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「神の御業を待ち望む」

2006年12月17日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 テサロニケの信徒への手紙 Ⅰ 5章16節~24節

 神様が私たちに望んでおられることがあります。それは私たちがただ《良い人》や《正しい人》になることではありません。ただ私たちが真面目に生きることでもありません。今日の第二朗読では次のような言葉が読まれました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(16‐18節)。そうです、これが神様の望んでおられることなのです。

 人間の親子を考えれば分かりますでしょう。子供が親の顔色を伺いながら一生懸命に親のお気に入りになろうとすること親は望みますでしょうか。真面目だけれど喜びのない子供となることを親は望みますでしょうか。優秀で誰からも褒められる良い子だけれど親とは全く口を利かない、親のことを思い出しもしない。そのような子供になることを親は望みますでしょうか。悪さはしないかもしれないけれど、いつも不平や不満を口にしている子供となることを親は望みますでしょうか。もちろん人間の親子の関係ですと様々な歪みが生じることもあるでしょう。しかし、親は本来はそのような子供になることを望んではいないはずなのです。ましてや、まことの父である神ならばなおさらです。私たちの親である神様がその子供たちに望んでいるのは、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝して生きていることなのです。

 いや、神様はそのことをただ望んでおられるだけではありません。そのように神の子供たちが生きられるようにと、現実に私たちのただ中にあって働いておられるのです。神の霊は、私たちのただ中に生きて働いておられるのです。この聖霊のお働きの中に身を置くことこそ、私たちの信仰生活に他なりません。そのような神の霊の御業にあずかるようにと、私たちは教会に導かれているのです。

聖霊の火を消してはいけない

 しかし、その直後にパウロは次のように語っています。「“霊”の火を消してはいけません。」(クオーテーションマークがついているのは、これが神の霊、聖霊を指すことを意味しています。)これは「“霊”を消してはいけない」というのが直訳ですが、「消す」という言葉は「火を消す」という意味の言葉ですから、このように意訳されています。聖霊のお働きが「火」に喩えられているわけです。その聖霊の火を、人間が消してしまうことがあり得る。考えてみれば、これは驚くべきことです。神様なのですから、人間に消したりさせないこともおできになるはずでしょう。人間がすることなどに左右されずに、人間の意向など無視して、一方的に事を進めたらよさそうに思いませんか。

 しかし、神様はどうもそのようなことは望まれなかったようです。神様は人間をそれほどに重んじておられるということです。私たちがどうするか、ということを大事にしてくださるのです。私たちが意志をもって事を為すことをお許しになられる。それこそ、神様のお働きを妨げて、聖霊の火を消すことさえお許しになられるのです。私たちは聖霊の火を消すこともできるし、消さないこともできるのです。

 そのように聖霊の火が消えてしまうことがあります。しかし、それは一般的に「火が消えたようだ」と言われることとは違います。既に見ましたように、聖霊のお働きは火に例えられます。しかし、私たちもよく知っているように、人間の熱心さもまた、火に例えられるのです。人間の熱心さもまた、火が燃えているように見えるのです。そして、人間が燃えているほうが、分かりやすいのです。教会も人間の熱心さや情熱が燃えている方が、生き生きと活発に動いているように見えるかもしれないのです。ですから、聖霊の火は消えてしまっているにもかかわらず、人間の火はボウボウと音を立てて燃えているということがあり得るのです。

 教会がもはや《人間ができることを人間が人間のためにするところ》でしかなくなっていることがあります。教会には人間が為しえることしか起こらない。信仰生活において経験するのは人間が為しえることでしかない。キリスト者は人間が為しえることしかもはや期待していない。せいぜい「キリスト教的に生きましょう」「キリスト教的な価値観によって生きましょう」「キリスト教的な倫理を大切にしましょう」「キリスト者らしく愛の実践をしましょう」という程度のことでしかない。しかし、そのように人間の火しか燃えていなくて、人間ができることを人間が人間のためにすることがすべてであっても、依然として教会は燃えているように見えるものなのです。

 しかし、聖霊の火が燃えているのか、それとも人間の火しか燃えていないのか、その違いは明らかに現れてまいります。人間の火だけが燃えているとき、そこに往々にして起こってくるのは高ぶりと分裂と裁き合いです。人間が頑張れば頑張るほど、そこには「わたしがしているのだ。わたしがしたのだ」という誇りと高ぶりが生じてまいります。そして、高ぶりがあるところに、分裂と裁き合いもまた起こってくるものなのです。

 人間の火ではなくて、聖霊の火が燃えているのなら、そうはならないことは明白です。神様の御業が起こっているならば、神様が事を為しておられるならば、人間が誇る余地はないはずだからです。神の御業が進められていることを皆が認めているならば、皆が共に神に感謝し、神をあがめるようになるでしょう。そして、共に神をあがめるところに分裂や裁き合いは起こらないはずです。

 そのように、教会には人間の業ではなく、神の御業こそ現れなくてはならないのです。私たちの信仰生活には神の御業こそ現れなくてはならないのです。子供たちが喜びと感謝をもって生きることを何よりも望んでおられるまことの父の御業こそ、現れなくてはならないのです。わたしを用いて、また他の人を用いて、神様御自身が働かれる――そのような神の御業をこそ、私たちは期待して待ち望まなくてはならないのです。私たちの目はそこに向けられていなくてはならないのです。私たちの人生は私たちが主役である舞台ではなく、神が主役である舞台、聖霊が活躍する舞台とならなくてはならないのです。ですからパウロは言うのです。「“霊”の火を消してはいけません。」と。そうです、聖霊の火を消してはならないのです。

預言を軽んじてはならない

 では、どうしたらよいのでしょう。そこで私たちの目にとまりますのは次の言葉です。――「預言を軽んじてはなりません。」「“霊”の火を消してはいけません」という勧めにこの言葉が続いているのは意味のないことではありません。というのも、パウロは他の手紙において、「預言」を聖霊の賜物、すなわち聖霊の働きとして語っているからです。

 「預言」とは、ただ未来の予告をすることではありません。日本語にすると「言葉を預かる」と書きますように、これは神様の御言葉を預かって語ることです。神様の御言葉が語られる。神様の御言葉が聴かれる。それは人間の為しえることではなくて、神様御自身の御業です。それは全く聖霊のお働きによるのです。考えて見れば、当たり前のことです。

 しかし、先ほども言いましたように、神様の御業は人間と無関係に行われていくのではありません。神様が語ろうとしておられても、人間が「聴かない」ということがあり得るのです。聴こうとしなければ、神様がどんなに語ろうとしておられても、御言葉はその人には届かない。ですから「聴こうとする」「耳を傾ける」という人間の側の意志が重要になってまいります。ですから、パウロは「預言を軽んじてはなりません」と語っているのです。人は御言葉を聴くということを重んじることも軽んじることもできるからです。

 そして、パウロがここに並べて書いているように、御言葉を聴くということを軽んじるか重んじるかということが、聖霊の火を消してしまうか否かということと密接に結びついているのです。御言葉を聴くということは、神を「主」として、自分を「従」とすることに他なりません。自分が主人で神様を従わせようとするのではなくて、自分を従う者の位置に置くということです。人間が主人となり、人間が中心となるならば、教会において人間の業しか現れなくなります。信仰生活も人間の頑張りと努力でしかなくなります。人間の火は燃えていても聖霊の火は消えているということになるのです。必然的な帰結です。

 しかし、そのように人間の業しか現れなくなり、人間の情熱や頑張りや努力にしか目が行かなくなり、もはや聖霊の御業を求めることも待ち望むこともなくなってしまうとするならば確かに問題ではありますが、実はその対極にもまた大きな問題が存在しているのです。つまり聖霊の働きに関心はあり求めてもいるのだけれど、何から何まで神の御業としてしまう、聖霊の働きと結びつけてしまう、ということもまた起こりえるのです。

 実はこのテサロニケの信徒への手紙というものは、パウロの書いた手紙の中でも初期のものなのです。宛先となっているテサロニケの教会は、誕生してまだ間もない教会なのです。使徒言行録17章を読みますと、パウロとシラスがテサロニケに滞在した期間はわずか四週間たらずでした。やっと教会の基礎が据えられたという時に、騒動が起こりまして、パウロとシラスはテサロニケの初期の信徒たちを残してそこを去らなくてはならかったのです。つまりテサロニケの教会は生まれて間もなく指導者を失ったということです。そのような教会にパウロは手紙を書いているのです。

 テサロニケの信徒たちの大部分は異邦人キリスト者です。つまり聖書とは全く無縁の世界に生きていたところからキリスト者になった人々です。ですから、彼らがこれまで馴染んできたこと、当たり前だと思っていたことが、実は福音とは相反する習慣であるということがいくらでもあったに違いありません。ですから、彼らがそれまで馴染んできた宗教的な習慣や様々な思想をそのまま教会に持ち込んでしまうという可能性がいくらでもあったのです。そうしますと、様々な迷信的なこと、呪術的なことまでが、聖霊の働きと混同されてしまうということまで起こってくるのです。それこそ汚れた霊の働きであっても、すべて神の御業であり聖霊の働きであると考えてしまうかもしれません。ですから、パウロは彼らに言うのです。「すべてを吟味し、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」と。

 すべては吟味されねばなりません。そのためにも、「預言を軽んじてはならない」という勧めが大きな意味を持つのです。聖霊のお働きの中でも、特に御言葉が語られ聴かれるという聖霊のお働きこそ、まず重んじられなくてはならないのです。神の御声に耳を傾けるということがなければ、守られなくてはならない良きものと、遠ざからなくてはならない悪いものとを区別することはできないからです。神様が語ってくださるということ、その出来事こそ、まず私たちが切に求め、待ち望まなくてはならないのです。

 本当に神が語ってくださるならば、その御言葉によって真に良いものは保持されていくのです。そして、本当に神が語ってくださるならば、その御言葉によって、聖霊によるものではないものは退けられ、改革されるべきものは改革されていくのです。本当に神が語ってくださるならば、それぞれの信仰生活もまた、御言葉によって変質を免れると共に、常に正しく改革され軌道修正されていくのです。預言を軽んじてはなりません。神の言葉を求めなくてはなりません。

 そのように、聖霊の火を消すことなく、預言を軽んじることなく、すべてを吟味して良いものを守り、悪いものをしりぞける教会であってこそ、そこにおいて、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する信仰生活が形づくられていくのです。そのようにして、キリスト・イエスにあって神が私たちに望んでおられることが実現していくのです。まことの父である神様の御業を求め、待ち望みましょう。

 
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