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「信仰の一歩を踏み出す時」

2007年1月7日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨシュア記 3章1節~17節

 先ほど、新成人の祝福をいたしました。成人式は言うまでもなく、人生において一つの大きな節目であり区切りです。もう未成年とは呼ばれない。一人の大人としての判断と責任ある行動が求められるようになります。成人という節目だけでなく、この一年の間に大きな節目を迎える人は他にも沢山おります。私どもの教会の石井神学生はこの春、神学校を卒業し、伝道者として一歩を踏み出します。その他にも、入学する人、進学する人、結婚する人、あるいは転職する人もあることでしょう。そのように、私たちは様々な形で、一つの時代の終わり、そして新しい時代の始まりを経験いたします。

 今日の第一朗読に登場しましたヨシュアという人、そしてヨシュアに率いられるイスラエルの民も、一つの大きな時代の区切りに立っていました。彼らをエジプトから導き出したモーセという偉大な指導者は世を去りました。神によって新しい指導者ヨシュアが立てられました。モーセと共に歩んできた四十年の荒れ野の旅も、ついに終わりに差しかかろうとしていました。先祖たちが目指してきた約束の地は、ヨルダンの向こうに広がっています。今やヨルダンを渡り、約束の地に入るべき時が来たのです。一つの時代が終わろうとしていました。そこから新しい時代が始まります。彼はそこにおいて神からいったい何を聞いたのでしょうか。彼はその言葉にどのように応えたのでしょうか。今日、私たちはこのヨシュアとイスラエルの民に自らを重ねながら、主の言葉に耳を傾けたいと思います。

自らを聖別せよ

 冒頭部分をもう一度お読みします。「ヨシュアは、朝早く起き、イスラエルの人々すべてと共にシティムを出発し、ヨルダン川の岸に着いたが、川を渡る前に、そこで野営した」(1節)。シティムはヨルダン川の東10キロメートルほどの地点です。そこに宿営していたイスラエルの人々がヨシュアと共にヨルダン川の岸辺へと向かったのは、ついにヨルダンを渡る時が来たとの確信のゆえでしょう。しかし、その次を読みますと「三日たってから」と書かれています。彼らは三日間、ヨルダンの岸辺で野営していたのです。

 いったいなぜそこに三日も留まっていたのでしょうか。その理由は至って単純です。渡りたくても渡れなかったのです。15節には「春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていた」と書かれています。春の刈り入れの時期というのは、遠いレバノン山の雪が解け、ヨルダンの水かさが増し、両側の低地に水が溢れる時なのです。その濁流泡立つヨルダンを前にして、彼らはどうすることもできなかったに違いありません。民の中の屈強な者たちだけなら、渡ることもできたでしょう。しかし、老人たちや子供たちまで皆が渡ることはどう考えても不可能です。

 約束の地は目の前にあります。そこに向かうことは神の御心でした。しかし、それは容易に実現しそうにありません。目の前には前進を阻む大きな困難があります。いったいどうすればよいのか。野営の三日間は、ヨシュアとイスラエルの民にとって、ひたすら神の導きを尋ね求める三日間であったに違いありません。

 そして三日間が過ぎた時、ヨシュアは民に語りました。5節をご覧ください。「自分自身を聖別せよ。主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる」(5節)。自分自身を聖別するとはどういうことでしょうか。例えば出エジプト記19章10節には、具体的な行為として、衣服を洗うことが示されています。しかし、神様がただ単に形式的に衣服を洗ったり身を洗ったりすることを求めているのではないことは明らかでしょう。元来「聖別する」ということは、神のために、神のものとして取り分けることを意味するのです。ですから「自らを聖別する」ということにおいて、単に清めの儀式を行うことではなくて、自分自身を完全に神のものと見なし、神に自らを捧げるという、その内容が重要なのです。言い換えるならば、神のものとして、神に信頼し、神に従う決意をすることに他なりません。要するにヨシュアは、主からの具体的な指示を伝えるに際し、彼ら自身が神に信頼し従うという決意をすることを求めたのです。

 考えてみれば、これは至極当然のことです。神の導きを求めるということは、神に従うということが前提であって初めて意味を持つからです。しかし、この当然のことがしばしば見過ごされてしまうものです。神の導きを求めていると言いながら、従う用意は出来ていない。神の導きを求めると言いながら、実際には、自分に都合の良い言葉を求めているだけでしかない。そのようなことは起こります。ですから、まず私たち自身を聖別しなくてはならないのです。私たちが主に導きを求めるならば、主はそのような私たちに、まず自らを聖別することを求められるのです。

信仰の一歩を踏み出すため

 さらに、ヨシュアは祭司たちに命じました。「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ」(6節)。なぜヨシュアが祭司たちにそのようなことを命じたのか。その理由は7節で明らかにされます。主はヨシュアに次のように語っておられたのです。「今日から、全イスラエルの見ている前であなたを大いなる者にする。そして、わたしがモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、すべての者に知らせる。あなたは、契約の箱を担ぐ祭司たちに、ヨルダン川の水際に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい」(7節)。

 しかし、先のヨシュアの言葉にせよ、この主の言葉にせよ、ある意味で無茶苦茶な命令でしょう。「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ」と言っても、実際に渡れないからヨルダンの前で立ち往生しているわけでしょう。「ヨルダン川の水際に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい」と主は言われるわけですけれど、ヨルダン川の中に立ち止まれるくらいなら、とうの昔に皆渡っているはずなのです。水かさは増し、まさに水は堤を越えんばかりに満ちているのです。そのような中に入って行ったら、たちまちのうちに足をすくわれてしまうでしょう。しかも、これを契約の箱を担いで行えと言う。大事な契約の箱が流されてしまったらいったいどうするのでしょうか。

 しかし、それが神の導きだったのです。私たちが少々努力したら実現できること――そのようなことへと神が常に私たちを導かれるのなら、神の導きというものはある意味で分かりやすいでしょう。私たちが少し頑張れば達成できるような課題しか神が私たちに与えないのなら、神の導きは受け入れやすいでしょう。しかし、神の導きというものは、どうもそうではないらしい。今日の聖書箇所を読みますと、改めてそう思います。とうてい前に進めないようなところに立たせて、その先にある約束の地に渡れと言う。そのようにして、時として神は、「そんな無茶な」とつぶやきたくなるような大きな課題を私たちに突きつけられるのです。そのような課題を与えられた人を聖書の中に数えるなら実に枚挙にいとまがありません。

 ですから、私たちはしばしばそこから逃げたくなります。神が与えられた課題を投げ出したくなります。様々な理由をつけて後回しにしたくなります。諸々の言い訳をもって主の言葉を退けたくなるのです。ヨシュアだって、主に対していくらでも言い訳はできたでしょう。しかし、その時こそ、私たちは自らを聖別しなくてはならないのです。そこでこそ、私たちが何者であるか、そのアイデンティティが問われるのです。あなたは本当に主のものなのか。あなたは本当に主を信じる民であるのか。そのことが問われる。信頼が問われるのです。主に信頼するということは、主に聞き従うということに他なりません。従順のない信頼はないし、信頼のない従順などありません。そして聞き従うということは、具体的に信仰の一歩を踏み出すということなのです。

 ヨシュアは民に言いました。「全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう」(13節)。ここにはっきりと語られています。「祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると…」。言い換えるならば、祭司たちの足がヨルダン川に入るまでは何も起こらないということです。祭司たちが泡立つ濁流の中に一歩を踏み出すまでは何も起こらないのです。決定的に重要なのは、神に信頼して踏み出すこの信仰の一歩だということです。この信仰の一歩を踏み出した時、人は神の御業を見るのです。それが人々に与えられた神の約束の言葉だったのです。

 これを聞いて、イスラエルの民はどうしたでしょうか。14節にはこう書かれています。「ヨルダン川を渡るため、民が天幕を後にしたとき…」。まことに驚くべきことです。確かにここには「ヨルダン川を渡るため」と書かれているのです。どれほど困難に見えようが、どれほど不可能に見えようが、彼らは「ヨルダンを渡るため」に川へと向かったのです。一部の祭司たちだけが向かったのではありません。皆、祭司たちと共に信じたのです。信じて決断したのです。決断して実際に立ち上がったのです。天幕を後にしてヨルダンへと向かったのです。祭司たちだけではなく、皆共に、ヨルダン川を渡るための信仰の一歩を踏み出すためです。

新しい時代へと開かれた道

 ここを読みますと、その情景が目に浮かぶようです。朝日を背に受けた祭司たちの小さな行列が、ゆっくりとヨルダン川に近づきます。濁流が音を立てて流れるその川には何も起こりません。「驚くべきことを行われる」とヨシュアは言いました。しかし、それは起こらないのです。水が引く気配すら見えません。しかし、祭司たちは立ち止まりません。そして、ついにその足が水際に浸りました。すると驚くべきことが起こったのです。「川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った」(15節)。

 ある人は、これをアダムの近郊で地滑りがあり、川をせき止めたのだろうと考えます。あるいは、そのようなことなのかも知れません。必ずしも超自然的な事柄であると考える必要はありません。それが超自然的出来事であろうが、自然的出来事であろうが、それは神の御業であるのに変わりはないのです。そして、聖書の物語が伝える大事なメッセージは、不思議なことが起こったということではなくて、それが祭司の足が水の中に踏み出された時に起こった、ということなのです。信仰の一歩において起こったということです。信仰の一歩を踏み出した時、今までなかった道が開かれたということです。その結果「民はエリコに向かって渡ることができた」と書かれています。彼らは約束の地に入ることができました。一つの時代が終わりました。そして、主の言葉に従ったところから、イスラエルの民に、もう一つの新しい時代が始まったのです。

 さて、冒頭において、成人式は人生における大きな節目であり区切りであると申しました。また、その他にも大きな節目を迎える人は沢山おられると申しました。しかし、考えてみれば、成人しても、あるいは入学しても進学しても結婚しても、生活環境が激変しても、その人生が本質的には何も変わらない、何も新しくはなっていないということもあり得ます。そうではありませんか。

 ヨシュアの場合がそうであったように、いつでも私たちにとって本当の意味での節目、真の区切りは、神が私たちに「自らを聖別せよ」と命じられる時であり、信仰と従順を求められる時です。私たちが濁流泡立つヨルダンのほとりにあって、そこで主の御心を尋ね求め、主が導き給うならば、信仰をもって新しい一歩を踏み出していく。その時に、私たちの前には今まで見えなかった道が開け、本当の意味で新しい時代へと踏み出していくことになるのです。

 
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