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「必要なことはただ一つ」

2007年8月5日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 10章38節~42節

 「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった」(38節a)。何のため。宣教のためです。神の言葉を伝えるためです。神の愛を伝えるためです。神の救いを伝えるためです。神の国を伝え、神の招きを伝えるためです。その宣教の旅も終わりに近づいていることを主はご存じでした。その旅がどこに向かっているかをご存じでした。イエス様はエルサレムへと向かっておられたのです。そこに待っているのは十字架です。イエス様にとっては、神の愛を伝えること、神の救いを伝えること、神の国を宣べ伝えることは、ただ言葉を与えることではありませんでした。まさに神の愛を与え、神の救いを与え、神の国を与えるために、自分自身を、自分の命を与え尽くすことを意味していたのです。今日お読みしました福音書は、そのようなエルサレムへと向かう旅路の途上において起こった一つの出来事を伝えているのです。

何ともお思いになりませんか

 イエス様がその村を訪れるのは明らかに初めてのことではありません。そこにはイエス様が御言葉を宣べ伝えるために場所を提供してくれる一つの家がありました。それはマリアとマルタという姉妹が住んでいる家でした。

 「するとマルタという女が、イエスを家に迎え入れた」(38節)と書かれています。もちろん、迎えたのはイエス様だけではありません。そこには弟子たちがいます。必ずしも十二人だけではありません。この章の始めには72人の弟子たちについて語られています。弟子と呼ばれる人たちは大勢いたのです。またイエス様が来られれば、御言葉を聞くために集まってくる人たちもいたことでしょう。ですから、イエスを家に迎え入れるということは、実はとても大変なことなのです。食事の支度から宿泊の準備まで、為さねばならぬことは山ほどあったに違いありません。とにかく、人々に仕え、彼らの必要を満たさなくてはならないのです。

 しかし、マルタにとって、そこにいた多くの人々に仕えることは、他ならぬイエス様に仕えることに他なりませんでした。人々の必要を満たすことは、すなわちイエス様の必要を満たすことでありました。そして、イエス様に仕え、イエス様の必要を満たすために自分の身が用いられることは、マルタにとって何よりも大きな喜びであったに違いありません。マルタは《イエスを迎え入れた》のです。恐らく何日も前から準備をしてきたのでしょう。その姿を生き生きと思い描くことができるような気がいたします。輝いた笑顔。讃美の歌声。イエス様を迎えるために喜びに溢れていそいそと立ち働いているマルタの姿が目に見えるようです。

 皆さんにも、そのような経験が多かれ少なかれあるのではないかと思います。教会には様々な奉仕の場面があります。人々の目に付かないところにおいて、多くの時間と労力が捧げられています。そのように教会において人々に仕える時、それがすなわちイエス様に仕えることなのだと知るならば、そこには主に仕える大きな喜びがあります。あるいはこの世の中において、隣人に仕えるという場面があるかもしれません。時として大きな重荷を誰かのために、愛をもって担わなくてはならない時があるかもしれません。しかし、この世において人々に仕える時、それがすなわちイエス様に仕えることなのだと知るならば、そこには主に仕える大きな喜びがあります。教会の中であれ、教会の外であれ、いずれにしてもこんな私が主のお役に立てる。こんな私の働きを、主が必要としていてくださる。それは喜びです。私たちの目の前には、しばしば為さねばならないことが山積しています。しかし、それは苦になりません。時を惜しまず、身を粉にして働いても、そこには喜びがあります。このマルタのように、主を迎え入れる者の喜びがあるのです。

 さて、そのように「イエスを家に迎え入れた」マルタであったのですが、その心の中に、やがて一つの変化が起こってきたようです。最初は気にもとめていなかった、姉妹のマリアのことが気になり始めました。人々の必要を満たすために為さねばならないことが山ほどあるのに、それにはまったく無頓着なマリアのことが気になり始めます。主に仕える働きを他人に押しつけて平気な顔をしている人のことが気になり始めます。何もしないで妙に平安な顔をしている人が気になり始めます。そして、ついにマルタは主に訴えるのです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と。

 ちょっと変だと思いませんか?――手伝おうとしないマリアの態度が問題であるならば、マリアの耳をひっぱって部屋の外に連れて行き、「ちょっとは手伝いなさい」言えば済むことでしょう。ところが、マルタはそうしませんでした。確かにマリアの態度は不愉快です。しかし、本当に物申したい相手は、マリアではなくてイエス様だったのです。マルタはイエス様に訴えました。 「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。」

 「何ともお思いになりませんか」――マルタはイエス様に《何かを思って》欲しかったのでしょう。自分一人だけがしんどい思いをしているというこの事態を、少しは気に懸けて欲しかったのでしょう。イエス様は話をしておられ、人々は話を聞いておりました。当然のことながら、イエス様の視線は、聴衆に向けられています。そのイエス様の視線の先に、足もとで話を聞いているマリアもまたいるのです。一方、マルタは、イエス様の視界の外にいるのです。それはマルタにとって余りにも不当なことに思えたに違いありません。わたしが大変な思いをしていること、ぜんぜん見ていてくれない!

必要なことはただ一つ

 そんなマルタの訴えを聞いて、主は静かに口を開かれました。「主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない』」(41‐42節)。

 「マルタ、マルタ」。主は彼女の名前を繰り返して呼びかけました。この呼び方、聞き覚えがありませんか。――と言いましても、「聞き覚えがある」という人は、少なくとも何回か、このルカによる福音書を読んでいる人です。実は、この後に出てくるのです。こんな風に名前を呼んでもらう人がもう一人、22章に出てきます。シモン・ペトロです。

 イエス様が十字架にかかられる日の前夜、最後の晩餐の席において、イエス様はシモン・ペトロにこう言われました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22・31‐32)。

 これはペトロがやがてイエス様を見捨てて逃げていくことを予告した言葉です。弟子たちは皆、襲い来る試練の中で主を見捨てて散って行きます。ペトロもまた、主の弟子であることを三回も否むであろうことを、イエス様はご存じでありました。しかし、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と主は言われます。そのようなペトロのために、主は知らないところで祈っておられたのです。イエス様はペトロのことを心底気に懸けておられたのです。そのイエス様の思いが呼びかけに表れています。「シモン、シモン」――主は、そうペトロに呼びかけられたのです。

 「マルタ、マルタ」――。主はそう呼ばれました。今日お読みした聖書箇所において、イエス様は誰のことを一番気に懸けておられるのでしょう。それは他ならぬマルタです。マルタはイエス様の視界に入っていなかった?イエス様は見ていなかった?――とんでもない!主はマルタが「多くのことに思い悩み、心を乱している」ことを確かに見ておられたのです。そのようなマルタの状態を誰よりも心配し、気に懸けておられたのは、他ならぬイエス様御自身だったのでしょう。

 主はマルタに言われました。「しかし、必要なことはただ一つだけである」。「必要なこと」――それは誰にとって必要なことでしょうか。マルタの関心は、《イエス様にとって》必要なことに向けられていたのです。イエス様の一行と集まった人々の必要を満たすのに、彼女は汲々としていたのです。そうです、イエス様と人々の必要を満たすために為すべきことは山ほどありました。しかし、ここで言われているのは、イエス様にとって必要なことでも、人々にとって必要なことでもないのです。《マルタにとって》必要な一つのことなのです。

 マルタが一生懸命もてなしをしていたこと自体が責められているわけではありません。それは良いことなのです。他者の必要を満たすために身を粉にして働くことは悪いことではありません。それは良いことですし、必要なことでもあります。誰かが行わなくてはなりません。働く人は必要なのです。しかし、そのように働く《マルタにとって》必要なことがあったのです。それは、マリアからだけでなく、マルタからも取り上げられてはならない一つのことなのです。その一つのこととは何でしょうか。

 最初に申し上げたように、主は宣教の旅の途上にあったのです。神の言葉を伝えるために、神の愛を伝えるために、神の救いを伝えるために、神の国を伝え、神の招きを伝えるために、主はそこにおられたのです。そして、現実に神の愛を与えるために、神の救いを与えるために、神の国を与えるために、そうです、そのために自分自身を与え尽くすために、イエス様はエルサレムへと向かっておられたのです。そのように、自らの存在をもって現してくださった神の愛、そして神の愛そのものであるイエス様が自らの命を捧げ尽くして語っておられた御言葉こそが、彼女にとってどうしても必要なただ一つのもの、どうしても失ってはならないただ一つのものだったのです。

 実際、その必要な一つのものが失われてしまう、ということは起こります。マルタだけではありません、私たちにも起こります。「主のために」と言って一生懸命に仕えているうちに、「自分のために」本当に必要なものを見失ってしまうということが起こります。神の言葉を失い、神の愛を見失い、神の救いを見失い、神との交わりにおいて経験される神の国の麗しさを失ってしまう。そのようにして、いつのまにか自分自身を涸れ井戸のようにしてしまうのです。涸れ井戸から一生懸命に水を汲み出せば、泥水を撒き散らすことになるのです。そう、私たちもまた、一生懸命に主のために人のために仕えているつもりでいながら、知らぬ間に泥水を撒き散らすだけの人になっているかも知れません。

 この小さな物語を改めて読みますと、ここにはイエス様が集まった人々に語った言葉は記されていないことに気付きます。足もとに座って耳を傾けていたマリアが聞いた言葉すら記されていません。ただマルタに語りかけられた言葉だけが書き残されているのです。イエス様に苛立ちながら訴えたマルタは、結果として静かにイエス様と向き合い、その語りかけを聞くことになりました。そのように主と向き合い主の言葉を聞くことを最も必要としていたのは、他ならぬマルタであったということをこの物語は示しているのでしょう。主はマルタを心に懸け、マルタが必要なただ一つを失わないでいることを望んでおられました。そして主は、私たちにもそのことを望んでおられるのです。

 
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