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「種まきのたとえ」

2007年2月4日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 8章4節~15節

なぜ「たとえ話」か

 今日の福音書朗読はイエス様の語られたたとえ話です。ところで、イエス様は何のためにたとえ話をされたのでしょうか。「イエス様は身近な題材を用いて人々に分かりやすくお話しになられました」と言う人があります。確かに福音書を読みますと、そのようは話がないわけではありません。しかし、今日の朗読された箇所はどうでしょう。実際に群衆に語られたのは5節から8節です。それだけ言って「聞く耳のある者は聞きなさい」と言って締めくくっているのです。分かりやすい話ですか。必ずしもそうとは言えないでしょう。

 そもそも、分かりやすい話だったら、弟子たちが「このたとえはどんな意味か」なんて尋ねるはずがありません。“新来会者”だから分からないのではなくて、もう何度もイエス様の話を聴いている弟子たちでさえ分からなかったということです。そのようにたとえの意味を尋ねた弟子たちに、イエス様は言われました。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである」(10節)。なんとイエス様は、神の国の秘密を悟られないように、たとえを用いてわざと分かりにくくしているのだと言うのです。

 しかし、私たちはここで幾つかの事実を心に留めておかねばなりません。第一に、イエス様は最初から《たとえ話》を用いていたわけではない、ということです。イエス様がガリラヤにおいて宣教を開始された頃の様子は4章に記されています。イエス様は町々の会堂を巡って教えておられました。たとえ話をしていたわけではありません。その一例を4章16節以下に見ることができます。ナザレの会堂で、イエス様はイザヤ書を朗読して、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められました。イエス様の話は容易に理解できたのです。ですからまた、イエスの過激な言葉に対する反発も大きかったと言えるのです。そのようにイエス様の宣教活動の初期には、たとえ話はほとんど用いられなかったと思われるのです。

 そして第二に、イエス様の宣教によって人々は次第に二通りに分かれていったということです。一方では、イエス様に従っていく人たちがいました。しかし、もう一方においては、イエス様の言葉を批判的に聞いている人たち、さらにはあからさまに敵対する人たちも起こってきたのです。

 これが、イエス様がたとえを用いて話すようになった背景です。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ」――この「あなたがた」とは、イエス様の弟子たちです。イエスの言葉を受け入れて従おうとしている人たちです。もう一方で「他の人々」と主が言われる時、そこには冷ややかに主の言葉を聞いてきた人たち、敵対姿勢を取ってきた人たちがいることが想定されているのです。彼らには、ますます分からなくなるように、「たとえ」を用いて語るのだ、と主は言われるのです。「『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである」と。

 実際、「たとえ話」というものは、そのような性質の話であろうかと思います。イエス様のたとえ話というものは、冷ややかに、客観的に、批判的に、外から眺めるようにして聞いていても、ちんぷんかんぷん、さっぱり分からないような話であるに違いありません。外に身を置く限り、「種まきのたとえ話」は、この世の農夫の話でしかないのです。しかし、イエス様に従おうとする者として、この「わたし」に語りかける言葉として、その中に身を置いて聞く時に、いろいろ見えてくることがある――それがたとえ話しというものです。その中に身を置かなかったら分からない。だからイエス様に対する姿勢によって、悟る者と悟らない者に分かれていくのです。イエス様は、それを意図して語っているのです。

 そして、そもそも聖書のメッセージそのものが、そのような性質のものであるように思うのです。身を置かなければ分からない。外から眺めていても分からないのです。「キリスト教ではこういう考え方をするんですね。他の宗教では、これとはまた違った考え方をしますよね」というように、宗教一般の話をしている限り、恐らく聖書が語っていることは「難しい」か、あるいは「ピンとこない」ということにもなろうかと思います。しかし、その人が「わたしはこう思った」「わたしはこう感じた」「わたしはこう受けとめた」と言い始める時、そして聖書の言葉を前にして、自分自身について語りはじめる時、事態は変わってくるものです。自分自身を連れてきて、自分の身を置いて、初めて見えてくることがあるのです。それはこの礼拝の説教にしても同じです。

種が実らない土地

 さて、そのようにイエス様はここで「たとえ」を用いて語りはじめるわけですが、「たとえ話」そのものは5節から8節に、そしてその説明が11節以下に記されております。イエス様は四種類の土地について語られました。一つは道端、一つは石地、一つは茨の中、最後に「良い土地」です。「四種類の土地」と申しましたが、実はイエス様は互いに離れた四つの別な場所について語っているのではなく、一つの畑の話をしているのです。

 道端というのは、人が通って踏み固められた、畑の中に出来た道のことです。また、石地も同じ畑の中です。パレスチナの写真などを見ますと、もともと畑には石がとても多いようです。その石を一生懸命取り除きます。それが石垣の材料となったりもします。しかし、全部の石を取り除くことは到底出来ません。石がかなり残ります。ここで言われているのは、そのような石の上に薄く土が残っている場所のことです。また畑には茨も生えてきます。茨は深い所に根をはっています。もともと灌漑を行わなかった当時の農耕では、深く耕すことをしませんでした。水分が蒸発してしまうからです。ですから深い茨の根はどうしても残ります。それが麦と一緒に延びてくるのです。

 このように、これらは一つの畑の話です。そこに種を蒔くのです。種の蒔き方は、今日の標準からすれば、かなりいいかげんな蒔き方です。畑の上に、適当にばらまくのです。それから少し耕します。そのようにして種が若干土で覆われます。もちろん、適当にばらまきますから、道の上にも落ちることがあります。そこは耕しません。ですから種が土で覆われることもありません。結果として鳥の餌になってしまいます。また、先にも申しましたように、灌漑をしませんから、雨期になるまでは、種は地中の水分で育たねばなりません。石の上の種は、芽は出るのですが、残念ながら干涸らびてしまいます。ばらまいた種が、茨の根のあるところに落ちることもあります。茨が一緒に伸びてくれば、そちらの方が強いので麦は実りません。

 このような蒔き方ですから、収量もそれほど多くはなかったようです。ある人の説明によれば十倍の収穫があったら豊作と見なされたそうです。ですから「百倍の実を結んだ」という話はあまりにも極端なのです。イエス様はときどきこういう極端な話をなさいます。

 さて、この話の中に自分自身の身を置きますと、いろいろな意味で自分自身の信仰生活が見えてまいります。さらに18節以下のイエス様の解説を読みます時、非常に耳の痛い話として響いてくるかもしれません。

 「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。」――「ああ、これはまさしくわたしだ。いつも教会を出て坂を下る頃には、既に悪魔に御言葉をもっていかれて何にも残っていない。まさにわたしは道端だ」。

 「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。」――「確かに御言葉を聞いた時は、ハレルヤ!って言って喜ぶんだけど、どうも続かないんだよなあ。御言葉の種が芽を出したと思ったんだけれどなあ。ちょっと嫌なことがあっただけで、しおれてしまう。私は石地だなあ」。

 「そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。」――「私の心は茨が伸び放題。これじゃあ御言葉が蒔かれても実るはずがないなあ」。

あなたがたは百倍の実を結ぶ

 そのように、私たちが自分自身をこのたとえ話の中に置いて、自分が道端であるのか、石地であるのか、茨だらけの地であるのか、そのことを省みることは大事なことでしょう。 しかし、話はそれで終わってはいないのです。イエス様は、良い地についても語られたのです。そして、誰もが耳を疑うような、極端な話をされたのです。「また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」と。明らかに話の中心は他の三つのケースにではなく、この最後のケースにあるのです。

 先にも申しましたように、道端も石地も茨の地も良い地も、それぞれ別の場所にあるのではなくて一つの畑の話です。ですから、道端が永遠に道端とは限りません。次の年には、石だらけの土地から石が取り除かれているかもしれません。茨が次の年にも生えているとは限りません。どれも皆、良い土地となり得る、畑の一部なのです。そして良い土地となるならば百倍の実を結ぶのです。

 百倍の実を結ぶ――それは先にも触れましたように実に極端な数字です。自然なことではありません。もしそのような事が起こるとすれば、それは明らかに神の御業です。イエス様は、神の御業について語っておられるのです。聖書を道徳として学んで、あるいはそこから人生訓を聞き取って、自分自身を反省して、少々良い人間になるということも、あるいはあるかもしれません。しかし、そのような自然な実りは、豊作であってもせいぜい十倍なのです。もちろん何も実らないよりはましかも知れませんが、イエス様はそのような自然な実りについて語っておられるのではないのです。百倍の実を結ぶというのですから。それは神の御業です。

 神の言葉が種として蒔かれると、人の内に神の御業が現れるのです。人を通して、神の愛の御業が現れるのです。私たちの生来の性質が少々改善されるというような話ではなくて、神の愛の実が実るのです。そのようにして、私たちのささやかな人生を通して、神御自身が働かれるのです。神の言葉という種は、そのような驚くべき可能性を内に秘めているのです。

 そのような種が既に蒔かれているのです。人はずっと道端であり続ける必要はありません。ずっと石地である必要はありません。ずっと茨の生い茂った土地である必要はありません。せっかく種が蒔かれているのに、それではあまりにもったいない。神の御業がこの地上に現れるようにと、神の種が蒔かれているのに、それが無駄になってしまうのでは、あまりにもったいないでしょう。種は百倍の実を結ぶのです。

 御言葉の種は蒔かれました。そこで重要なのは《どう聞くか》です。主は人々にたとえ話を語られた時、最後に大声で言われました。「聞く耳のある者は聞きなさい」。人は自分の身を外に置いて、冷ややかに、外から眺めるかのように聞くこともできます。イエス様に従う者として、この「わたし」に語りかける言葉として、その中に身を置いて聞くこともできます。《どう聞くか》です。

 そして、《聞いてどうするか》です。現実の生活の中に、いろいろなことが起こってくるでしょう。そこで神の言葉を保持することです。投げ捨ててしまわないことです。実を結ぶまで忍耐強くあることです。「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」(15節)と主は言われました。どうしたら実を結ぶまで忍耐強くあることができるでしょう。実りを信じることです。期待することです。実りを信じましょう。御言葉の種が蒔かれた私たちを通して、神の愛の御業が現れることを期待しましょう。主は私たちの目を神の御業に向けるためにこそ、「生え出て、百倍の実を結んだ」と語られたのですから。

 
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