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「キリストの友」

2007年5月6日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 15章12節~17節

あなたがたを友と呼ぶ

 イエス・キリストは死からよみがえられました。イエス・キリストは今も生きておられます。私たちは単に過去の偉大な人物とその教えを信じているのではありません。私たちは、今も生きて働いておられる救い主を信じているのです。ですから、その御方と私たちとの関係が重要になってまいります。イエス・キリストは、私にとって、皆さんにとって、いかなる御方でしょうか。どのような関係にあるのでしょうか。この問いは決して単純ではありません。ですので聖書は様々な角度から、私たちとキリストとの関係を語っているのです。

 例えば、イエス様は私たちの王として語られています。信仰者として生きるということは、キリストの支配のもとに生きるということに他なりません。聖書にはこう書かれています。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました」(コロサイ1:13)。私たちは王のもとに移されました。私たちはこの上なく強い王のもとにいるのです。その方の支配下にいるのですから、もはや闇の力を恐れる必要はありません。もはや何ものも私たちを滅ぼすことはできないのです。

 また古代の世界において、王はしばしば羊飼いに例えられました。力強い羊飼いが群れを導いていくのです。ですからイエス様も自らを指して「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)と言われました。良い羊飼いは一匹一匹の羊を知っていて、命がけで羊を守り、羊を生かすのです。イエス様は、私たちにとって、そのような羊飼いです。

 あるいは、イエス様は私たちの兄としても語られています。パウロはローマの信徒たちにこう書き送りました。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです」(ローマ8:29)。神様は御子なるキリストを長子とした大きな家族を作ろうとしておられます。私たちはイエス・キリストの兄弟となるために召されたのです。その意味において、イエス様は私たちにとって偉大なる「兄さん」です。

 その他にもいろいろ挙げることができるでしょう。しかし、今日の福音書朗読との関係において特に心に留めたいのは、私たちの《友》としてのイエス様です。これもまた、教会が大切にしてきたイメージです。すぐに思い出しますのは、「いつくしみ深き友なるイエスは」と歌い出す讃美歌312番でしょう。讃美歌にはそれぞれ参照聖句が記されていますが、この讃美歌の参照聖句の一つとなっているのが、今日お読みした聖書の言葉です。まず私たちは15節の言葉に耳を傾けたいと思います。主は言われました。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(15節)。

 イエス様は心の内にあったものを、全部開いて示されました。心の内にあったものを共有させてくださいました。その意味で「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と主は言われたのです。イエス様の心の内にあったのは、「父から聞いたこと」です。父なる神から示されていた、救いの計画です。そのために御子であるイエス様が十字架にかからなくてはならないということ。世の罪が赦されるために、「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)として死んでいかなくてはならないということ。そのようにして多くの実を結ぶために、「一粒の麦」(12:24)として地に落ちて死ななくてはならないということです。「そのすべてをあなたがたに知らせた。あなたがたは友だ。わたしの友達だと、確かにそう言ったよ。」そのように、主は弟子たちに言われたのです。

 そのように最後の晩餐の場所にいたあの弟子たちに語られたイエス様の言葉が、こうして私たちにまで伝えられてきました。どうしてでしょうか。それは代々の教会がこのイエス様の言葉を、自らへの語りかけとして聞いてきたからでしょう。イエス様の十字架の意味が私にも伝えられた。神様の救いのご計画が私にも伝えられた。それはとりもなおさず、イエス様が私を友と見てくださった、ということなのだ。そのように、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」という語りかけを、福音が宣べ伝えられたという事実の中に聞いてきたのです。同じことはここにいる私たちについても言えるのです。私たちがこうして毎週呼び集められていること、私たちにキリストの福音が宣べ伝えられていること、私たちがあの弟子たちと同じように主の食卓の周りにいて御言葉を聞いていること――それらすべては、私たちがキリストの友とされていることの目に見えるしるしなのです。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と主は私たちにも語っておられるのです。

あなたがたは友である

 そのように、イエス様の友として、イエス様の心の内にあったものを知らされてきた私たちとして、今日読まれた聖書の言葉に耳を傾けたいと思うのです。そうします時、その前の13節、14節に書かれている言葉も、私たちに語りかける主の御言葉として響いてまいります。

 主は言われました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)。イエス様は愛についての一般論を語っているのではありません。イエス様は、実際に愛するゆえに文字通り自分の命を捨てようとしておられたのです。これは最後の晩餐におけるイエス様の言葉なのです。イエス様はまさに「友のために」命を捨てようとしておられたのです。「これ以上に大きな愛はない」ならば、これ以上愛しようがないということでしょう。イエス様は友をこれ以上愛しようがないほどに愛されたのです。そして、イエス様は言われたのです。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」。――あなたがたが、わたしの愛した友なのだ、と。

 やがて弟子たちはイエス様が十字架にかけられた姿を見ることになります。そして、やがてその十字架の意味を知ることになります。その時に、あたかも外から眺めるかように、「イエス・キリストは全人類の罪のために死んだのだ」と言えますか。言えるわけないでしょう。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われた方に、「あなたがたはわたしの友だ」と言われてしまったのですから。キリストの十字架の出来事は、自分に対する直接的な語りかけとして聞かざるを得ないはずなのです。「友よ、わたしはあなたのために命を捨てた。これ以上愛しようがないほどにあなたを愛しているから。あなたはわたしの友だから。」イエス様から友と呼ばれている者として十字架の福音を聞くとは、そういうことなのです。

 そして主はさらに言われました。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(14節)。イエス様の命じることとは、12節と17節に語られていることです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(17節)。つまり、「あなたがたが互いに愛し合うならば、あなたがたはわたしの友である」と言われたのです。

 「友と呼ぶ」ことは一方通行でも成り立ちます。友としてかかわることも、友として心を打ち明けることも、一方通行でも成り立ちます。仮に相手が友達だと思っていなくても、こちらが友達として接することは可能でしょう。しかし、友達同士という関係は、一方通行では成り立ちません。友としての交わりは、一方通行では成り立たないのです。わたしが誰かを「友と呼ぶ」ことと、その人が本当に友であるかどうかは、別な話です。その人は私に敵意を持っているかも知れないですから。

 イエス様は、私たちを一方的に友と呼ぶだけでなく、私たちが本当に友であって欲しいと願っておられるのです。イエス様の友であるとはどういうことでしょう。イエス様を愛するということでしょう。イエス様が私たちを友として愛してくださった。その愛に応えて私たちもイエス様を愛する。それがイエス様の友であり、イエス様の友として生きるということであるに違いありません。ではどのようにしてイエス様を愛するのか。イエス様が願っていることを行うことによってです。相手の願いに無頓着であるなら、本当の友とは言えません。では、イエス様は何を望んでおられるのか。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」そう主は言われるのです。そのようにして、私たちはイエス様の友として生きるのです。

あなたがたが実を結ぶために

 そして、さらにイエス様はこう言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(16節)。

 私たちがイエス様の友とされ、イエス様の友として生きるということは、ただ私たち自身にのみ関わることではありません。イエス様の関心は、ここにいる私たちに対してだけでなく、広くこの世に向けられているのです。イエス様は私たちがこの世に出て行って実を結ぶようになることを望んでおられます。そのために私たちを友としてくださり、またイエス様の御名によって父に祈ることができるようにもしてくださったのです。この世に出て行って、実を結ぶためです。

 この実とは何であるか、はっきりとは書いてありません。それは「出かけて行って」と書かれていますから、宣教の実、救いの実と理解することもできますし、より広く、愛の実として理解することもできるでしょう。しかし、その実が何であれ、「わたしが選んだのだ。そして、あなたがたが実を結び、その実が残るようにと、あなたがたを任命したのだ」という言葉は、実にありがたい言葉ではないですか。「いいえ、わたしはとてもそんなことできません。そのような者ではありません」などと言う必要はないのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」とイエス様は言われるのですから。「そんなあなたをわたしは選んだのだ。そんなあなたを友にしたいと思ったのだ」と言われるのです。わたしたちに能力があるかないか、関係ありません。わたしたちが強いか弱いか、関係ありません。わたしたちが若いか年老いているか、関係ありません。男か女か、関係ありません。わたしがイエス様を友にしたのではなく、イエス様が私たちを友と呼んでくださったのです。わたしたちが実を結ぶために!

 ならば大事なことは、ただ一つ。イエス様の友として生きることです。具体的には――17節において、確認するかのように改めて語られています、「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。私たちがそのことに心を用いるならば、私たちの結ぶ実について心配する必要はありません。実は命によって自ずと結ばれるものです。そして、その実は残るのです。

 
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