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「食べるか食べないか」

2007年8月26日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 14章1節~12節

 「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」(ローマ14:3)。パウロはこのようにローマの教会に書き送りました。どうも「食べるか食べないか」でトラブルが起こっていたようです。

 ある事をする人がいる。もう一方である事をしない人がいる。ある事を既にやめた人がいる。ある事をまだやめていない人がいる。すると片方がもう片方を軽蔑したり断罪したりするようなことが起こる。それが分裂や争いに発展していき、共同体が危機に陥いることになる。こういうことは、私たちにとっても、極めて身近な話だと思いませんか。

信仰の弱い人、強い人

 まずローマの教会に起こっていた特定の状況に目を向けて見ましょう。「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです」(2節)と書かれています。そこには肉を食べる人と食べない人がいます。5節をご覧ください。「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます」(5節)。肉を食べるか食べないか、特定の日を守るか守らないか。これが軽蔑や対立を生み出していたことが分かります。

 「野菜だけを食べている人」「ある日を尊ぶ人」――これらがいったいどのような人々であったかはよく分かりません。パウロがコリントの信徒に宛てた手紙にも、肉を食べることを避けた人々の話が出てきます(1コリント8章)。一般的に市場に出回っている食用の肉は、多くの場合、一度異教の神々に捧げられたものでありました。ですから知らずにそのような肉を食べてしまうと、異教の神々と関係を持ってしまうことになると考えたのです。それゆえに肉を食べることを恐れたのです。ローマの教会にも、そのような人々がいたのかも知れません。あるいは当時の様々な思想や他の宗教的な理由に由来する禁欲主義であったのかも知れません。

 いずれにせよ、そのような人々は「信仰の弱い人」と呼ばれております。パウロも一応そのような呼び方を承認しているように見えます。野菜だけを食べ、特定の日を重んじる禁欲的な人々が「信仰の弱い人」と呼ばれていることは奇妙に聞こえるかも知れません。しかし、パウロがあえてそのように呼ぶことを良しとしているのは、彼らの禁欲が本質的には信仰とは無関係なところから来ていたからです。

 ある事柄について「どう思うか」「どう感じるか」ということには、その人の過去の経験が大きく影響します。それは幼い日から受けてきた教育であるかも知れません。あるいは育ってきた家庭環境からの影響であるかも知れません。周りの人々から植え付けられた迷信的な恐怖であるかも知れません。ある過去における強烈な体験やそこで受けた心の傷であるかもしれません。その人が引き摺っているものによって物事の感じ方は違ってきます。ある人にとって些細なことが、他の人にとっては人生の一大事に思えます。ある人には容認できることが、他の人にとっては耐え難いこととなるのです。

 そのような過去から引き摺っているものが、信仰生活にも持ち込まれます。聖書よりも、神の言葉よりも、そちらの方が大きく影響することも起こってきます。その結果、信仰生活にとって本質的に重大ではないことが重大なことであるかのように扱われてしまうことがあります。ある人にとっては肉を食べようが食べまいが、大したことではありませんでした。しかし、他の人にとっては、重大なことだったのです。そこで裁き合いが起こりました。食べる人が食べない人を軽蔑します。食べない人が食べる人を裁きます。だからパウロは、「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」と言っているのです。

 もちろん、パウロは「裁いてはなりません」という言葉をもって、「何をしたって良いではないか」ということを言っているのではありません。確かに信仰生活の根幹に関わることはあります。人間の救いに本質的に関わっていることはあるのです。神との関係に決定的に関わることはあるのです。それらの事柄についてはいい加減にしてはならないのです。そのような事柄に関しては、パウロ自身、「然りは然り、否は否」と言うのです。

 例えば、異端の教説で人々を惑わそうとする教師たちについては、「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気を付けなさい」(フィリピ3:2)とさえ言っています。別な手紙では、「あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい」(ガラテヤ1:9)とまで言っているのです。性的な不道徳を悔い改めようとしない人々について、「そのような生き方もありますよ。彼らを裁いてはなりません」などと言いません。「わたしは体では離れていても、霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています」(1コリント5:3)と言っています。みだらな行いは、聖霊の神殿である体に対して罪を犯すことだからです。

 神との関係において本質的に重要なことは厳しく判断されねばなりません。しかし、考えて見てください。私たちの間に起こってくる裁き合いは、往々にしてそのような事柄を巡ってではないのです。本当に大事なことはいい加減にしておきながら、もう一方で自分が過去から引きずっている感覚や理解に基づいて裁き合っていることの方が圧倒的に多いのです。ほとんどの場合、肉を食べるか食べないか、という次元の争いなのです。

どちらも主のもの

 それゆえ、私たちはここに書かれていることに、よく耳を傾けなくてはならないのです。「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。」なぜでしょう。その理由は明白です。「神はこのような人をも受け入れられたからです。」

 私たちは人を裁きたくなった時、軽蔑したくなった時、この言葉を心の内で繰り返す必要があります。「神はこのような人をも受け入れられたからです。」神が受け入れられたということは、その人は神のものである、ということです。すなわち、神様がその人の主人なのだ、ということです。ですから、パウロはこう言うのです。「他人の召使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか」(4節)。誰かが他人の召使いを裁くならば、その召使いの主人は「あなたのしていることは余計なお世話だ」と言うでしょう。私たちが、食べるか食べないかという次元のことで他人を裁いている時、ほとんどの場合は余計なお世話なのです。普段、永遠の命に関わる本当に大切なことをいい加減にしていながら、やっていることは余計なお世話ばかりなのです。

 しかも、よく考えますと、私たちが人を裁いている時、往々にして私たちは、結局その人に本気で関わっているわけではないのです。ほとんどの場合、その人が立つか倒れるかということを本気で心配しているわけではないのです。本気で関わってくださっているのはだれなのでしょう。それは主御自身です。そして実際、倒れているならば、その人を立たせてくださるのは主なる神なのです。だから、パウロは言うのです。「しかし、召使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです」(4節)。人を本当に立たせるのは、本気で関わろうとはしていない人の不真実な裁きの言葉ではありません。主御自身なのです。

 そして、その人が主のものであるというだけでなく、大事なことは、私たち自身もまた「主のもの」である、ということです。私たちの行動は、他人をどう見るかによって左右されますが、それ以上に、自分をどう見るかによってより大きく左右されるからです。

 私たちは、どちらも「主のもの」なのです。「主のもの」であるならば、本当は「何を」するかということよりも、「誰のために」するのかということの方が重要であるはずです。主のものであるならば、何をするにしても、「主ために」してこそ初めて意味を持つのでしょう。主は単に外側に現れた行動やその結果に関心があるのではありません。その内にある動機をご覧になられるのです。

 ですから、パウロはこのように話を続けます。「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです」(6節)。食べるにしても、食べないにしても、もしそれが主のためだったら、それで良いではないか、ということです。

 私たちはあまりにも目先のこと、目に映ることに捕らわれ過ぎているのです。私はこれをしているのに、あの人はこれをしていない。私はこれをやめたのに、あの人は平気で続けている。いつもいつも自分の行動を他人と比較して、その比較にばかり捕らわれて生きているのです。しかし、本当に大切なことは、他人との比較ではありません。私たち自身の人生に、しっかり一本の背骨が通っているかどうかなのです。「主のものである」という背骨が通っているかどうかなのです。

「主のものである」ということは、単にある事をするかしないか、あるものを断つか断たないか、ではありません。「食べるか食べないか」の次元のことではないのです。そうではなく、パウロと共に次のように言い得ることなのです。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(7-8節)。

 実に、キリストが十字架にかかられ苦しんで血を流して死なれたのは、そして死を打ち破って復活してくださったのは、私たちがそのように言い得るようになるためなのです。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」(9節)とパウロが言っているとおりです。私たちは、十字架で死なれ復活した主の前で繰り返しこう言わなくてはなりません。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」この言葉を何度も何度も繰り返すべきです。そうすれば、食べるか食べないかの次元で争っていることが恥ずかしくなるに違いありません。

 そしてやがていつの日か、それが恥ずべきことであり愚かなことであったと、本当の意味で知る時がやってくるでしょう。なぜなら、最終的に、私たちは主のものとして、神の裁きの座の前に立つことになるからです。そこで問われるのは、食べるか食べないかの事柄ではありません。私たちは主のものであるか、そうではないか、ということです。そして、主のものとしてどのように生きたのか、ということなのです。

 そこで私たちが申し述べることができるのは、他の誰かのことではありません。今はまだ、自分のことから目を逸らして、他の人のことを言っていられるかも知れません。しかし、そのように他の人について語ってはいられない時が来るのです。そうです、その時は必ず来るのです。「わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです」(12節)と書かれているとおりです。

 その時には、自分こそがまさに正しい裁きをなされる方の前に立っていることを知ることになるでしょう。その時には、赦しと憐れみとを本当の意味で必要としているのは、他の誰かではなく、この私であるということを知ることになるでしょう。その時には、心の底から感謝をもって、他ならぬ私のために死んでよみがえってくださった救い主として、イエス様を裁きの座から見上げることになるでしょう。その時には、――そうです、今たとえ裁き合っている者たちであっても、その時には、――共に主の前に膝をかがめ、その舌をもって共に神を誉め讃える者としてそこにいることになるでしょう。

 
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