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「聖霊を求める」

2007年5月27日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 11章1節~13節

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(9節)。一度だけではありません。これは「求め続けなさい。探し続けなさい。門をたたき続けなさい」という意味です。そうすれば、「与えられ」、「見つかり」、「開かれる」のです。もちろんここでイエス様は神に求めること、祈ることについて語っておられるのです。神に求め続けるのです。他の誰かにではなく、神に求め続けるのです。他のどこかではなく、神のもとを探し続けるのです。そして、神の門をたたき続けるのです。これが2007年の聖霊降臨祭において私たちに与えられているメッセージです。

何も出すものがないのです

 では、神に求める、そして求め続けるとは、どういうことでしょう。実は、このイエス様の宣言の直前には一つのたとえ話が記されています。この話を受けて、「求めなさい」ということが語られているのです。

 イエス様が語られたのはこのような話です。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」(5‐8節)。

 夜中に友達のところに行き、しつように求め続け、パンをくださいと頼み続けた人の話です。そうしたら友達だからということではなくて、しつように頼み続けたから必要なものを与えてくれたという話です。このたとえ話は私たちに「しつように祈ること」を教えています。諦めないで、祈り続けるということです。

 この男はなぜ友人のところに行ってパンを「求めた」のでしょうか。理由は単純です。自分のところにパンが無かったからです。だから彼は持っている人のところに行って求めたのです。そのように「求め」というものは、欠乏から生じます。さらに言うならば欠乏の自覚から生じると言えます。神様に対してもそうです。欠乏を自覚しない人は求めません。神に求めません。祈りません。

 ところで、そもそもどうして夜中にパンが必要だったのでしょう。それは、夜中に突然人が訪ねてきたからです。理由は書いてありません。いかなる理由にせよ、極めて迷惑な話です。しかし、彼は「面倒をかけないでください。あなたを泊めてあげるわけにはいきません」とは言いませんでした。彼は旅の途中の友人を助けてあげたいと思ったのです。見るからに空腹そうであったので、パンを食べさせてあげたいと思ったのです。しかし、彼は食べさせてあげることができませんでした。彼は何と言っていますか。「何も出すものがないのです。」

 単なる欠乏の自覚ではありません。「何も出すものがないのです」という欠乏の自覚です。つまり、彼の欠乏は「何か出してあげたい」という心から来ているのです。彼が自分のことだけを考えているならば、パンがないことなど気にする必要はありませんでした。旅人が空腹であることなど気にしなければ、自分の持っているものの乏しさなど気にする必要はなかったのです。

 実は、同じことが本日の第二朗読に出てきた人々についても言うことができます。第二朗読では使徒言行録二章が読まれましたが、その冒頭は次のような言葉でした。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」(使徒2:1)。そこにいたのはイエス様が天に帰られて後の弟子たちや婦人たちです。いったい何のために集まっていたのでしょう。一章に書かれていましたように、それは祈るためでした。神に求めるためでした。どうして神に求めたのでしょうか。彼らは無力だったからです。貧しかったからです。

 しかし、そこには百二十人ほどの仲間がいたのです。彼らが自分たちの信仰を保っていくことだけを考え、自分たちの集まりを細々とでも続けていくことだけを考えているならば、自分たちの貧しさや無力さを思う必要はなかっただろうと思います。工夫次第でなんとでもなったでしょうから。しかし、彼らは自分たちのことを考えていたのではありません。イエス様が言われたように、彼らは地の果てに至るまでキリストの証人となってキリストを宣べ伝えようとしていたのです。ならば話は別です。この世に出て行って神の救いを届けるとするならば、どうしても自分の貧しさや無力さと向き合わざるを得なくなります。まさに「何も出すものがないのです」と叫ばざるを得ない。だから神様に求めたのです。

 私たちも同じです。自分の幸いや心の平安のことしか考えない信仰生活ならば、ある意味では自分の貧しさに悩む必要はありません。教会もそうです。ただ現状の維持と存続だけを考えている教会は、自分たちの貧しさと無力さに苦しむ必要はありません。しかし、ひとたび救いを必要としている多くの人々に目を向け始める時、教会がこの世に遣わされているのだという自覚を持ち始める時、身近な人々が命のパンを必要として飢え苦しんでいる事実に目を向ける時、私たちもまた自らの貧しさと無力さに直面せざるを得なくなります。人間を神から引き離し、罪に陥れ、苦しめ、滅ぼそうとしている悪魔の力と闘おうとするならば、どうしても自分たち貧しさや無力さに苦しむことになります。しかし、その苦しみこそが大事なのです。その欠乏の自覚こそが大事なのです。そのような自覚があってこそ、人はひたすら求める者となるからです。

天の父は聖霊を与えてくださる

 さて、この人は、旅人にパンを食べさせてあげたい一心で、友人の家に行って求めました。そして、彼はただ《求めた》だけではなかったのです。彼は《求め続けた》のです。しつように頼み続けたのです。「何も出すものがないのです」と。どうして彼は求めるだけでなく、求め続けたのでしょう。「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしの側で寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません」という言葉を彼は確かに聞きました。しかし、彼は諦めませんでした。それでもなお求め続けました。なぜでしょう。――期待があったからです。彼は信じているのです。必ず戸を開いてくれる。必要なものを与えてくれる、と。

 自らの欠乏を自覚していても、期待を持っていない人は、求めはするけれども《求め続ける》ことはできません。諦めないで祈り続けるために必要なのは《期待》です。エルサレムに集まっていたあの人たちもまた、神に期待し待ち望む人たちでした。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」とありましたが、たまたまその時に集まっていたのではありません。毎日集まっていたのです。一日や二日ではありません。イエス様の昇天から既に十日が経過していました。その間、彼らは祈り続けたのです。

 そのように「求め続ける」ために必要なのは、期待であるゆえに、イエス様は「求めなさい。求め続けなさい」と言われるだけでなく、こんな話をしているのです。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(11‐13節)。

 先ほどのたとえ話では、神様は友人に喩えられていました。しかし、神様は友人以上の御方です。神様は私たちの父親だというのです。「まして天の父は!」と主は言われるのです。この世の親でさえ、たとえ例外はあるにせよ、一般的には子供に良いものを与えようとするのです。それは必ずしも子供が求めた通りの物ではないかもしれません。しかし、それは「良い物」です。ならば、天の父ならなおさらだ、と主は言われるのです。しかも、ここは「天の父は」と書かれていますが、本当は「天からの父は」という、ちょっと変わった表現が使われているのです。「天からの父」というのは、「求めるものに天から応えてくださる父」という意味でしょう。天の父なる神は、求める者に天から良いものを与えてくださる神なのです。

 既に皆さんは今日の箇所が奇妙な終わり方をしていることに気付いておられることでしょう。ルカによる福音書において、イエス様は「まして天の父は求める者に《良いものを与えてくださる》」とは言っていないのです。「まして天の父は求めるものに聖霊を与えてくださる」と主は言われるのです。ここで「聖霊」が出てくるのはいかにも唐突ですし、少々不自然な日本語表現でもあります。しかし、イエス様が言わんとしていることは極めて明瞭です。この世の父親がそうするように、天の父が天から最も良いものを与えようとするならば、何を与えようとするだろうか。――それは聖霊、神の霊に他ならない!イエス様はそう言っておられるのです。

 神様が聖霊を与えてくださるということは、言い換えるならば、そのような仕方において神様が私たちの内に入ってきてくださるということです。それはまた、私たちの人生に入ってきてくださるということでもあります。私たちの体を用いて、私たちの人生を用いて、神様が愛し、神様が救いの御業を行われるということです。

 先ほども言いましたように、私たちが本当の意味で欠乏を自覚するのは、救いを必要としている多くの人々に目を向け始める時なのです。教会が自らの貧しさや無力さを自覚するようになるのは、教会がこの世に遣わされているのだということを意識し始める時なのです。そのようにして自分の力ではどうすることもできない現実と向き合った時、私たちは本当の意味で神に求めるしかないことを知るのです。そこで具体的な助けを祈り求めることも大事でしょう。ある場合には経済的な必要が満たされることを祈らなくてはならないかもしれません。しかし、一番必要としているのは何ですか。私たち自身が神の霊に満たされることではありませんか。神様御自身が、私たちを通して働いてくださることではありませんか。それこそが、神の与え給う最も良きものではありませんか。

 「求めなさい。求め続けなさい。そうすれば与えられる」とイエス様が言われた時、主が弟子たちに一番求めて欲しかったのは、神の霊、聖霊に満たされることだったのです。そして実際彼らは求めたのです。求め続けたのです。そして、聖書は何と伝えていますか。「すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:4)。重要なのはそこで起こった不思議な現象そのものではありません。彼らが聖霊に満たされたということです。貧しかった彼らが満たされました。そして、聖霊に満たされた彼らを通して神が行動を開始されたのです。

 今日は五旬祭に起こったその出来事を記念するペンテコステ(聖霊降臨祭)です。そして、このペンテコステ礼拝において、私たちにも主は語っておられます。「求めなさい。そうすれば与えられる。」そこにおいて重要なのは、欠乏の自覚と神への期待です。

 
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