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「後ろを振り返らずに」

2007年7月29日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 9章51節~62節

人の子には枕する所もない

 初めに、57節と58節をもう一度お読みします。「一行が道を進んで行くと、イエスに対して、『あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります』と言う人がいた。イエスは言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない』」(57‐58節)

 この人は「どこへでも従って参ります」と言いました。それは真剣な言葉です。簡単には言えない言葉です。真剣に主に従おうとする人に対して、主も真剣に向き合われます。イエス様は彼に安易な招きの言葉をかけられませんでした。主は言われるのです。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と。すなわち、主は、「あなたはどこへでも従ってゆくと言うけれど、その言葉が意味することが分かるか」と問い返しておられるのです。

 「枕する所」それはホームです。主は枕する所のない、文字通りのホームレスでした。ホーム――それは安息の場です。イエス様には、この地上に安息の場はありませんでした。そのことをイエス様御自身が一番良くご存じだったのです。それは51節以下に書かれている象徴的な出来事の中にもよく現れています。

 エルサレムに向かう途中、イエス様とその一行はサマリヤ人の村に宿りを得ようとしました。しかし、村人たちはイエスを歓迎しなかったのです。イエス様も弟子たちも、そこに安息の場所を得ることはできませんでした。そこで弟子たちは腹を立てました。人々から拒絶されたことに腹を立てました。安らぎの場所を得られなかったことに腹を立てました。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」これがヤコブとヨハネの言葉でした。しかし、主は振り向いて二人を戒められました。イエス様にとっては、拒絶され、宿を得ることができず、安息を得なかったことは、何ら腹を立てるべきことでも、驚くべきことでもなかったのです。この地上に安息の場はない。そのことを主はよく知っておられたのです。

 実際、そのようなキリストの歩みは、既に誕生の時から始まっていたと言えます。この福音書だけが伝えているイエス様の誕生の場面を皆さんもよくご存じでしょう。主は産まれた時、飼い葉桶に寝かされたのでした。ページェントに見るような、あんな美しい場面ではありません。聖書には「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(2・7)と書かれているのです。そうです。イエス様はこの世からはじき出され、この世に場所を持たない方として、その人生をスタートしたのです。

 そして、イエス様はその地上の生の終わりに至るまで、安息のホームをこの地上に持たない御方でありました。ルカによる福音書は、主の十字架上の最後の言葉を次のように伝えています。「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます』」(23・46)。主が口にされたこの言葉は、ユダヤ人の間においては何ら特別な言葉ではなく、ごく普通の就寝の祈りの言葉でした。いわば神に語りかける「おやすみなさい」です。主は十字架の上で「おやすみなさい」と言われたのです。イエス様はついに枕する場所を得た。しかし、それは十字架の上でした。地上から数十センチ上げられたその場所でした。すなわち地の上には最後まで本当の意味で枕するところはなかったのです。

 イエス様に従うということは、そのようなホームレス・イエスに従うことなのです。地上に安息の場を得なかった方に従って行くということなのです。人々から賞賛され、人々からの誉れを受け、この地上に安住の地を得、平穏な一生を送るという人生とは、まさに対極へと向かわれた御方に従って行くことなのです。それはある意味で覚悟を要することでしょう。

 しかしそこで私たちには忘れてはならないことがあります。確かにイエス様はこの地上に枕する所を持たなかった。この地上に安息の場を持たなかった。しかし、もう一方においてイエス様は常に安息の場を持っていた。決して安息の場を失うことはなかった、とも言えるのです。主の唯一の安息の場は、この地の上にではなくて、父なる神のもとにこそあったのです。自分を歓迎してくれる人々、自分を迎えてくれるこの地上の場所にではなくて、父なる神のみもと、父なる神との交わりの中にこそあったのです。だから、すべての人に捨てられた十字架の上においてさえ、主は安心して「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言えたのです。十字架の上においてさえ、神に向かって「おやすみなさい」と言えたのです。

 イエス様に従うということは、変わることのない父なる神の内に「枕する所」を持っていた御方に従うことを意味するのです。死においてさえ、その安息の場を失うことのなかったイエス様に従うのです。私たちは主と同じように、目に見えない永遠なる神との交わりにこそ、私たちの安息の場を求めて生きるのです。最終的に私たちもまた「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言える父との交わりの中に生きるのです。そして父の支配のもとに本当の意味で「枕する所」、すなわち神の国における全き救いと安息が備えられていることを信じて生きていくのです。

 私たちは、そのような幸いな人生へと招かれているのです。主が「わたしに従いなさい」と声をかけてくださった。私たちがここに集められているとは、そういうことです。しかし、私たちはそこでさらに聞くべき言葉があるのです。主が何と言っておられるか、共に耳を傾けましょう。

後ろを振り返らずに

 59節以下をお読みいたします。「そして別の人に、『わたしに従いなさい』と言われたが、その人は、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った。イエスは言われた。『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい』」(59‐60節)。

 イエス様はその人に「わたしに従いなさい」と言われました。その人もまた主に従おうと決意していたのでしょう。そこで彼は、「まず、父を葬りに行かせてください」と願いました。父親が亡くなって間もなくのことだったのでしょう。この人の願いは私たちにも十分理解できます。理解し難いのはむしろイエス様の言葉です。主は「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言われたのです。

 もちろん、文字通りの意味ではあり得ません。「死んでいる者たち」というのは、神の国、神の救いに対して目が開かれていない人たち、神との関わりにおいて、信仰的な意味合いにおいて「死んでいる者たち」という意味でしょう。彼らに葬儀のことはまかせよ、と言われているのです。

 理不尽な言葉でしょうか。しかし、ここで冷静になって考えてみますと、確かに、葬儀のことを他の人々に任せるということは、《絶対に不可能なこと》ではありません。誰かが代わりに行うことは可能なことなのです。一方、「わたしに従いなさい」という主の招きに応えることは、本人にしかできないことなのです。他の人が代わりに信じたり従ったりすることはできないのです。一人の人生の方向を決定する一歩は、あくまでも本人が踏み出さなくてはならないのです。そして、それが救いに関わることであるならば、永遠なる神との関係に関わっていることならばなおさらです。

 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と主は言われました。確かに極端な表現だと思います。しかし、それだけにこの言葉は私たちの常日頃の思い込みを根底から覆しにかかってくる言葉であると言えるでしょう。私たちが常日頃疑問にも思っていない人生の優先順位に挑戦してくるのです。あなたが絶対に重要だと思っていること、最優先にしていること、どうしても自分がやらねばならないと思っていること――それは本当に大事なことなのか。それは人生の根本的な方向付けに関わること、そして永遠の救いに関わることよりも大事なことなのか。本当にそれは脇に置けないことなのか。

 キリストに従うということには、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」という主の言葉の前にあえて立つこと、そしてその言葉の前で自分の人生における優先順位を再考することが伴っているのです。

 さらにもう一人の人に主が語られた御言葉に耳を傾けましょう。61節以下を御覧ください。「また、別の人も言った。『主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。』イエスはその人に、『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた」(61‐62節)。

 実は、たいへん良く似た場面が旧約聖書に出てきます。列王記上19章において、預言者エリヤがエリシャを後継者として召し出す場面です。預言者エリヤは、畑を耕していたエリシャに出会うと、彼に自分の外套を投げかけました。これは預言者が自分の後継者を指名する仕草です。「私に従ってきなさい。私の後継者になって私の働きを継承しなさい」ということです。すると、エリシャはエリヤの後を追ってこう言いました。「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」(列王記上19・20)。その時、エリヤは「行ってきなさい」と言ってそのことを許可したのです。その後、エリシャは一軛の牛を屠って料理し、人々に振る舞って食べさせます。そして、「それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた」(同19・21)と書かれてます。

 エリシャは、家族にいとまごいをすることが許されました。しかし、今日の箇所に出てきたその人は、「まず家族にいとまごいに行かせてください」という言葉を退けられました。厳しい。あまりにも厳しい。そう思います。しかし、あえてイエス様がここまで言われたのは、この人についてよくご存じであったからでしょう。他の人はどうであるか分かりません。しかし、《その人にとっては》、家族のもとに行き、家族と顔を合わせ、主に従うことを先延ばしにすることが、まさに「鋤に手をかけてから後ろを顧みる」ことになってしまう。そのことが分かっていたから、主はその求めを退けられたのでしょう。

 「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者」――鋤とはこの場合、牛につけて畑を耕す道具です。鋤に手をかけ牛が動きはじめてから後ろを振り返るならば、耕してできる畝が曲がってしまう。つまり本来進むべき方向にまっすぐに進めなくなるのです。後ろをちょっと見ること、それは小さなことのように思えるのです。しかし、実際に曲がってしまった畝道を元に戻すのは容易なことではありません。

 「まず家族にいとまごいに行かせてください」という求めに対して語られた、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」という主の言葉は、確かに極端に厳しい言葉に思えます。しかし、それだけにまた、私たちの心に切り込んで、大事なことを思い起こさせてくれる言葉でもあるのです。「家族へのいとまごい」の話は、ここにいる私たちには当てはまらないかもしれません。しかし、ここにいる私たちそれぞれにおいて異なるかもしれないけれど、確かに私たちにも、振り返ってはならないことはあるのです。後戻りしてはならないことがあるのです。先延ばしにしてはならないことがあるのです。ちょっとした小さなこと、これくらいのこと、と思えることが、キリストに従う道から、信仰の道から私たちを大きく引き離してしまうということがあるのです。実際、私にも思い当たることがありますが、ここにいる会衆の中でも、そのような経験をした人はいるのではありませんか。

 ならばなおさら、今、ここにおいて再び「わたしに従いなさい」と主によって招かれていることは、恵みなのであり、恵み以外の何ものでもありません。もう後戻りしてはなりません。まっすぐに前を向いて、キリストに導かれながら、神の国における救いの完成を目指して、信仰の道を歩んでいきたいと思います。

 
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