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「百匹の羊のたとえ」

2007年6月24日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 15章1節~7節

 「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは『この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」(1‐2節)。

 神に背いて生きていると見なされていた徴税人や罪人たち。神と私とは何の関係もない、と思って生きてきたのでしょう。神の国?神の救い?そんなもの私には関係ない。そうやって生きてきた彼らが、不思議なことに磁石に鉄が引き寄せられるように、イエス様に引き寄せられてきたのです。「話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」と書かれています。神様の話が聞きたくて。神の国の話が聞きたくて。神の救いが知りたくて。そんな彼らをイエス様は喜んで迎え入れました。喜んで彼らに神の国の福音を語りました。喜んで彼らに神の救いを語りました。そして、喜んで彼らと共に食事をしていたのです。彼らと共に笑い、彼らと共に祈り、彼らと共に神を賛美していたのです。

 しかし、その近くに、この事態を喜んでいない人たちがいました。この光景を見て顔をしかめていたのは、ファリサイ派の人たちや律法学者たちです。神の掟を厳格に守っていた人たち。自分たちこそ、神に従って生きているのであって、神の国は自分たちのものだと思っていた人々です。彼らはイエスの姿を見てつぶやきます。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と。

 そこでイエス様は彼らに三つのたとえ話を語られました。その一つ目が、本日の福音書朗読です。今日はこのたとえにおいて、特に三つの点を心に留めたいと思います。

羊飼いを離れた羊

 その第一は、神を離れた人間の姿が、「見失われた羊」として思い描かれているということです。イエス様は次のように語り始めます。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば…」。イスラエルの人にとって、羊というのは極めて身近な動物でしたから、イエス様が語っている状況というのは、容易に思い描くことができたに違いありません。

 羊は群れを作って生きていきます。羊は弱いからです。羊は自分の身を守るための武器を持っていません。自分で自分を守ることができません。また羊は近眼であるとも言われます。私どもの家族はよく六甲牧場に羊を見に行ったものですが、実際に羊の姿を見ていると面白いものです。草を食べる時には、まったく他のところには目もくれず、無心にただ目の前にある草に食らいつきます。そして、移動する時にも、ただ前の羊の後を追いかけていくかのように動きます。本当に目の前のものしか見えていないかのようです。その羊たちを見る度に、なんとなく人間と似ているなあ、と思ったものです。

 さて、そのような羊の一匹を羊飼いが見失ってしまう、ということも実際に羊を飼っている人ならば、時には経験するようなことだったのでしょう。羊飼いが羊を見失ってしまうということは、何も羊飼いがボーッとしていたという意味ではありません。そうではなくて、羊が羊飼いの声についていかなかった、ということなのです。ヨハネによる福音書にも、やはりイエス様が羊の話をしていますが、そこにはこう書かれています。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」(ヨハネ10:3‐4)。実際にパレスチナの羊飼いは、そのように羊を飼っていたようです。羊飼いが声を上げながら囲いから羊を導き出し、牧草のあるところに連れて行く。そして、再び声を上げながら羊を囲いの中へと導くのです。ところが時として、羊飼いの声を聞いてついていかないで、どこかに行ってしまう羊がいる。すると迷子になってしまうわけです。それがこの見失われた羊です。

 さて、そのように羊飼いについていくのではなくて、自分の行きたい方向に行ってしまって迷子になった羊はどうなってしまうのでしょう。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば…」という話を聴くならば、当然、そこで人々がまず考えることは「ああ、その羊は生きてはいけないだろうな」ということでしょう。羊を飼うということは、草を求めての「移牧」が基本です。草のある場所をさまよい出たら、そこはユダヤの荒れ野です。それは、赤茶けた土と岩だらけの世界です。そのような中で、羊が羊飼いなしで生きていけるはずがありません。傷だらけになって、疲れ果てて倒れるか、獣の餌食になるのが関の山です。

 まさにイエス様が見ていたのは、そのような悲しい人間の姿だったのです。まことの羊飼いのもとを離れた人間の姿。実際には社会生活もしています。多くの人々の中にいるように見えます。しかし、結局は一人で迷いながら、あちらにぶつかり、こちらにぶつかり、傷だらけになって、痛くて痛くて仕方なくて、どこに向かって助けを求めてよいのかも分からなくて、まさにサタンの餌食となりつつある人間の姿です。羊は羊飼いなくして生きていけないのです。

羊を捜し求める羊飼い

 第二は、ここに人間を追い求める神の姿が描き出されているということです。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば…」そして、イエス様はさらに次のように続けます。「九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」

 教会生活が長くなりますと、このような聖書箇所も繰り返し読むことになります。特に有名な話は印象的ですから、ともすると「ああ、またか」と思ってしまって、新鮮な驚きというものが失われてしまうということが起こります。実は、もう何年も前になりますが、ある家庭集会でこの聖書箇所を読みました。そこに定年退職した一人の年輩の男性が来ていまして、その方は生まれて初めてこの箇所を読んだのです。読んだ直後にその人は言いました。「そんなアホな!」しかし、これが本来のあるべき反応なのだと思います。

 イエス様の話には、しばしば「えっ?」と思うような極端な話や以外な話が出てきます。この話も本当はそうなのです。いかにパレスチナの羊飼いが羊を大事にするとしても、やはり九十九匹を放り出して一匹を捜しに行くという話、しかも見つけ出すまで捜し回るという話はやはりどう考えても極端です。普通の人であるなら、ある程度捜して見つからなければ、あきらめて帰るでしょう。他に九十九匹いるのですから。しかし、イエス様が思い描いている羊飼いはあきらめないのです。羊飼いの声を聞かずに、自分勝手に羊飼いを離れた羊。そんな羊をあきらめないのです。求めて、求めて、追い求めて、捜し回るのです。どんなに時間がかかっても、見つけるまで。「そんなアホな!」

 しかし、イエス様は、これが父なる神なのだと言われるのです。間違ってはなりません。この物語の中で言われていることは、迷った羊が羊飼いを求めたという話ではないのです。人間が神を求めているのではなくて、神が私たち人間を求めておられるのです。もとより人間は神様を求めてなどいないのです。私たちは皆、そうなのです。人間は神から来る何か、神様からいただける何かを求めはしますが、神様御自身を求めはしないのです。しかし、そのような私たちを神様が求めてくださったのです。

 私たちが悔い改めて神に立ち帰るべきであるのは、単に私たちに神さまが必要だからではありません。人はいつでもそういう見方しかできない。「私には神様が必要だろうか。この人には神様が必要だろうか」と。しかし、そうではないのです。私たちが立ち返るべきであるのは、神が私たちを、こんな私たちを、どうしてかは分からないけれども、「そんなアホな!」とも思えるけど、ともかく愛して、あきらめないで、追い求めてくださるからなのです。

 そのような神の愛と求め、その究極の姿はどこにあるでしょうか。それはこの話を語っているイエス・キリスト御自身だったのです。荒れ野にまで出て、自ら傷だらけになって、失われた羊を捜し回っている羊飼いの姿。それは他ならぬ神の姿であり、神の愛の現れであるイエス・キリスト御自身の姿なのです。神様が、私たちが傷だらけになって這い蹲っている荒れ野にまで捜しにきてくださったのです。

羊飼いの喜び

 そして第三に、ここには驚くべき神の喜びが描き出されているのです。イエス様の極端な話はさらに続きます。主は言われるのです。「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」(5‐6節)。

 嬉しいのは分かります。しかし、友達や近所の人々を呼び集めて「一緒に喜んでください」と言って大騒ぎするのは、どう考えてもおかしいでしょう。そうです。イエス様は、明らかに普通では考えられない、異常な姿を描き出しているのです。しかし、この異常なまでの喜び、それが神様の喜びなのだ、というのです。

 この物語は大変よく知られていて、日曜学校でもしばしば話されると思います。この物語は紙芝居などにもされます。しかし、たいてい紙芝居などではどうなっているかというと、この羊がメーメーないている。そこで羊飼いがやってくる。羊は大喜びをするという話なのです。しかし、この物語をよく見てください。羊が喜んだ、と書いてありますか。そんなことは書いてありません。喜んでいるのは羊飼いです。喜んでいるのは神様の方なのです。

 そもそもこの話は、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、徴税人たちが神の国の福音を聞かされていることに不平を言っていたところから始まりました。確かに彼らは非常に宗教的な人たちでした。律法を厳格に守っていた真面目な人々です。何も偽善者扱いする必要はありません。彼らの多くは本当に神に従順に生きたいと思っていた人たちなのです。人々から尊敬もされていた、模範的なユダヤ人であり、敬虔な人々なのです。しかし、彼らに明らかに欠けているものがあった。それは何かと言えば、それは「喜び」なのです。彼らの内側に喜びがなかった。なぜでしょうか。――それは神様の喜びを知らなかったからです。

 私たちも、しばしば信仰生活の喜びを失ってしまうことがあるでしょう。どうしてでしょうか。神の喜びを理解しないからです。神の喜びに向ける目を持たないからなのです。「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください。」そのように、人がひとり神様のもとに帰ってくるならば、神は大喜びなさる。あなたは、自分が神様のもとに帰った時、神様がここまで大喜びしておられたことを知っていますか。考えたことがありますか。あなたの隣人が神様のもとに帰ったならば、神様がここまで喜んでくださるということを知っていますか。神様がこの地上にキリストを送られたのは、神様御自身が、私たちを求められたからです。見つけ出したなら大喜びするほどに、私たちを愛し、私たちを求められたからです。信仰生活の喜びとは、単に自分が何かを得て喜ぶという喜びではないのです。そうではなくて、神が喜び給うその喜びを、共に喜ぶことなのです。天において、神と天使たちが大喜びしているその喜びに共にあずかり、一緒に喜ぶことなのです。あの徴税人たち、罪人たちは、天における神の喜びに触れたのです。神の喜びを知ったのです。イエス様は、ファリサイ人たちにも共に喜んで欲しかったのです。

 神様は、私たちがここにいることを喜んでいてくださいます。わたしも、あなたも、神の大きな喜びなのです。天には大きな喜びがあります。主の日の礼拝は、そのような神の喜びを共有する、喜びの祝いです。

 
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