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「不正な管理人よ、良くやった」

2007年9月23日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 16章1節~13節

 今日の説教題は「不正な管理人よ、良くやった」です。この一週間説教題が掲示板に貼られていたわけですが、道行く人はどのような思いで見ていたのでしょう。このタイトルは、今日の福音書朗読にありましたように、イエス様のたとえ話から付けられています。まことに奇妙な話です。

奇妙なたとえ話

 イエス様の語られたたとえ話そのものは8節前半までと考えて良いでしょう。こんな話です。ある金持ちに一人の管理人がいました。管理人というのは、主人の財産と商売の一切を託され、取り仕切っている人です。信頼されてその務めを与えられているのです。しかし、その管理人が主人の信頼を裏切りました。財産の無駄遣いが発覚したのです。管理人は主人から責任を問われることとなりました。解雇は確実です。彼は危機に直面することになりました。ここで信用を失った者が、他で同じ仕事に就けることはまず考えられません。とはいえ肉体労働する力もない。物乞いをするのはプライドが許さない。困った彼はいろいろと考えたあげく、ついに名案を思いつきます。「そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ!」

 早速彼は計画を実行に移します。主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に言いました。「わたしの主人にいくら借りがあるのか」。その人は油百バトスの借りがありました。百バトスとは約2300リットル。相当な量です。単なる個人的な借りというよりは、商売における取り引きの話でしょう。管理人は彼に言いました。「これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。」なんと証文の額を半額にしてしまったのです。当然、減額された人は大喜びしたに違いありません。すかさず管理人は言っただろうと思います。「この恩を忘れるなよ」と。次の人にも彼は言いました。「あなたは、いくら借りがあるのか」。小麦百コロスの借金がありました。小麦約2万3000リットル分です。管理人は彼にも言いました。「これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。」そして、彼にも言ったことでしょう。「この恩を忘れるなよ。」

 このように、自分の立場を利用して、不正に不正を上塗りするようなことを管理人がしたという話です。いくら困ったからと言って、こんな阿漕なことが許されてよいのでしょうか。いいや、許されるはずがない。当然そう思います。第一朗読では、アモスの預言が読まれました。「エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう」と悪い商売人たちが言うわけです。だれにも分からないと思っている。けれど神様は見ておられるのです。「わたしは、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない」と主は言われるのです。このような言葉を聞いて育った人たちが、このたとえ話を聞いたなら、この管理人の不正のようなことも神様は許されるはずがない、と当然そう思うでしょう。イエス様の話はある程度先が見えていたことと思います。「しかし見よ、この悪事は主人の知れるところとなった。この管理人は厳しい裁きを免れない。人は蒔いたものを必ず刈り取ることになるのだ!」…と、イエス様が続けると思いきや、なんとイエス様はこう締めくくられたのです。「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」。

 「えーっ、ほめちゃうんですか?!」びっくりするような話です。さて、このおかしな話を通して、イエス様は何を仰りたいのでしょう。続きを聞いてみましょう。

終わりに向かって賢く振る舞う

 イエス様はまずこのように言っておられます。「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢く振る舞っている」(8節後半)。聞く人にとっては、この管理人の「不正」が気になるわけですが、実はここに「賢さ」というテーマがあるのです。主人の言葉を思い起こしてください。主人は何もこの管理人の不正をほめたわけではありません。「抜け目のないやり方」――直訳すれば「賢く行ったこと」をほめたのです。

 彼の賢さとは何でしょう。終わりに備えたということです。成り行きに任せなかった。何とかならないかと考えたのです。必死に考えて、しかも実行したのです。解雇は確実でした。彼は管理人としての終わりに直面していました。しかし、まだ時間があります。何もせずに終わりを待ったのではありません。いわば終わりの先に未来が開けるように、終わりに至るまでに自分の出来ることを探したのです。

 この点に関しては、信仰者よりも世の人の方が優っているではないかと主は言われるのです。この管理人でなくても、危機が訪れた時、破局が近づいた時、まだ時間があるならば、世の人は必死になってどうしたら良いかを考えるではありませんか。しかし、決定的な危機、決定的な終わりというのなら、信仰者の方が本当は「終わり」について聞かされているはずなのです。自分の人生もいつか必ず終わりを迎える。この世もまた終わりを迎える。そして、必ず神の御前に立つことになる。「会計の報告」を出さなくてはならない。自分の人生が問われるのです。自分とこの世界がその決定的な時に向かっていることを信仰者は知っているはずなのです。その時に至るまでに、まだ時間があるならば、ボーッとしていていいんですか。そうではないでしょう。あの管理人のように賢く振る舞うべきではないか。そう主は言っておられるのです。何が出来るのか。何をしなくてはならないのか。そのことを考えるべきなのでしょう。

不正にまみれた富で友達を作れ

 その「賢く振る舞う」ということに関して、避けて通れないのが富の問題なのです。お金の話です。ですからイエス様は続けてこう言われるのです。「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(9節)。イエス様は、誰もが受け入れることができるようなお上品な表現を使いません。極めて大胆な、極めて過激な物言いで私たちに迫ります。

 「不正にまみれた富」。それは必ずしも「不正で得た富」という意味ではありません。「天の宝」に対する「この世の富」というぐらいの意味でしょう。しかし、そこで「不正な」という言葉が使われる意味合いも分からないではありません。というのも、とかくお金のことに関しては汚い話がつきものだからです。一般的に言いまして、信仰の世界では、とかくお金は汚れたものと見られやすいでしょう。なるべく信仰の話題の中ではカネの事に触れないようにしたいと思うのではありませんか。だいぶ前の話ですが、ある人が初めて教会に行った時、礼拝堂に献金袋が回っているのを見るのがとても嫌だったという話を聞いたことがあります。聖なる礼拝の場に、お金の袋が回っていたり、お金の音が響いていたりするのは、なんとなくそぐわないと感じたのでしょう。分かる気がしませんか。ですからどうしても、カネのことはカネのこと、信仰のことは信仰のこととして、分けてしまいたくなるのです。

 しかし、イエス様は言われるのです。この世のカネ、不正にまみれた富だっていいじゃないか。それを友達を作るために使いなさい、と。するとまたその言葉が私たちにはひっかかります。カネで友達を作れですって?イエス様、そんなこと言っていいんですか、と。しかし、「カネで作った友達なんて本当の友達なんかじゃない」などと正論を言う前に、私たちは考えなくてはならないと思うのです。私にしても、皆さんにしても、今こうして生きているのって、誰かがお金を使ってくれたからでしょう。今こうしているのも、誰かの友でいられるのも、誰かがわたしや皆さんのためにお金を使ってくれたからでしょう。ここに会堂が建っていて、誰かの信仰の友でいられるのも、誰かがお金を出してくれたからでしょう。そもそも、日本に信仰の友がいるのは、宣教師を送ってくれた国々の人たちが、お金を使ってくれたからでしょう。私たちはそれぞれ誰かの愛によって支えられて生きている。そうではありませんか。それは抽象的なことではなくて、具体的にお金や時間や労力が費やされ、犠牲が払われることなのではありませんか。

 そして、イエス様は言われるのです。「そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」と。実際に神の国をイメージし、永遠の住まいをイメージしてみてください。そこに皆さんが至るとき、皆さんを喜んで迎え入れてくれる人はいるでしょうか。もし生きている間に、自分のことだけを考えて、自分のために、自分を楽しませるためだけに富や時間や労力を費やしてきた人であるならば、その人を誰かが喜んで神の国に迎え入れてくれると思いますか。それはとても考えにくい。しかし、もし誰も迎え入れてくれないとしたら、まして神様さえ迎え入れてくれないとしたら、それは何と悲しむべきことではありませんか。

 ですから、「不正にまみれた富で友達を作れ」という言葉は極めて過激な表現ではありますが、生きている時に富をどう使うかを考える上で、極めて重要なことを語っていると思うのです。カネは汚いものだから、ただ遠ざけていればよいということではないのです。

 かつてジョン・ウェスレーがこの箇所に基づいて説教をしました。「金銭の使用法」という有名な説教です。そこでウェスレーはこう語っています。「できるかぎり儲けなさい。できるかぎり貯えなさい。そして、できるかぎり与えなさい」と。自分自身と隣人の体や霊魂を傷つけることのない仕方でできるかぎり儲けなさい。肉の欲、目の欲、所有の誇りを満たすために浪費してはならない。できるかぎり貯えなさい。そして、できるだけ与えなさい。自分と自分の家族のためだけでなく、信仰の家族のために、そして全人類のために費やしなさい。それが金銭の使用法であると言うのです。

 主は言われます。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と。

小事に忠実であれ

 そして、さらに主はこう言われます。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか」(10‐12)。

 もちろんお金はあくまでもお金、この世に属するものであり、永遠の価値を持つものではありません。教会に託されているのは、神の国の福音であり、永遠の救いをもたらす言葉です。信仰者が常に目を向けるべきは、この世の富ではなく、永遠の神の国の豊かさです。しかし、確かにお金に関わることは、この世に属することであり、その意味において「小さいこと」とも言えるわけですが、イエス様は「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」と言われるのです。この世の富は、一時的に託されているものに過ぎません。管理人はあくまでも管理人でしかないのです。しかし、その託されている小事に忠実でなければ、大きなことを任せられるか、と主は言われるのです。だからお金との関わりは大事なのです。

 そこでイエス様は最後にこのように締めくくられるのです。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(13節)。

 以上見てきましたイエス様の言葉から分かりますとおり、神に仕えるということは、必ずしも富に関心を向けなくなることでも、富を遠ざけることでもありません。神に仕えるならば、富に「仕えて」はならないということです。富は仕えるべきものではなく、使うべきものなのです。神には仕えなさい。富は使いなさい。そう、賢い仕方で。そのようにイエス様は言っておられるのです。

 この後、讃美歌をうたった後に献金をお献げします。それはお金に関わる私たちの日常をお献げすることを意味します。小事に忠実であるために、金銭のことを含めてどのように生活するのか。そのことを考えつつ、主にお献げいたしましょう。

 
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