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「神の国は来ているのだ」

2007年3月4日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 11章14節~23節

サタンとその支配

 本日の福音書朗読の中で、イエス様がこのように言っておられました。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」今日、私たちには、このイエス様の御言葉が与えられています。

 それはイエス様が「口を利けなくする悪霊」を追い出した時のことでした。その霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたのです。そこにいた群衆はたいへん驚きました。このような悪霊を追い出すという話、福音書の中に繰り返し出てきます。皆さん、このような箇所を読んでどう思われますか。

 ある人は、このような箇所に興味を抱くかもしれません。世の中にはこのような「霊」にまつわる話が大好きな人がいるものです。そのような類のテレビ番組も少なくありません。科学では説明できないような怪奇現象に人々は好奇心をかき立てられます。あるいは好奇心ではなく、このような霊的な事柄に恐怖を抱く人もあろうかと思います。そのような人が「悪霊」にまつわる聖書の記述を読みますと、病気や不幸な出来事を何でもかんでも悪霊の仕業と考えるようになるかもしれません。

 そのように興味を持つにせよ、恐れを抱くにせよ、いずれにしても「悪霊」そのものに関心を向けてこのような箇所を読むならば、聖書が本当に語ろうとしているメッセージを受け損なってしまうように思います。なぜならイエス様の関心は悪霊の存在を指し示すところにはなかったからです。イエス様は悪霊を宣べ伝えていたのではなく、神の国を宣べ伝えていたのですから。

 しかし、そのように悪霊について殊更に興味を持ったり恐れを抱いたりする人がいる一方で、悪霊について全く関心を持たない人もいるものです。このような悪霊についての記述を読みましても、単に古代の迷信として片づけてしまうのです。「昔の人はそう考えていました。現代の私たちには関係ありません」と。しかし、それもまたこのような箇所を読むに際して正しい態度ではなかろうと思います。というのも、それを悪霊と呼ぼうが何と呼ぼうが、そのような言葉や表現の背後には、人間の経験というものがあるはずだからです。自分の力を越えた力、まさに「悪霊」としか呼びようがないようなそういう力に翻弄されるという経験です。

 実際、人間の歴史がこれほど悲惨に満ちているのは、そして、私たちの人生が悲しみと悩みに満ちているのは、ただ単に私たち人間が無知で愚かだからでしょうか。賢くなれば解決するのでしょうか。かつて18世紀の人たちはそう考えました。そして「悪霊」という言葉が実質的に失われていきました。しかし、その後の歴史は、単に愚かさや無知が問題なのではないことを示しているように思われます。破壊的な力が確かに働いているのであり、そのような悪しき力が猛威を振るっている世界のただ中に私たちは生きている。そのような人間としての経験そのものは、イエス様の時代であっても、今日でも少しも変わりません。いや今日の私たちこそ、悪霊のリアリティをひしひしと感じているのではないでしょうか。そのように「悪霊」の問題は、ただ古代の素朴な人々が信じていた迷信として片付けられないのです。

 そこで重要なのは、イエス様がどのように見ておられたのか、ということです。イエス様が悪霊を追い出すのを見て、ある人々は言いました。「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と。「ベルゼブル」というのは、日本語にしますと「家の主(あるじ)」という言葉でして、要するに悪霊の親分です。その親分が宿っているからその力で悪霊を追い出しているのだ、と彼らは言ったのです。するとイエス様は、こう言われました。「あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」(18節)。

 ここでイエス様が「サタン」と言い換えていることに注意してください。ここだけでなく、しばしばイエス様の口に上る言葉です。イエス様はサタンとその王国を見ていたのです。「サタン」とはもともと「敵対者」とか「妨害する者」という意味です。誰に敵対しているのでしょう。もちろん神に対してです。イエス様は、単に病気や災いをもたらす霊の活動を見ていたのではなく、神に敵対する力が働いていること、神に敵対する勢力が人間を支配し、翻弄していることを見ておられたのです。

 サタンの本質は神への敵対にあります。神が愛そのものである御方なら、サタンとは愛に対立する力です。神が人間との交わりを望んでおられるならば、サタンとはその交わりを引き裂き破壊する力です。神が人と人とが愛し合って共に生きることを望んでおられるならば、サタンとは人と人との間に憎しみと敵意を置き、関係を引き裂き交わりを破壊する力です。神が人間を尊い存在として創造し、そのような尊い存在として生きることを望んでおられるなら、サタンとは人間に自らの価値を見失わせ、自分自身を粗末にさせ、自分自身を破壊させる力です。

 皆さん、そのような力が確かに働いていると思いませんか。そのようなサタンの支配が、この世界に猛威を振るっている現実を、私たちは確かに今日も見ているではありませんか。神様がどんなに恵みを現しても、その恵みに背を向けている人間の姿。太陽が照り輝いているのに、光の方を向かないで光に背を向けて、自分の暗い影ばかりを見て歩いているような人間の姿。本当は愛し合って共に生きたいのに、そこにこそ命の喜びがあることが分かっているのに、実際にはなぜか傷つけ合い、憎み合い、殺し合っている人間の姿。自らの尊厳を投げ捨て、自分を傷つけ、痛めつけ、粗末にし、自らを踏みにじるようなことをしている人間の姿。人間が無知だからですか。愚かだからですか。少々賢くなればいいだけの話ですか。いいや、そうじゃない。愛なる神の御心に敵対する力が猛威を振るっているのです。そのような世界の中に私たちは生きているのです。

神の国は来ているのだ

 しかし、私たちはそのような世界の中に捨て置かれているのではありません。イエス様はこう宣言されたのです。「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と。福音書に繰り返し現れる悪霊の追放という行為は、そのしるしに他ならないということです。

 「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。それはどういうことでしょう。イエス様はこんな譬えを語られました。「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」(21‐22節)。もうお分かりでしょう。強い人とはサタンです。人間を捕らえているサタンの力です。人間はそのままではそこから逃れることができません。強い人サタンが武装しているからです。しかし、もっと強い人が来られました。それはキリストです。もっと強い人が来て、武装しているサタンに打ち勝ってくださる。そして、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配されるのです。分捕り品とは人間です。サタンの支配から解放し、神のもとへと、神の国へと奪い取ってくださるのです。サタンの支配が強力であるならば(そして実際それは強力なのです!)、より強い力が及んでこそ、初めてそこに解放が起こるのです。

 間違ってはなりません。イエス様は単に倫理道徳を携えて来られたのではありません。イエス様は単に「良い教え」を携えて来られたのではないのです。そうではなくて、イエス様は、いわば「神の国」を携えてこられたのです。私たちに神の国を与えるためです。私たちが神の国を経験するためです。

 イエス様の宣教は神の国を与えるためでした。イエス様が十字架にかかられ罪を贖ってくださったのも神の国を与えるためでした。イエス様が復活されたのも神の国を与えるためでした。神の国を与えるために、キリストは天に上げられ、神の国を与えるために聖霊を注いでくださいました。私たちがこの世において神の国を経験するために、主は私たちに教会を与えてくださいました。洗礼を与えてくださいました。聖餐のパンと杯を与えてくださいました。私たちがこの世において神の国を経験するために、信仰生活を与えてくださいました。確かにそのすべてが、今ここに、皆さんの目の前に、皆さんのただ中にあるではありませんか。「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と主が言われたとおりです。

 既に来ているのです。サタンが猛威を振るっているこの世に、神の国が入り込んで来ているのです。私たちはこの世において神の国を味わうのです。神に背を向けて生きてきた人が、神の方に向き直るのです。神と共に生き始めるのです。互いに憎みあい敵対しあっていた人々が、そのサタンの力から解放されて、再び愛し合う関係と交わりへと回復されるのです。自分自身を粗末にし、踏みにじり、その人生を泥だらけにしてきた人が、そのサタンの力から解放されて、神の像として創造された自分の尊さに目覚めるのです。そして、尊厳をもって、尊いものとして、自分自身の人生も他の人生をも尊んで生き始めるのです。そうです、神の国は来ているのです。

喜びと希望に満ちあふれて生きるために

 そして、「神の国」と言うからには、中途半端で終わることはありません。「神の国」という言葉は、終末論的な言葉です。それは最終的な完全な救いを指し示している言葉なのです。

 確かに私たちは、この世において神の国を経験することが許されています。しかし、この世における信仰生活において味わう神の国というのは、最終的に神が与えようとしている救いの、ほんの極々一部に過ぎないと言うこともできるでしょう。神の国は来ているのです。しかし、サタンの力がこの世から全く消えて無くなったわけではありません。いわば私たちはまだ戦場にいるのです。戦闘は続いているのです。最終的な勝利、完全な救いについては、私たちは未来に待ち望んでいるのです。

 しかし、それでもなお「あなたたちのところに来ている」と主が言われる神の国を、今この世において味わうということは、決定的に大きな意味を持っているのです。それは私たちが真の希望に生きるために必要なのです。部分的にでも味わったことがなければ、来るべき完全なものを本当の意味で喜び待ち望むことはできないからです。そういうものでしょう。

 例えば、ケーキやクリームや甘いものを全く味わったことがない人がいるとします。その人に「明日ケーキをあげるね」と言った時、その言葉はその人にいったい何を意味するでしょうか。もちろん言葉をもってケーキを説明することはできます。甘いという概念を説明することはできるでしょう。そのようにして「明日ケーキをあげるね」という言葉はいくばくかの期待を生むかもしれません。しかし、その人に、ごくわずかでもクリームを嘗めさせてあげるなら、「明日ケーキをあげるね」という言葉の意味合いは全く変わってくるでしょう。その言葉はその人に大きな喜びとなるに違いない。大きな力となるに違いない。明日までまだ何時間あっても、その間を喜びに満たされて待つことができるはずなのです。

 私たちはクリームを嘗めさせていただいているのです。そして、私たちは知っているのです。完全なるものが待っている、と。私たちの中に善い業を始めてくださった方は、かならずその業を成し遂げてくださる。神の国は中途半端じゃ終わりません。完全な救いが待っているのです。そのような神の国が既に「あなたたちのところに来ている」と主は言っておられるのです。ひたすら神の国を求めましょう。神の国をもっともっと味わわせていただこうではありませんか。喜びと希望に満ちあふれて生きるために。

 
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