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「あなたの罪は赦された」

2007年2月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 5章12節~26節

重い皮膚病の癒し

 「イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と願った」(12節)。そのようにサラリと書かれています。しかし、こんなこと、本当はあり得ないことです。彼は遠くでひれ伏して叫んだのではありません。その後の展開から分かるように、手が届くところにまで近づいてひれ伏したのです。そんなことは、本来あり得ない。なぜなら、重い皮膚病を病む人は、他の人々に近づくことなど許されていなかったのですから。

 その病気はユダヤ人の社会において「汚れ」と見なされていました。この病気にかかった人は町中に住むことは許されませんでした。人々から離れて生活しなくてはなりませんでした。そして、町を歩く時には、誰かが誤って触れることのないように、「わたしは汚れた者です」と叫びながら歩くことが義務づけられていたのです。この時も、町中でのことですから、人々を避けながら、また人々から避けられながら歩いていたはずです。その彼が掟破りをして、突然イエス様に近づいたのです。もちろんイエス様がお一人でいたはずがありません。弟子たちが周りにいます。その他にもイエス様の周りには大勢の人々がいたことでしょう。その中に彼は飛び込んでいって、すぐ近くまで行ってひれ伏したのです。

 そのような、本来起こり得ないことが起こったのは、そこにいたのが他ならぬイエス様だったからでしょう。ファリサイ派の人や律法学者にならば近づかなかったに違いない。イエス様だから近づいたのです。それはただ単にイエス様が病気を癒すことのできる方だからではありません。「汚れた者よ、立ち去れ」と言われて拒否されるかもしれないのですから。明らかに彼が近づいてきたのは、この御方なら私を拒否しないと思ったからです。この御方なら近づける。人々がわたしを斥けても、人々がわたしを呪われた者と見なしても、この御方だけはわたしを斥けない。そう思ったからです。

 言い換えるならば、彼はイエス様の宣教活動の中に、憐れみ深い神の働きを見ていたということです。汚れていたとしても忌み嫌って斥けるのではなくて、清めてくださる神、そのように恵みをもって近づいてくださる神を見ていたのです。だから彼はその恵みに自らをゆだねてこう願ったのです。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」

 その人に対してイエス様は言われました。「よろしい。清くなれ。」そして、彼の病は癒されました。しかし、彼が受けたのは病気の癒し以上のものでした。そこにはこう書かれています。「イエスが手を差し伸べてその人に触れ…。」――イエス様はその人に触れられたのです。人々はアッと息をのんだに違いありません。汚れた人に触れたら自分が汚れてしまうと誰もが思っていたのですから。だからこの重い皮膚病の人が近づいてきた時、人々は一斉に身を引いたはずです。しかし、イエス様だけは身を引かなかった。誰も近づこうとはしなかったその人にイエス様は手を伸ばし、誰も触れようとはしなかったその人に、イエス様は触れられたのです。この人がイエス様の活動の中に見てきた憐れみ深い神が、彼の心と体に触れた瞬間でした。イエス様の御手を通して神の恵みが触れたのです。

 このように、イエス様が手を伸ばされる場面、イエス様が手を置かれたり、手もって触れたりする場面は、福音書のここかしこに見られます。このようなイエス様の姿が大切に語り伝えられてきました。なぜですか。単に過去のイエス様の姿を伝えるためではありません。いつの時代も生きて働きたもうキリストのお姿を伝えるためです。あの時、病める人に手を伸ばされたように、主は今もその御手を伸ばされる。あの時、重い皮膚病に触れられたように、主は今もその御手をもって触れてくださる。その御手を通して、憐れみ深い神が触れてくださるのです。

 イエス様の伸ばされた手、見たことがありますか。見たことがあるはずです。キリストはこの世界の中に手を持っておられます。体を持っておられます。ご存じでしょう。それは教会です。ここにいる私たちです。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(1コリント12:27)と書かれているとおりです。この地上の体を通してイエス様は私たちに触れてくださるのです。そして、私たちを通してイエス様は人々に触れようとしておられるのです。神の恵みがそのように私たちに触れ、そして私たちを通してこの世に触れるのです。

 実際、私たちは皆、どんな人であっても、恵み深い神が近づいてくださり、神の恵みが触れてくださることを必要としています。そのことを示しているのが続く物語です。中風の人が癒された話です。

 15節に「イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気を癒していただいたりするために、集まって来た」と書かれていました。そのように、イエス様のおられる家は、御言葉と癒しを求める人々でいつもごった返していたものと思われます。その日もそうでした。既に入り口まで群衆でいっぱいです。そこに中風を患っている人が床に乗せられたまま運ばれてきました。もちろんイエス様に癒していただくために連れてこられたのです。しかし、群衆に阻まれてイエス様の近くにお連れすることができません。そこで病人を連れてきた男たちは考えた。そうだ屋根に上ろう、と。彼らは屋根に上って瓦をはがし、イエス様の前に中風の人を床ごとつり降ろしました。驚くべき熱意です。このような友人を持った中風の人はなんと幸いなことかと思います。その病気を癒して欲しい一心で、人の家まで壊すのですから。

 しかし、そのように中風を癒してもらうために男たちは彼を連れてきたのですが、イエス様はその中風の人の苦しみが何であるのか、その魂の底から叫び求めているものが何であるのか、一目で見てとられました。ですから主は「病気を癒してあげよう」と言われたのではなくて、開口一番その人に向かってこう宣言したのです。「人よ、あなたの罪は赦された」。もちろん病気であれば癒して欲しいでしょう。しかし、その人が何よりも切望していたのは、そして彼に最も必要だったのは、罪の赦しだったということです。

 「彼に最も必要だった」と申しました。しかし、実を言えば、これは私たちすべての人間が必要としていることであるに違いありません。病気の癒しが必要なのは病気の人です。ですから体が元気な人ならば、私には病気の癒しは必要ないと言えるかもしれません。しかし、体が元気な人はいくらでもいるかもしれませんが、その魂が全く健やかな人、神から見て全く罪のない人、神によって罪を赦していただく必要のない人はいるでしょうか。いないだろうと思うのです。詩編の中にも、「御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません」(詩編143:2)と歌われているとおりです。

 しかし、罪の問題は体の健康の問題とは明らかに異なります。中風であったなら、病は自覚できるでしょうし、他の人の目にも明らかです。ですから、そこから病の癒しを求めるということも起こってくるでしょう。しかし、人間の罪の問題は、神の目には明らかであったとしても、人間の目に隠されていることの方が多いのです。他の人々の目に隠されているだけでなく、自分の目にも隠されている。自覚できないことの方がはるかに多いのです。

 実際、イエス様が「人よ、あなたの罪は赦された」と宣言した時、そこに何が起こったと書かれていますか。「ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。『神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか』」(21節)と書かれています。このカギ括弧の中の台詞、自分は罪人であると思っている人の言葉ですか。罪の赦しを切望している人の言葉ですか。そうではないでしょう。神のみが罪を赦すことができるということは分かっています。そうです、罪の赦しについて教理的には知っているのです。しかし、それはあくまでも他人事です。自分に関わることとは思ってはいない。罪の赦しについて語っていますが、自分自身が罪の赦しを切望しているわけではないのです。

 ですから、イエス様は彼らにこう問わざるを得なかったのです。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」(23節)。さて、イエス様にとって、罪の赦しを与えることと病気の癒しを与えることと、どちらが易しいのでしょう。その答えは続く物語の展開において与えられています。イエス様は中風の人に言われました。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」すると、その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行ったのです。そのように、イエス様にとっては、罪の赦しを与えることよりも、病気の癒しを与えることの方が、遙かに易しいことだったのです。

 なぜ病気の癒しを与えることの方が易しいのでしょう。病気の癒しを熱心に求める人は少なくないからです。人は病気を癒してくださる恵み深い神は熱心に求めるのです。そして、癒しを差し出されるならば、大喜びで、感謝をもって受け取るのです。いや究極的には、本人に受け取る意志がなくても、癒しは強制的に与えることもできます。そして、病気が癒されれば体は健やかになります。

 しかし、罪の赦しについてはそういかないのです。罪の赦しの本質は交わりの回復です。そして、神との交わりの回復ということは、神がいかに恵み深く臨んだとしても、一方通行では成り立たないのです。交わりとはそういうものでしょう。「あなたの罪は赦された」という言葉だけでは意味をもたないです。「あなたの罪は赦された」という宣言が真に意味を持ち、その言葉によって人が立ち上がって神と共に生きるには、人間の側の罪の自覚と悔い改めがどうしても必要なのです。

 ですから、イエス様にとっては、自分は正しい人間であると思い込んでいるファリサイ派の人々や律法学者こそ、最も難しい存在だったのです。彼らと関わるより、おびただしい数の病人に関わって癒す方が、はるかに容易なことだったのです。イエス様には、癒すことのできない病気はありませんでした。追い出すことのできない悪霊もいませんでした。しかし、イエス様であっても、罪を認めさせることのできない罪人は数多くいたのです。人間の頑迷さは、イエス様の宣教の働きの前に、最後まで強固に立ちはだかっていたのです。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」。イエス様にとっては、「起きて歩け」と言う方がはるかに易しいことでした。

 しかし、イエス様には分かっていたのです。その容易ならざることのためにこそ御自分来られたということ。人に罪の赦しを与え、人が神との交わりに生きるようになるためにこそ主は来られたということ。そのためにこそ、神の権威が与えられていたこと。そのためにこそ、命を捧げなくてはならないこと。十字架へと向かわなくてはならないこと。主はそのしるしとして、この中風の人を主は癒されたのです。イエス様を通して、憐れみ深い神が何よりも罪の赦しをもって働いていることを示すために。

 そのようなキリストが、今も生きて働いておられるのです。今も手を伸ばしておられるのです。今も罪の赦しを宣言されるのです。「あなたの罪は赦された」と。教会はそのようなキリストの体です。罪の赦しを宣言し、神との交わりを回復させるために、今も働いておられるキリストの体です。神の恵みがそのように私たちに触れ、そして私たちを通してこの世に触れるのです。

 
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