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「五つのパンと二匹の魚」

2007年2月18日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 9章10節~17節

宣教の旅から帰ってきた弟子たち

 「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた」(ルカ9:10)。使徒たちとは十二人の弟子たちのことです。「帰って来て」とありますが、彼らはどこに行っていたのでしょう。6節にはこう書かれています。「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。」彼らはイエス様によって使わされ、宣教の旅に出ていたのです。そして、イエス様がしたように、彼らもまた人々の病気をいやしたというのです。恵み深い神が彼らを通して人々に触れてくださったのです。神の御業が現れた。そして、弟子たちは病気に苦しむ多くの人々を助けることができたのです。村人たちは皆、弟子たちに感謝したに違いありません。喜びの涙に見送られながら、村々を後にしたことでしょう。

 しかし、私たちも良く知っているように、人々を助けて感謝されるということが続きますと、往々にしてその心にある変化が生じてくるものです。苦しみを負った人々にではなく、自分の行為にしか関心が向かなくなるのです。「わたしがしてやったのだ。こんなにも多くのことを!」そう心の内につぶやきながら自分の功績を数え初めるのです。

 弟子たちもまた例外ではなかったことを、今日の聖書箇所は伝えています。弟子たちは帰ってきてどうしたと書かれていますか。「自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。」彼らは悩み苦しんでいる人々のことをイエス様に伝えたのではないのです。神様がどれほど恵み深く人々に臨んでくださったかを語ったのでもないのです。本当は人々の現実、そしてそこに現れた神の恵みの御業をこそ報告しなくてはならなかったのでしょう。そして、イエス様と共に感謝の祈りを捧げるべきだったのでしょう。しかし、彼らがしたことはそうではなかった。自分たちの行ったことを「みな告げた」。これは物語を最初から最後まで語り通す時に使う表現です。何かその様子が目に浮かぶようではありませんか。自分のしたことの大きさを互いに競い合いながら得意満面に延々と語り続ける弟子たち。イエス様はそんな彼らの話をじっと聞いていたのでしょう。何しろ十二人もいますから、話を聞くだけでも大変です。

 そしてイエス様はどうしたでしょう。「イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた」と書かれています。自分たちだけで退かれたというのは、明らかに群衆を離れるためです。より正確には、弟子たちを群衆から引き離すためであると言えます。その理由は分かりますでしょう。「わたしがしてやったのだ」と思っている弟子たちが、引き続き群衆に囲まれていることは、弟子たちにとっても群衆にとっても望ましいことではないのです。

 しかし、そのことが群衆に気づかれてしまいました。人々はイエス様の後を追いかけていったのです。もとより群衆と関わることが煩わしいからベトサイダに退こうとしたわけではありません。あまりにも多忙な日々が続いたので休みたかったということでもありません。それは追ってきた群衆に対するイエス様の態度からも窺われます。「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」と書かれているのです。

 人々を迎えるイエス様。ここに使われているのは「喜んで受け入れる」という意味の言葉です。病気や様々な苦しみを背負っている人々が、必死の思いでイエス様を追いかけてきたのでしょう。そのような彼らをイエス様を喜び迎えられた。それは神の国への招きでもありました。イエス様は何よりも「神の国について」語られたのです。神様が恵みをもって治めておられる世界への招き。彼らもまたそこに招かれていることを示すために、恵み深い神様が臨んでくださることのしるしとして、イエス様は病気をいやされたのです。

 そして、イエス様が人々を迎え入れたその場は、弟子たちにとっても忘れがたい大切なことを学ぶ場となったのです。そのことを伝えているのが、その後に続く物語です。

あなたがたが食べ物を与えなさい

 日が傾いてきました。十二人の弟子たちはイエス様に言いました。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」(12節)。弟子たちの提案は実に理に適っています。人里離れた所にいる彼らは、村まで着くのに相当な時間がかかります。早いところ出発しなければ、たどり着くまでに日が暮れてしまいます。そうなれば彼らは空腹のまま夜を過ごすことになるでしょう。

 しかし、イエス様はそこで弟子たちに驚くべきことを求めたのです。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)。これは無茶な話です。男だけでも五千人にのぼる群衆がそこにいるのですから。弟子たちはすぐさま答えました。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」もちろん弟子たちはすべての人々のために食べ物を買いに行くつもりなどありません。要するにこれは「無理です」ということです。パン五つと魚二匹しかないのに、彼らに食べ物を与えるのは絶対に無理です、と。

 そうです。確かに無理なのです。しかし、彼らは一つの大事なことを忘れていました。彼らが宣教の旅へと遣わされた時、彼らは何も持っていなかったのです。イエス様が彼らの持ち物を全部没収してしまったからです。主はそのとき、こう言われました。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」(3節)。そうです。彼らが宣教の旅に出たとき、彼らは何も持っていなかった。彼らは自分の持っているもので人々を助けたのではないのです。ただ恵み深い神が彼らを通して働かれたのです。彼らはそのことを忘れていたのです。いやそのことを忘れて、「わたしがしてやったのだ」と思っていた弟子たちだからこそ、イエス様は彼らがもう一度自らの貧しさと向き合うようにされたのです。自分の持っているものをもってしては助けられない。「パン五つと魚二匹しかありません」と言わざるを得ない。その現実と向き合うようにされたのです。

 そして、パン五つと魚二匹をかかえて途方に暮れる弟子たちに、主は言われました。「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい。」弟子たちはただ主の言われるままに、人々を座らせました。その後に起こった出来事は、次のように記されています。「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」(16‐17節)。

 いったい、そんなことがあるものか。どうしてそんなことが起こり得ようか。そう思う人がいても不思議ではありません。実際、そこで何が起こったのかは、良く分かりません。しかし、この物語が伝えようとしているメッセージそのものは明瞭です。群衆が満たされ、生かされ、神の国の麗しさを体験したとするならば、それは明らかに《弟子たちの持っているものによってではなかった》ということです。キリストからのものによって、群衆は満たされ、生かされたのです。弟子たちは何をしたのでしょう。キリストが祝福し、裂いて弟子たちに渡したものを、ただ一生懸命に汗水流して人々のもとに運んだだけなのです。

 これは弟子たちにとって忘れがたい体験であったに違いありません。ですから四つの福音書すべてに記されることとなりました。それはただ不思議なことが起こったからではないでしょう。それは、弟子たちとはただキリストから受けて運ぶだけの者であり、キリストから受けたものを運んで手渡すところにこそキリストの豊かさが満ちあふれるということを、強烈に体験した出来事だったのです。

 しかし、この時点においてはまだ、弟子たちはキリストから受けたものを運ぶということが何を意味するのかを理解してはいませんでした。彼らは後にそのことを更に深く知ることになるのです。

キリストから渡されて人々に運ぶ

 パンを取り、天を仰いで祈り、それを裂いて弟子たちに渡されるイエス様の姿。それと全く同じ姿を、弟子たちは後に再び目にすることになります。ある家の二回座敷においてです。22章に記されている最後の晩餐の場面です。「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』」(22:19)。そのように、ガリラヤの草の上で裂かれたパンをイエス様から渡された弟子たちは、最後の晩餐の席において、再びイエス様から「これはわたしの体である」という言葉と共に、裂かれたパンを渡されることになるのです。

 そして私たちは、その主の言葉どおりに事が進んでいったことを知っています。「これはわたしの体である」と言われた主は、その言葉のとおり、パンだけでなく、自分自身をも裂いて渡してしまうおつもりでした。――その翌日、主は十字架にかけられて死なれました。イエス様は私たちの罪の贖いのために、自らの体を、自らの命を裂いて渡されました。私たちが罪を赦された者として、神の恵みにあずかり、神の恵みによって満たされ、生かされるために、主は自らの体を、自らの命を裂いて渡されました。あのガリラヤの草の上で起こったことは、後にキリストの十字架において実現することを指し示すしるしに他なりませんでした。

 いや、それだけではありません。この福音書を読んでいきますと、あの最後の晩餐の後にもう一度、同じイエス様の姿を見ることになるのです。パンを取り、賛美の祈りを唱え、それを裂いて弟子たちに渡される姿です。24章に書かれています。二人の弟子たちがエマオの村へと向かっていた時、復活したキリストが現れて彼らの歩みに伴われた。しかし、彼らはそれがイエスであると気づかなかった。彼らはエマオに着くと、それが誰であるか気づかぬままイエスを引き留めて家に招き入れた。そして、こう書かれているのです。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(24:30)。

 復活したキリストがパンを裂いて渡してくださる。そのようにしてキリストが御自分の体を、御自分の命を裂いて渡してくださるのです。代々の教会はそのことを信じて聖餐を行ってきたのです。あのガリラヤの草の上で起こったことは、後に教会がパンを裂くときに復活のキリストがしてくださることを指し示すしるしに他なりませんでした。

 二匹の魚と五つのパンを携えて呆然としている弟子たちの姿――そこに私たちは今日の教会の姿を見ることができるでしょう。自分自身の余りの貧しさに立ちつくしている弟子たちの姿は、他ならぬ今日のキリスト者の姿、私たちの姿です。世界がこんなに苦しんでいるのに、こんなに病んでいるのに、その中にあって、「私たちには与えるに十分なものを持っていません」としか言い得ない。

 しかし、それで良いのです。自分の持っているもので人を救うことができる、自分の力で人を生かすことができるなどと思い上がっているよりは、よほどその方が良いのです。自らの貧しさと無力さに打ちのめされる時にこそ、本当に携えていくべきものが見えてくるからです。私たちはキリストから受け取って、それを運ぶのです。それが教会の務めなのです。キリスト者の務めなのです。キリストが自らを裂いて手渡してくださったキリスト御自身、キリストの命、キリストの救いを、私たちは運んで手渡すのです。弟子たちとはただキリストから受けて運ぶだけの者であり、キリストから受けたものを運んで手渡すところにこそキリストの豊かさが満ちあふれるということを、もっともっと経験させていただこうではありませんか。

 
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