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「永遠の大祭司」

2007年3月25日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヘブライ人への手紙 5章1節~10節

激しい叫び声をあげ、涙を流しながら

 今日お読みしましたヘブライ人への手紙には、たいへん不思議なことが書かれていました。5章7節を御覧下さい。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブライ5:7)。イエス様が、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら祈っておられる姿、思い浮かべられますか。ここを読んで私たちがまず思い浮かべるのは、十字架にかかられる前夜にゲッセマネの園で祈っておられたイエス様のお姿でしょう。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。そう主は祈られました。聖書はその時の様子をこう記しています。「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(ルカ22:44)。ヘブライ人への手紙の著者がこの言葉を書いた時、恐らく念頭においていたのは、ゲッセマネの祈りであろうと思います。

 さて、「たいへん不思議なことが書かれています」と申しましたが、そう言ってしまうのは、本当は正しくないのかもしれません。死を前にして、激しい叫び声をあげたり、涙を流しながら祈ったりするのは、考えて見れば当たり前のことなのですから。父なる神が死から救う力のあるお方であるならば、その神に向かって叫んだり、その神の前で泣いたりすることは、少しも不思議なことではないはずです。しかし、イエス様でありますと、何となくそのような表現がそぐわないように感じてしまうのはなぜでしょう。

 実は、私自身このゲッセマネの園におけるイエス様の姿に、幼い頃からかなり長い期間、ある種の違和感を覚えていました。それは単に「イエス様は神の子なのに、泣いたり叫んだりしたら変でしょう」ということではありませんでした。私はいわば母の胎にいる時から教会に行っていた者です。幼子であった時からイエス様の受難物語を繰り返し聞いて育ちました。しかし、何度も話を聞いていますから、十字架の三日後に復活することも覚えているのです。ですので、十字架にかかって死なれたのよ、という話を日曜学校の先生などが悲しげな顔をして話してくれても、いつでも心のどこかで(でも、どうせ復活するんでしょ)というような思いを抱きながら聞いていたものです。譬えは悪いですが、何か八百長試合のようにしか聞こえませんでした。最終的に勝つことになっているんだけど、途中は苦戦して見せる…みたいな、そんな話にしか聞こえない。イエス様がゲッセマネの園で「父よ、この杯を取りのけてください」と祈っていても、何かしらじらしく感じてしまって、(十字架にかかっても復活すること、分かってるんでしょ)というようなことを考えていたものでした。

 そのような私が、ゲッセマネの園におけるイエス様の姿に違和感を覚えなくなったのは、自分自身について、あるいは身近な人々について、苦しみの現実にいくばくかでも触れてきたからであろうと思います。「苦しみの現実」と言いますのは、要するに、仮に未来に希望があったとしても、苦しいものは苦しいし辛いことは辛いということです。たとえ死の向こうに希望が見えていたとしても、実際に死を前にして、大声で叫ぶことは少しもおかしいことじゃない。涙を流して祈ったとして、それは全くおかしいことじゃない。イエス様についても、そういう当たり前のことを当たり前に思えるようになったことは、私自身が聖書を読む上で、とても大事なことだったように思うのです。

 キリストは祈っておられた。叫びながら、涙を流しながら祈っておられたのです。死から救ってください、と祈っておられたのです。そのような人間としてはごく自然な姿を、教会は大切に伝えてきたのです。イエス様は私たちとは全く別で、恐れることなく、目の前の十字架にひるむことなく、淡々と死の向こうの復活に向かって行ったかのように、教会はキリストを伝えてきたのではないのです。そのように信じてきたのではないのです。キリストは恐れていた。キリストは苦しんでおられた。死から救ってください、と、キリストは泣き叫びながら、父なる神にすがりついておられたのです。

祈りは聞き入れられた

 そして、そのような祈りについて、こう書かれています。「その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」。そのように父を畏れ敬い、死から救う力ある御方として寄り頼み、ひたすらすがりつくキリストに父は応えてくださったのだ、とヘブライ人への手紙が語るのです。その祈りは「聞き入れられた」のだ、と。

 さて皆さん、どう思われますか。キリストの祈りは本当に聞き入れられましたか。死から救う力ある御方は、聞き入れてくださいましたか。そう、確かに「聞き入れられた」と言うことはできます。キリストの復活を信じている私たちは、そう言うことができる。キリストは死に飲み込まれて滅びてしまったのではなかった、と。父は確かに死から救ってくださった、と言うことができるでしょう。

 しかし、今、あえて「キリストの復活を信じている私たちは」と言ったのには意味があります。信仰によらなければ、そうは見えないのです。信仰にはよらない、この世の目でキリストを見たら、どう見えるでしょう。この世が見たキリストは、十字架にかけられて、死んで葬られたところまでなのです。ですから、信仰によらなければ、先ほどの聖書の言葉はこうなります。――「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげたけれど、その畏れ敬う態度にもかかわらず、その祈りは聞き入れられませんでした。」そうでしょう。十字架にかけられて死んでしまったのですから。墓に葬られてしまったのですから。十字架の下で人々が何と言ってイエス様を罵ったかご存じですか。「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」しかし、イエス様が十字架から降りることができたのは、死んでしまってからだったのです。信頼したって、叫び求めたって、やっぱりダメだったじゃないか、ということになるでしょう。

 実はこのことは、このヘブライ人への手紙を最初に読んだ人たちにとって、決して無縁な話ではなかったのです。彼ら自身、ある意味ではキリストと同じように、父なる神に叫んで、涙を流して、すがりつかざるを得ない人たちだったからです。というのも、既に教会は大きな迫害を経験し、そしてまた新たな迫害が迫っていたという時代だったからです。 迫害の中において、身近な指導者が、あるいは親しい友や家族が捕らえられていく。そのようなことは極めて早い時期から起こっていました。使徒言行録にはペトロが捕らえられたという話が書かれています。その時皆が熱心にペトロの解放と救いを求めて祈ったことも書かれています(使徒12:5)。確かにその時、ペトロは奇跡的に解放されました。しかし、もう一方において、同じ使徒であってもヤコブは斬り殺されて死んだのです。そのように死んでいったのはヤコブだけではないでしょう。その頃においても、あるいは後の時代においても、「神様、助けてください。救ってください」と皆が必死で祈ったにもかかわらず、捕らえられてしまった、殺されてしまった、という人は他にもいたに違いありません。そうしますと、考えようによっては、祈りが足りなかったのか、神への信仰が足りなかったのか、だからあの人は殺されてしまったのか、ということにもなるでしょう。 しかし、それは祈りが足りなかった、熱心さが足りなかったという単純な話ではないのです。というのも、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に祈ったキリストも、しかも信頼と畏れ敬う態度においては完全であったはずのキリストもまた、それにもかかわらず死んでしまったからです。この世の目から見るならば、そうなのです。

 にもかかわらずヘブライ人への手紙は、はっきりとこう宣言しているのです。あの叫びは、あの涙の祈りは、神に「聞き入れられました」と。ヘブライ人への手紙の著者は、その事実を信仰によって見ているのです。主はもはや死の中にはいない。主は生きておられる。完全な命の輝きの中に生きておられる。そして、同じことが私たち自身についても見えてくるのです。祈りは聞かれなかったように見えるかもしれない。信頼は裏切られてしまったかのように見えるかもしれない。しかし、そうではない。復活が見えてくると、死を越えた永遠の命の世界が信仰によって見えてくると、祈りは確かに聞き入れられていることもまた見えてくるのです。

永遠の大祭司として

 とはいえ、先にも申しましたように、信仰によって復活が見えてきたとしても、死を越えた確かな希望が見えてきたとしても、それでも苦しいものは苦しい、辛いものは辛いのです。永遠の命に至るなら、耐え忍ばなくてはならない苦しみが決して無駄な苦しみでないことは分かります。祈りが聞かれていないわけじゃないことは分かります。復活に至る道を歩いているんだということも分かっている。それでも、それで苦しみそのものがなくなるわけではないでしょう。

 だからこそ、ここでイエス様が「大祭司」だということが語られていることが大きな意味を持つのです。「大祭司」とは、今日の聖書箇所にもあるように、もともとは昔の神殿において罪のための供え物やいけにえを献げる務めのために任命された人のことです。そのように、イエス様は私たちの罪を贖う犠牲となってくださっただけでなく、罪のための犠牲を献げ、人々のために執り成す務めを担う永遠の大祭司でもあるのだと語られているのです。

 なぜ犠牲であるだけでなく、大祭司でもあることがそれほど重要なのでしょう。それは、大祭司の務めにおいて、一つの重要な要素は《理解し共感すること》だからです。昔神殿において行われていた大祭司の務めについて、わざわざ「大祭司はすべて人間の中から選ばれ」ということが書かれていました。人間だというのです。それは大祭司自身弱さを持っているということです。「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです」(2節)と書かれているとおりです。イエス様は、そのような大祭司となってくださったのだ、とこの手紙は教えているのです。神の御子であるのに、弱さを身にまとう人間の一人として生きてくださったのです。そして自らは罪のない御方であるのに罪人と同じところに立ち、私たちと同じように死を免れぬ人間として生きてくださったのです。人間の一人として苦しみを味わってくださった。キリストは叫んだのです。泣いたのです。父にすがりついたのです。

 それだけでなく、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」(8節)とさえ書かれています。私たちが信仰によってキリストの復活に目を向けることができるなら、確かに希望を失うことはないでしょう。神は確かに祈りを聞き入れてくださっている。そう語ることもできるでしょう。しかし、それでも苦しいことは苦しいし辛いものは辛いのですから、それでもなお神様に信頼して従順であり続けることは時としてとても困難であることは事実なのです。

 しかし、そのような私たちのために大祭司なるキリストがいてくださる、とヘブライ人への手紙は語るのです。その御方は「御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれ」た御方です。だから分かってくださる。私たちの苦しみも分かってくださる。私たちが無知で迷いやすい者であるということも分かってくださる。そして、この大祭司が分かってくださるならば、生きていけるのです。耐え忍ぶことができるのです。そのような大祭司が執り成してくださるから、私たちは迷っても今一度立ち返り、神に信頼して生き始めることができるのです。多くの苦しみによって従順を学ばれた御方と共に、父なる神に信頼し、従っていくことができるのです。復活に向かって。永遠の命の世界に向かって。

 「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(4:14‐16)。

 
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