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「腰の曲がった人の癒し」

2007年8月19日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 13章10節~17節

 18年間、腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった人がいました。高齢のために自然に腰が曲がってきた人ではありません。「病の霊に取りつかれている女」と表現されているのですから、それこそ病的なほど極度に腰が曲がっていたのでしょう。日常生活にも困難をきたしていたに違いありません。腰がひどく曲がってしまったら、前を向くのも難しいでしょうから。また、そのような姿をもって生活しているこの人は、町の人から、それこそ悪いものに憑かれている女として見られていたことでしょう。それが18年間です。決して短くありません。しかし、その人がイエス様と出会いました。主はその女の人を呼び寄せて、「婦人よ、病気は治った」と言って手を置きました。すると「女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した」と書かれています。長い間苦しんでいた人が、イエス様によって癒され解放されたという話です。

 しかし、ただイエス様によって癒されたという話なら、13節で終わりでよいのです。この物語はそこで終わってはいません。本当にルカが伝えたいことは、その後に続く部分のようです。14節にはこう書かれています。「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。『働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」(14節)。この会堂長とイエス様とのやりとりにこそこの物語の重点が置かれていることは、この物語の書き出しからも分かります。「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた」(10節)。このように、ただイエス様が癒しをなさったという話ではなくて、安息日に人を癒された、そのことを会堂長が怒ったという話なのです。

神の御業が見えなくなっている人  会堂長が怒ったのには、もちろん理由があります。安息日については十戒に定められていることがあるからです。聖書には次のように書かれています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(出エジプト20:8‐10)。これが安息日の規定です。ですから、会堂長は「働くべき日は六日ある」と言ったのです。七日目は、働いてはならないのだ、と。

 実際、この「いかなる仕事もしてはならない」という部分については、かなり細かい議論がありました。何がこの「仕事」に当たるかという議論です。例えば、火を焚くことも「仕事」に当たると考えられました。また、医療行為も、この「仕事」に当たります。ですから、イエス様のなさったことは、この医療行為に当たるのであって、安息日の律法に違反すると考えられたのです。だから会堂長は怒りました。癒された方にも怒ったのでしょう。このような律法違反が蔓延してはならない、ということで、「安息日に医療行為を求めるな。働くべき日に癒してもらえ」と言って会堂長は群衆を戒めたのです。

 しかし、ここで私たちは考えなくてはなりません。そもそも「働くな、休みなさい」という命令は実に奇妙な命令です。もともとエジプトの奴隷であったイスラエルの民は、それこそ「働け、働け」という命令は死ぬほど耳にしていたでしょう。「休まねばならない」などと言ってくれる人はいなかったに違いありません。では、なぜ神様はそんなことを命じられたのでしょうか。そもそも何のための休みなのでしょう。

 実は、先ほどお読みした安息日の規定には続きがあるのです。「いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、云々」の後に、こう書かれているのです。「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(11節)。六日の間にこの世界を造られたというのは、ご存じのように、創世記に記されている天地創造物語です。つまり、安息日の律法というのは、神様がこの世界をお造りになったという話に根拠を置いているのです。神様が全部成し遂げられた。七日目というのは、その次の日です。つまり、一から十まで神様がしてくださった。その神様の御業を思う日、それが安息日なのです。

 私たちは、天地を創造し支えておられる神様の御業に包まれて、神様に生かされて存在しているのです。しかしそのことは、私たちが動き続け、働き続けているとなかなか分からなくなります。自分の行為、自分の働きにどうしても思いが向いていきます。そして、それが自分をも他の人をも支えていると思ってしまうのです。だからストップしなくてはならないのです。自分の業を中断して、立ち止まって、休む。すると本当に働いていてくださったのは神様であることが見えてくるのです。そこに神様への讃美、神様への感謝が生まれます。ですから安息日は礼拝の日となります。人間は、本来そのように生きるべき者なのです。そのように、人間が本来の人間の姿を回復するために安息日は制定されたと言えるでしょう。

 そのような安息日に、一人の女性が癒されました。この癒された女の人は、もちろんイエス様に感謝したことでしょうが、これを単にイエス様の医療行為とは見ていなかったことは明らかです。この人は腰が伸びてまっすぐになった体をもって、まず何をしましたか。――神を賛美したのです。彼女はこの出来事に神の御業を見たのです。神の憐れみに満ちた、恵みに満ちた、神の御業を見たのです。

 「そりゃあ、こんな奇跡が起こったら、誰だって彼女のようにするでしょう」。そう思う人がいるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。少なくともこの物語では、そうなってはいません。この会堂長も目の前で18年間腰の曲がった人の体がまっすぐになるのを見たのです。奇跡を目の当たりにしたのです。しかし、そこに神の御業を見ませんでした。神の御業をみて喜びませんでした。人間とはそういうものです。奇跡を経験しても、神様の御業を見ない人は見ないのです。本当は私たちの人生も神の奇跡に満ちているのでしょう。しかし、見ない人は見ない。自分が神の御業によって生かされていることも考えないのです。

 どうしてこの会堂長には見えなかったのでしょう。――休んでいないからです。働き続けているからです。この時だってそうでしょう。彼は立派に会堂長としての務めを果たしているのです。休んでなどいないのです。実際、会堂長になるぐらいの人ですから、安息日の律法のみならず、モーセの律法は皆、一生懸命に守ってきたのでしょう。また律法が守られ、秩序ある共同体が形成されるように、一生懸命努めてきたのでしょう。実際、彼は共同体の秩序を守ってきたという自負があったに違いない。だから少しでも秩序が乱れることは許せなかったのです。安息日の医療行為を黙認したら、他のことにまで及んで綻びが広がっていくと思ったのです。だからすぐさま群衆に釘を刺しました。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」と。

 しかし、考えてみれば、イエス様のなさったことは、律法違反どころか、まさに安息日に起こるべきことを引き起こしているのでしょう。皆が、神の御業を思って喜んだのですから。しかし、私の働き、私の務め、私の責任、ということしか頭になければ、神の御業は見えてこないのです。

 いや、神の御業が見えてこないだけではありません。立ち止まることがなければ、休むことがなければ、一緒にいる人間、隣人も目に入らなくなってくるのです。

 安息日の律法には、先ほどお読みしましたように、「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」と書かれています。「あなた」だけではないのです。息子、娘のみならず、男女の奴隷も、家畜までも入っているのです。男女の奴隷は勝手に休むわけにはいかないでしょう。休ませなくてはならないのです。つまり安息日は、他の人をも視野に入れ、心にかけ、休ませ、共に神の御業を喜ぶ日なのです。家畜のことまで心にかけて休ませる日なのです。町にいる寄留者は、苦しい生活をしているのです。助けてあげなかったら休めないでしょう。安息日は、寄留者の様々な苦労をも思いに留めて彼らを休ませ、共に神の御業を喜ぶ日でもあるのです。

 このようなことは、自分が神の御業の中に憩うことがなければできないことです。神の御業を思い、一から十までただ神の恵みの御業によって支えられ、生かされていることに感謝しなかったら、できないことなのです。そのように神の御業に目を留め、その内に安らぐことがないと、隣人もまた見えなくなってくるものです。

 18年間腰が曲がっていた人は、たまたまこの日だけ会堂にいたのでしょうか。そんなことはないでしょう。この会堂長は初めてこの女性を見かけたのでしょうか。そんなことはないでしょう。恐らくそこに集っていた人も、この会堂長も、もう長い間、その曲がった体を目にしていたはずなのです。前を向くことも困難な、ましてや天を仰ぐことはとうていできない、そんな姿をもって礼拝している姿を、そのような彼女の苦しみを長い間いつも目にしていたはずなのです。

 しかし、どうでしょう。この女性が癒されたとき、この会堂長はどうしましたか。イエスが安息日に病人を癒されたことに腹を立てたのです。「安息日ではなくて、他の日に治してもらえ。安息日はだめだ」と言いました。確かに、わざわざ安息日にいやしてもらうことはない。一日待てば、律法違反にはならない。正論です。しかし、彼の言葉からはっきり分かることがあります。この人は少なくとも、長い間病的に腰の曲がったこの人を見ても、「かわいそうになあ。辛いだろうなあ。いやされるといいのになあ」と思ってきた人ではない、ということです。その曲がった体は目に映ってはいます。しかし、その人は本当の意味では見えていない。人間が見えていない。苦しみや痛みを背負った生身の人間が見えていない。だから、彼女が解放されて喜んで神をほめたたえていても、それが自分の喜びにならないのです。喜ぶ者と共に喜ぶことができない。神の御業を共に喜べないのです。

 このようなことは確かにあると思います。ここを読んで、私自身、身に覚えがあると思わされます。イエス様は言われました。「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(16節)と。確かに、この女性は不自由な体をもってサタンに縛られていたと言えます。そして、彼女は癒され、その束縛から解放されました。しかし、「サタンに縛られている」と言うならば、本当に縛られているのはいったい誰なのか、本当に癒されなくてはならないのはいったい誰なのかと、改めて考えずにはおれません。それはこの会堂長であり、会堂長に同調していた人々であり、またその姿によって映し出されている私たち自身ではないでしょうか。

 実際、この女性に起こった癒しと解放は、この世に必要な癒しと解放が何であるかを指し示している出来事であったと見ることができるでしょう。イエス様のなさった癒しの業は、もちろんそれ自体が神様の憐れみの現れではあるのですが、もう一方においてそれはデモンストレーションでもあるのです。神様がキリストを通してこの世界に与えようとしている救いのデモンストレーション、神の救いを指し示すしるしなのです。

 彼女のかつての姿は、サタンに縛られているこの世の姿です。その人は長い間腰が曲がったままでした。体が極度に曲がっているならば、その目の先にあるのは自分の足もとでしょう。まず目に入ってくるのは自分自身です。前の人や隣にいる人を見るのは難しい。ましてや、天を仰ぐことは困難です。それはサタンに束縛され、神の御業を喜べず、神の御業を隣人と共に喜ぶことのできないこの世の姿です。

 しかし、彼女はイエス様によって解放され、その体はまっすぐになりました。彼女はまっすぐになった体をもって神をほめたたえます。そのように、イエス様はこの世に癒しと解放を与えるために来られました。イエス様は、その十字架と復活をもって、既に癒しと解放を与えてくださっているのです。ここにいる私たちの間に、既にその御業が始まっているではありませんか。私たちは実際、ここで顔を上げて、一緒に神の御業を喜び、神を誉めたたえているではありませんか。確かに私たちが見ているのは、まだ小さなからし種のようなものでしかないかもしれません。しかし、それでも確かに始まっているのです。それは大きな木となるのです。

 
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