではなくて、子どもたちが祝福されるとはどういうことか、子どもたちの上に幸せを願うということがどういうことかを知らねばなりません。そこで今日は特に第一朗読で読まれた申命記6章4節以下の言葉を心に留めたいと思います。ここに、子どもたちの上に祝福を祈る私たちがどうしても聞かなくてはならない神の言葉があるからです。

 このように書かれていました。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(申命記6:4‐9)。

 子どもたちの幸いを願うならば、どうしても手渡さなくてはならないものがあります。「繰り返し教え、語り聞かせなさい」と命じられています。何を手渡すのか。何を教え、語り聞かせるのか。私たちは、多くのものを手渡さなくてはならないように思いますし、多くのことを教えなくてはならないように思います。しかし、究極的にはただ一つのことです。それは、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」ということです。イエス様はこれを第一の掟と言われました(マルコ12:29)。これこそが、子どもたちに、次の世代に、何を置いても手渡さなくてはならない第一のものです。子どもたちの幸いを願うならば、何を差し置いてもまず神を愛することを教えなくてはなりません。私たちは次の世代の人々に、神を愛する生活を手渡さなくてはならないのです。

 しかし、教えるに当たっては、子どもたちだけに目を向けていてはなりません。子どもたちの問題は親の問題でもあります。一つの世代は前の世代によって形づくられます。6節には「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め」と書かれています。ここで語りかけられているのは誰でしょうか。心に留めるべきなのは誰でしょうか。ここで語りかけられているのは親たちです。大人たちです。まず親たちから始められなくてはなりません。伝えるためには自らが受け入れなくてはなりません。手渡すためには、まず自らがそれを自分のものとしなくてはなりません。親が神を愛することなくして、子どもたちに神を愛することを教えることはできません。親が神を重んじることなくして、どうして子どもが神を重んじるようになるでしょう。親が真の礼拝者となることなくして、どうして子どもたちに神を礼拝することを教えることができるでしょう。教会の今の世代が真に神を愛し、神を礼拝する者とならなくて、どうして次の世代に神を愛することを伝えられるでしょうか。「これらの言葉を心に留め」と書かれていることを、まず私たち自身が心に刻まねばなりません。

主を愛しなさい

 そこでまずここにいる大人たちが、命じられていることの内容をしっかりと受けとめたいと思うのです。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」とは、どのようなことを意味しているのか、ということです。

 この言葉を理解する上で、まず第一に重要なことは、「神を愛する」という表現が古代オリエントにおいては決して一般的ではなかったという事実です。これは、この国においてここかしこに祭られている神々に対して「愛する」という言葉が一般的には用いられないのと同じです。さらに言えば、ここで「愛する」と訳されている言葉は、夫婦や親子、恋人の間についても用いられている言葉です。むしろその用例の方が一般的です。そのような親子や夫婦の関係に喩えられるような人格的な関係を神と人との間に見るのが、聖書におけるユニークな点であると言えるでしょう。「対象は何でもよいのだ。信じる心が大事なのだ」といった信心理解と、「主を愛しなさい」と語られる聖書の神信仰は明確に区別されなくてはなりません。

 そして、この言葉を理解する上で第二に重要なのは、この言葉が語られた場面設定です。私たちは旧約聖書の「申命記」を読んでいます。申命記に記されているのはモーセの説教です。いわばモーセの遺言とも言うべき説教です。場所はヨルダン川の東側です。モーセはその地で生涯を閉じ、イスラエルはヨルダンを渡って約束の地に入っていくのです。既にエジプトを出て四十年の歳月が経過していました。その四十年とはどのような日々だったのでしょうか。私たちはその歩みの詳細を民数記の中に見ることができます。しかし、ここではむしろ申命記においてどのように語られているかを見ておきましょう。

 9章6節以下にはこのように書かれております。「あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。あなたは荒れ野で、あなたの神、主を怒らせたことを思い起こし、忘れてはならない。あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた。」そうです。彼らは「主に背き続けてきた」と書かれているのです。

 そのような彼らに対してなおも「あなたの神、主を愛しなさい」と語られているのです。それが先ほどお読みした言葉です。ですから、それ自体が本当は驚くべきことなのです。本当はとうの昔に見捨てられていても不思議ではないのでしょう。とうの昔に「あなたの神」でなくなっていても不思議ではないのでしょう。しかし、そのような人々に対して、主はなおも約束の地、良い土地を与え、新しい生活を与えようとしておられるのです。新しい生活を与えるに当たって、改めて「あなたの神、主を愛しなさい」と語っておられるのです。ならば、それは「あなたの神、主に立ち帰りなさい」という呼びかけでもあるのです。主は今でもあなたの神だから、あなたの神であり続けていてくださるから、だからその主なる神に立ち帰り、主なる神を愛しなさい、と。

 そのように「あなたの神、主を愛しなさい」と命じられていましても、実は私たちが主を愛するということが先にあるのではないのです。その前に、あくまでも「あなたの神」であろうとする神の愛が先にあるのです。罪を赦し、背く者を赦し受け入れて、なおも呼びかけ続ける神の愛が先にあるのです。

 そして、この愛こそが、やがてイエス・キリストをこの世に遣わし、罪の贖いとして十字架にかけられた神の愛に他ならないのです。後に使徒ヨハネがこう言っているとおりです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:10)。そのように、まず神が愛してくださった。だから私たちも神を愛して生きるのです。そこにこそ私たちの幸いはあるのです。そこにこそ私たちの救いはあるのです。ですから、私たちはこのことを自ら心に留め、また繰り返し子供たちに教え、語り続けるのです。

忘れてはならない

 しかし、ここには「更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(8節)とも語られています。敬虔なユダヤ人たちは今でもこれを文字通り守っています。申命記6章4節から9節まで、またその他の聖句を書いた紙を小箱に入れ、それを額と手に付けるのです。それはそれとして意味のあることでしょう。しかし、大切なのは、この勧めが意味するところです。なぜ、手に結び、額につけ、柱にも門にも書き記さなくてはならない、と言われているのでしょうか。それは私たちが愚かだからでしょう。忘れやすいからなのでしょう。

 私たちがどれほど大きな愛をもって愛されているか、どれほど大きな愛をもって主は私たちの神となっていてくださるのか、どれほど大きな愛をもって、「あなたの神、主を愛しなさい」と語られているか、私たちは忘れてしまいやすいのです。人間はそれほどに愚かなものなのです。主がエジプトから導き出してくださっても、また約束の地に導き入れてくださっても、それほどまでに大きなことをしてくださっても、人は忘れてしまうのです。その恵みに基づく命令を忘れてしまうのです。だから「自分の手に結んでおきなさい。額に付けておきなさい。戸口の柱にも門にも書き記しておきなさい」とまで言われなくてはならないのです。

 そのように私たちが愚かであることは、自らの体をもって神の愛を現されたイエス様もご存じだったに違いありません。ですから、イエス様もこう言われました。「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と。そう言って、裂かれたパンを渡されたのです。ご存じでしょう。最後の晩餐での出来事です。「記念として行いなさい」。そのことを繰り返し行わなかったら、忘れてしまうからでしょう。イエス様が自らの体を裂いて渡されるようなことをされたとしても、それすらも忘れてしまうのが人間だからです。

 ですから、教会はイエス様を記念してパンを分かち合うことを行ってきたのです。それが聖餐です。それを二千年間、繰り返し行ってきたのです。ですから、この礼拝堂にも聖餐卓が置かれています。その背後には十字架があるのです。しかも、聖餐は単なる「しるし」ではありません。聖霊のお働きによって、そこにキリストが現臨してくださるのです。キリストが現に私たちに触れてくださり、キリストの贖いの恵みに、現実に繰り返し私たちは与るのです。そうまでしなければ、私たちは忘れてしまうのでしょう。ですから私たちはここにおいて思い起こさなくてはならないのです。キリストの体と血とに与りながら、思い起こさなくてはならないのです。神の愛を思い起こさなくてはならないのです。そして、神を愛して生きることへの招きを思い起こさなくてはならないのです。

 神の愛を忘れやすい、愚かな私たちが、同じように忘れやすい愚かな子供たちに伝えるのです。「あなたの神、主を愛しなさい」と。ならば当然のことながら、それは子供たちを洗礼に招き、聖餐へと招くことをも意味するのでしょう。そして、生涯この聖餐卓から離れてはならないということを教えることを意味するのです。

 
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