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「報いを受けずに幸いになる」

2007年9月2日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 14章7節~14節

上席に着いてはならない

 今日の福音書朗読は食事の席での話です。その前に書かれているところによると、それは安息日のことでした。イエス様はファリサイ派のある議員の家に招待されて、そこで食事をしていたのです。そこにはイエス様だけでなく、他の人たちも招かれていました。招待客の多くは律法の専門家たちや他のファリサイ派の人たちだったようです。見ると招待を受けた客が上席を選んで座ろうとしています。そのことに気付いたイエス様は、こんな話をなさいました。

 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる」(8‐10節)。

 もっともな話です。それはイスラエルにおいて昔から言われていることでもあって、第一朗読で読まれた箴言にも書かれていました。「高貴な人の前で下座に落とされるよりも、上座に着くようにと言われる方がよい」(箴言25:7)。ある意味では、こんなことは誰もが知っていることなのです。普通の神経の持ち主なら、イエス様に言われずとも、まっすぐに上座に向かおうとはしないものです。私たちも、たいていはそのようにしていますでしょう。

 では、イエス様の言われるとおり、まず末席に行って座るようにすればそれで良いのでしょうか。いや、必ずしもそうではなかろうと思うのです。考えてみてください。皆さんが末席に座りながらこう思っていたとしたらどうですか。「わたしは本当は末席に座る人間ではないのだ。だからすぐに誰かが『さあ、もっと上席に進んでください』と言うに違いない。」そして、実際に誰かが上席を勧めます。すると皆さんは「いやあ、そんな、とんでもない」などと言うわけです。しかし、心においては、「そうだ。当然だ。それで良いのだ」と思っていたとする。確かに形の上ではイエス様の言うとおりになりました。しかし、イエス様が求めておられるのはそのようなことではないことは明らかでしょう。

 イエス様は言われるのです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)。重要なのはその心なのです。へりくだる素振りをすればよいのではありません。末席に着く人の心が高ぶりに満ちていることは、いくらでも起こり得ることです。ですから、本当は上席に向かうか末席に向かうかの問題ではないのです。

 そもそも、その家で招待を受けた人たちが上席を選んでいたのはなぜですか。自分こそ上席に相応しいと考えていたからでしょう。自分こそ招待客の筆頭だと考えていたからでしょう。イエス様が使った「高ぶる」という言葉は、「自らを高くする」という意味の言葉です。自らを高くするならば、他の人は自分より下に見ることになります。自分こそ上席に相応しいと思う人は、下座に着く人を下に見るようになるでしょう。意識的に「見下す」つもりではないにせよ、必ずそのような見方になるのです。そのように他の人を下に見ているならば、仮に自分が末席に着いても同じことなのです。

罪人のわたしを憐れんでください

 しかし、これが単に食事の席のことならば、イエス様は彼らの様子を見ても、このような話はなさらなかったかもしれません。実は、これは単に食事の席の話に留まらないのです。「一事が万事」と言います。一つの場面で表に現れる心の姿勢は、他のところにも現れるのです。そして、イエス様にとっては、そちらの方が問題だったのです。

 イエス様は、ここであえて「たとえ話」をなさいました。つまり実際にそこで行われていたのは安息日の食事であったのですが、イエス様はあえて「婚宴に招待されたら」という話に変えたのです。それは目の前にいる人々に対する直接的な非難に聞こえないように遠回しに言って配慮しているわけではありません。あえて「婚宴」の話にしたのです。なぜなら、「婚宴」とか「祝宴」というのは、神の国を表現する言葉でもあるからです。

 つまり彼らの問題は、単に食事の席で「自分が上座に相応しい」と考えていることではないのです。彼らの態度は、常々「神の国において自分が上座に相応しい」と考えていることの現れでもあるのです。つまり「自分こそまさに救われるべき人間であり、神の国に入れられるべき人間だ」と考えているということです。そのように、自分たちこそ、神の国の上座に相応しい人間であると考えるなら、下座に相応しいと見なされる人を見下すことになるでしょう。ましてや、神の国に入れるはずがないと見なされる人に対してはなおさらでしょう。

 このように上席・末席の意識というのは、食事の場面ではなくて、むしろ宗教的な世界にこそ起こりやすいのです。イエス様はその意識を問題にされるのです。既に前の章で主はこう言っておられました。「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」(13:29‐30)。要するに、あなたがたの思った通りなんかにならないよ、と主は言っておられるのです。

 実際、イエス様は後にもっとあからさまにこの問題について語ることになります。そこも見ておきましょう。18章9節以下を御覧下さい。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる』」(18:9‐14)。

 この最後の言葉は、今日の福音書朗読にも出てきましたでしょう。イエス様は、このことを仰りたかったのです。「低くされ」「高められる」のように受け身で書かれている表現に隠れている主語は神様です。神様が低くする。神様が高めてくださる。人間同志の間のへりくだりの話ではありません。神様との関わりにおける話です。神の御前でへりくだるということは、単に「まず末席に着く」というようなことではないのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈った、この徴税人の姿となることなのです。

お返しができない人を招きなさい

 このことを心に留めることは、その後の話を理解する上でも重要です。主はさらに招いてくれた人にも言われました。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(12‐14節)。

 「お返しができない人を招きなさい」とは、要するに「人からの報いを求めるな」ということでしょう。人から報いを受けない方が幸せなのだ、というのです。なぜなら本当の報いは人からではなく神様から来るからです。「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」とはそういうことです。最終的に神の国に入れられるときに、神様が報いてくださるということです。

 ある意味でたいへん分かりやすい教えです。しかし、そうは言いましても、ここでただイエス様の言うとおり、お返しのできない人たちを招いたら、それでよいのでしょうか。もし皆さんが実際にイエス様の言うとおりにして、こう考えたとしたらどうでしょう。「わたしは近所の金持ち連中だけを招いている彼らとは違う。わたしはお返しのできない人をずいぶん食事に招いてきた。わたしは報われない労苦を相当に積んできた。こんなわたしこそ、彼らよりも幸いなのだ。なぜなら、わたしこそ神の国において真っ先に神様に報いていたけるに違いないのだから。」確かに、イエス様の言われたとおりにしたのです。そして、イエス様の言われたように報われることを期待しているのです。人からではなく、神様からです。――しかし、何か変だと思いませんか。イエス様が言っておられる「あなたがたは幸いだ」とは、そのようなことなのでしょうか。

 どうも同じイエス様の言葉を聞くにしても、それをどのような位置に身を置いて聞くかによって聞こえ方がずいぶん違うようです。イエス様の言葉を聞いたこの人は、他の招待された客たちと同じ位置に身を置いているのでしょうか。神の国の祝宴においても自分が上座に相応しいと考えているのでしょうか。私たちは、あの18章に出てくるファリサイ派の位置に自分を置いているのでしょうか。それともあの胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言っていた徴税人の位置に自分を置いているのでしょうか。それによって聞こえ方が違ってくるはずです。私たちはどのようにこの言葉を聞くのでしょうか。

 もし私たちがあの徴税人と同じところに身を置いているならば、イエス様の言葉を聞いた時に、あることに気付くはずです。「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」――招かれてもお返しができない人。ただ御厚意を感謝をもって受け取ることしかできない人。これは神の国における私の姿ではないか!そのことを思わずにはいられないはずです。「罪人のわたしを憐れんでください」。そう祈る私たちが憐れみを受け、罪を赦され、義とされ、神の国に入れられるとは、そういうことではありませんか。私たちは何にも神様にお返しなどできない。お返しのできない私であることを知っていて、あえて神様はこんな私を招いてくださいました。

 私たちは、やがて神の国において、まったくお返しのできない私たちを招いてくださっていた神の恵みの大きさを知って驚愕することになるでしょう。その時になおも私たちは誰かが自分の好意に対してお返しをしてくれなかったことを気にしているでしょうか。私たちは報われなかった労苦を数えて気に病んでいるでしょうか。そんなことはあり得ないでしょう。その時には、この世において報われなかったように見えるいかなる労苦も、ただこんな自分が神の国に招かれていたという一事をもって、完全に報われていることを知るでしょう。「あなたは報われる」とイエス様の言われたとおりです。

 お返しができないわたしが招かれている神の国の祝宴――それを指し示しているのが、この後に行われる聖餐です。ここには、お返しできない者を招き給う神の恵みが満ちあふれています。私たちが、あの徴税人のように、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言って聖餐卓の前に進み出るならば、それが分かるはずです。お返しできない私たちが、キリストの体と血を受けて、お返しできない私たちが神の完全な愛を受け取るのです。そうするならば、そこからわずかばかりでも、報いを求めない愛の業が生まれてくるに違いありません。そうあってこそ、「そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」という言葉をも、しっかりと受け取ることができるのです。

 
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