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「命のパン」

2007年4月29日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 6章34節~40節

 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6・35)。イエス様はそう言われました。これが今日、私たちに与えられている御言葉です。

精神的なパンではなく

 「わたしのもとに来る者は決して飢えることがない。」イエス様がこう言われたのは、実際に飢えている人がいたからでしょう。飢えている人や渇いている人がいないなら、このような言葉は意味を持ちません。

 確かにイエス様の周りには「肉体的に飢えている人」が少なくなかったに違いありません。当時のユダヤ人社会は決して経済的に豊かな社会ではありませんでしたから。イエス様は人々が空腹であることを心に留められました。そんな話が6章の前半には書かれています。イエス様が五千人以上もの人にパンと魚を与えたという奇跡物語が書かれているのです。現実にどのようにパンを与えたのかは良く分かりません。まさに奇跡としか言いようがない。しかし、ともかく大群衆は空腹を満たされました。そして、パンを与えてくれたイエス様の後を追いかけたのです。

 そのような人々を前にして、イエス様は「わたしのもとに来る者は決して飢えることはない」と言われました。しかし、イエス様は追いかけてきた群衆に、「同じ奇跡を行って、いつもパンを出してあげるよ」という意味でそう言ったのでしょうか。まさかこのイエス様の言葉をそのように理解する人はいないでしょう。どう考えても、イエス様は単純に肉体的な飢えや渇きのことを語っているのではない。それは教会学校の子供でも分かります。

 そうしますと私たちはすぐにこう考えるわけです。イエス様は、肉体的な飢えや渇きのことを言っているのではなくて、精神的な飢えや渇きについて語っておられるのだ。確かに、私たちに必要なのは、精神的な満たしであり、精神的な渇きが癒されることだ、と。

 確かにこの国に生きている私たちは、そう考えやすいだろうと思います。実際、「物質的な豊かさを求めて失った心の豊かさ」のような話は、耳にタコができるくらい聞かされていますし、「物質的な豊かさ=幸福」という構図は誰から見ても明らかに時代遅れです。モノが満たされても、現実に多くの人が心の飢えを感じ、心の渇きの癒しを求めています。精神的な充足や癒しを与えることがいくらでもビジネスになる時代に私たちは生きています。そのような私たちがこのイエス様の言葉を聞くと、どうしても「イエス様は精神的な充足や癒し」を与えてくれるのだと思いますし、それがキリスト教信仰であると考えるのも無理はありません。

 しかし、私たちはここでイエス様の言葉を注意深く聞かなくてはなりません。イエス様はこう言われたのです。「わたしが命のパンである」と。イエス様は、「わたしは精神的なパンを与える」と言っているのでも、「わたしが精神的なパンである」と言っているのでもないのです。

 皆さん、「精神的なパン」ならば、この世にいくらでもあるのです。先ほども触れましたように、精神的な満足感や充実感を提供するものはいくらでもありますし、人は精神的な満たしが欲しければ、いくらでも得ることができるのです。そのために、人はお金を出しますし、早起きもし、電車やバスに乗って遠いところにも足を運びます。皆さんが空腹の時におなかに食べ物を入れるように、毎日心を満たすために心に入れているものがあるはずです。どのようなものを心に入れていますか。ちょっと考えてみてください。心の飢えを満たすための精神的なパンは、何種類もあるでしょう。「この世が提供するものなど、みんなジャンク・フードですよ。宗教こそが、唯一まともな食べ物です」などというつもりは全くありません。皆さん、結構良いものを食べていると思います。精神的なパンという意味においては、栄養価豊かなものを食べているのでしょう。

 しかし、そのような「精神的なパン」についてなら、何も今さらイエス様が語る必要もなかったのです。イエス様が生きておられた当時の高度に文化的なギリシア・ローマ世界にも、精神的なパンはいくらでもあったはずですから。イエス様はご自分がそのような精神的な必要を満たすパンであるといわれたのではないのです。イエス様は「わたしが命のパンである」と言われたのです。

命のパン

 では「命のパン」とは何でしょう。実は、今日の朗読箇所の直前において、イエス様はこう言っておられるのです。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(33節)。そのように「命のパン」とは、「命を与えるパン」という意味です。

それは天から降って来て、世に命を与えるのだ、というのです。

 「天から降って来て、世に命を与えるパン」というのは、私たちに全く馴染みのない言葉です。天からパンが降るのを見たことありますか。多分ないだろうと思います。私もありません。しかし、これを聞いていたユダヤ人たちにはピンと来るものがあったはずです。というのも、旧約聖書の中に、天から降ってきたパンの話が出てくるからです。丁度、今日の第一朗読において読まれた箇所です。

 本日の第一朗読において、イスラエルが荒れ野を旅した時の話が読まれました。イスラエルの人々が空腹を訴えた時、神様はモーセを通して、「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる」(出16・4)と言われました。そして、マンナ(マナ)という不思議な食べ物を与えられたのです。こうして彼らは天からのパンによって養われ、旅を続けることができました。その意味において、確かに、神のパンは天から降って来て命を与えた、と言えるでしょう。彼らはマナによって生き延びたのですから。彼らはマナによって命を与えられたのです。

 しかし、神様がイスラエルに天からのパンであるマンナを与えたのは、ただ単に彼らの肉体的な飢えを満たすためではなく、精神的な満足感や充足を与えるためでもなかったのです。そうではなくて、日々神を仰ぎ、神に信頼して生きる生活を与えるためだったのです。ですから、「毎日必要な分だけ集める」(4節)ことを求めたのです。ストックしてはならないのです。毎日、神様からいただくのです。そして、毎日神様に感謝する。その神様に信頼して生きていく。そのように神と共にある生活、神との交わり、それこそが彼らに与えられた命だったのです。

 確かに、食べ物によって肉体の生命が維持されることも大事です。しかし、肉体の命を維持するためのパンは、いつか最後には意味を失います。人は誰でも最後には食べられなくなるのですから。精神的に充足して生きていることはすばらしいことです。活き活きと生きるために、この世が提供する精神的なパンをいっぱい食べることは悪いことではありません。しかし、そのような精神的なパンでさえ、意味を失う時が必ず来るのです。そして最後に残るのは永遠なる神との関係です。人間にとって最終的に意味を持つのは、永遠なる神との交わりなのです。神との交わりによる命なのです。ですからこの命は「永遠の命」なのです。

 この命が与えられなくてはならないのです。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」と主は言われました。この世は天からのパンを必要としています。世に命が与えられなくてはなりません。この世は神との交わりを失った世界だからです。この世に生きる私たちに、どうしても必要なのは、神との交わりなのであり、神との交わりをもたらす「命のパン」なのです。

わたしが命のパンである

 そこでイエス様は御自分を指して、こう言われたのでした。「わたしが命のパンである」と。イエス様は、「あなたがたには命のパンが必要だから、わたしが与えてあげよう」と言われたのではないのです。「わたし自身が命のパンなのだ」と言われたのです。

 イエス様御自身が「命のパン」であるとは、どういうことでしょうか。パンというものは、歯でかみ砕かれて、飲み込まれて、消化されることによって命を与えるのです。言い換えるならば、パンは自らを与えることによって、自らが犠牲となることによって命を与えるのです。そのように、イエス様もまた、自らを与えることによって命を与えるパンとなられたのです。

 ですから、イエス様はこの後で、もっと露骨な表現をもって、御自分の為そうとしていることを語られます。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」(6・53‐55)と主は言われるのです。

 「わたしが命のパンである」――「わたしの肉を食べよ。わたしの血を飲め」。このことが一体何を意味するのか、その時聞いていた者は誰一人理解できなかったに違いありません。しかし、やがて弟子たちはその意味するところを知るに至ります。そして、代々の教会はその意味を伝え続け、私たちにもその意味が伝えられました。イエス様のあの言葉は、後にイエス様が文字通り肉を裂かれ、血を流されることとなった、あの十字架の出来事を指し示していたのです。十字架上のイエス様の姿は、まさに「わたしの肉を食べよ。わたしの血を飲め。わたしが命のパンなのだ」という主の叫びそのものだったのです。

 私たちが神と共に生きるためには、イエス様が死ななくてはなりませんでした。なぜですか。私たちが神との交わりに生きるためには、まず私たちの罪が贖われなくてはならなかったからです。罪は私たちが忘れ去っても消えることはありません。人が忘れても罪そのものは残ります。それは神の御前に残るのです。その罪が神と私たちを隔てます。罪は命をもって贖われねばなりません。そのためにキリストは罪の贖いの犠牲となってくださいました。こうして、主は御自分を与えることにより、私たちに命を与える「命のパン」となってくださったのです。

わたしのもとに来る者は

 しかし、パンが与えられることは、必ずしも飢え渇きを免れることを意味しません。パンを手にしている人が、それでもなお飢えて死ぬことはあり得るのです。その人がパンを食べなかったら、パンが手元にあったとしても飢えて死んでしまうでしょう。

 天の父は私たちに命のパンを与えてくださいました。しかし、そのことは自動的に命の飢えを免れ、滅びを免れることを意味しません。人は「命のパン」のもとに来て、それを食べなくてはならないのです。それゆえに、主は「わたしが命のパンである」と言われただけではなく、さらに次のように言われたのです。「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と。

 「わたしのもとに来る者」が「わたしを信じる者」と言い換えられています。イエス様のもとに来てイエス様を食べるとは、イエス様を信じることです。私たちは、単にキリスト教という宗教を信じるように求められているのではありません。単に聖書という聖典を信じるように求められているのでもありません。単に主イエスの《教え》を信じるようにと言われているのでもありません。「わたしを信じる者は」と言われているのです。私たちはイエス様を信じて生きるために、ここに集まっているのです。単に精神的な満足を得るためではありません。イエス様を信じて、イエス様を食べるために集まっているのです。それを目に見える形で行っているのが聖餐です。そのようにして、私たちは神と共に生きていくのです。私たちは、神と共に生きるために、神との交わりに生きるために、ここにいるのです。

 
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