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「貧しい人への福音」

2006年12月10日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 4章14節~30節

主の恵みの年の到来

 ある安息日のこと、イエス様はお育ちになられたナザレにある会堂で、預言者イザヤの書を朗読されました。

 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(18‐19節)。そして、主はこう宣言されたのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」

 主が朗読されたように、イエス様はメシアとして、すなわち神から油を注がれた御方として来られました。イエス様は神の時の到来を宣言されました。捕らわれている人が神によって解放される時が来た!見えなくなっている人が神によって見えるようになる時が来た!圧迫されている人が神によって自由にされるときが来た!イエス様はこの「主の恵みの年」の到来を宣言するために来られたのです。イエス様は言われました。この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した、と。

 この「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」はどこにいますか。余所のどこかですか。いいえ、イエス様がイザヤ書を朗読されたのは会堂においてであり、イエス様がその成就を宣言されたのも会堂においてでした。その言葉が同じようにこの礼拝堂において読まれています。主が語りかけておられるのは、ここにいる私たちに対してです。ここに「捕らわれている人」はいませんか。もがけども閉ざされた狭い世界から抜け出せない人はいませんか。ありとあらゆる力に縛り付けられて身動きできなくなっている人はいませんか。「目の見えない人」はいませんか。全く希望の光が見えなくて、自分がどこにいるのかも、自分がどこに向かっているのかも分からないままさまよっている人はいませんか。ここに「圧迫されている人」はいませんか。負いきれないほどの重荷を負わされて押しつぶされそうになっている人はいませんか。そして、何よりも、罪と死と悪魔の支配する世界に捕らわれているということならば、私たちすべてについて言えることでしょう。「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」とは私たちのことに他なりません。

 しかし、そのような私たちは今、イエス様のもとに集められているのです。教会であるとはそういうことです。イエス様のもとにいるなら、もう大丈夫です。イエス様が解放を宣言してくださったからです。イエス様は「主の恵みの年を告げるため」に来られたと言われました。そして、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われたのです。イエス様と共に「主の恵みの年」が到来しました。そして、今、ここにおいてもその福音が語られております。「主の恵みの年」は既に到来しているのです。私たちはそのただ中にいるのです。

 これが特に「主の恵みの年」と呼ばれていることは重要です。レビ記25章を読みますと、そこには「ヨベルの年」という特別な年についての定めが書かれています。神が定めたある特別な年のことです。「ヨベル」とは角笛のことです。その年の新年には国中で角笛が吹き鳴らされるので「ヨベルの年」と呼ばれているのです。レビ記25章に詳しく書かれていますが、簡単に言えば、それは50年に一度やってくる解放の年のことです。例えば、貧しさのゆえに土地を手放してしまった人がいるとしますと、その人はヨベルの年には無償で土地を返してもらえるのです。あるいは貧しさのゆえに自分自身を奴隷として身売りしてしまった人は、ヨベルの年になると無条件に解放され、借金もゼロになるのです。(それが実際に行われていたかというと、どうもそうはいかなかったようですが、ともかくそのような年が神によって定められていたのです。)このように貧しい者が、自分が何かをしたからではなく、その資格や権利があるからではなく、まったくの恵みとして解放され回復される年、それがヨベルの年です。「主の恵みの年」とは、もともとそのような「ヨベルの年」を指す言葉なのです。

 そして、今日の箇所において、イエス様はそのような「主の恵みの年」の到来を宣言しておられるのです。それが何を意味するかは明らかです。捕らわれた人が神によって解放されることも、見えない人が見えるようになることも、圧迫されている人が神によって自由にされることも、あのヨベルの年のように、ただ向こうからの恵みとして与えられるのだ、ということです。こちらが何をしたからとか、こちらにその資格があるかとか、こちらがそれに相応しいかとかではなくて、完全に一方的に神の恵みとして与えられることを意味しているのです。そうです、神の救いと解放は全く無償の《恵み》として与えられるのです。

 しかし、ここでもう一度「ヨベルの年」について考えてみてください。「ヨベルの年」が実際に行われたとしたら、国中みんなが喜ぶことになるでしょうか。いいえ多分そんなことはないでしょう。ヨベルの年が来て嬉しいのは、「貧しい人」だけです。神の恵みが嬉しいのは貧しい人だけなのです。ただ神の一方的な恵み、無償の恵みによらなければ決して解放されることはない分かっている貧しい人たちだけです。自分は解放されるに相応しいとも、解放される権利があるとも主張できない貧しい人たちです。恵みを恵みとして受け取ることしかできない、恵みに寄りすがるしかない貧しい人たちだけです。ですからイエス様が朗読した箇所にも、「《貧しい人》に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」と書かれているのです。

 さて、先ほど私は、「イエス様のもとにいるなら、もう大丈夫です。イエス様が神による解放を宣言してくださるからです」と申しました。しかし、ここでもう一言が必要であるように思います。イエス様が宣言してくださった神による解放を味わい知ることができるのは「貧しい人」だ、ということです。無償の恵みによらなければ決して救われ得ないと分かって、恵みを恵みとして受け取るしかない「貧しい人」です。イエス様が宣言してくださった「主の恵みの年」を本当に喜びをもって生きるのは「貧しい人」なのです。すると問題は、ここにいる私たちは、「貧しい人」なのかどうか、ということになります。どうでしょう。実は、続くイエス様の言葉こそ、まさに私たちにそのことを問いかけているのです。

福音を聞く貧しい人

 ここまでの言葉を聞いて、人々は皆イエス様をほめ、その口から出る恵み深い言葉の驚嘆していました。特にこれはイエス様の生まれ故郷でのことですから、小さい時からイエス様のことを知っている人も少なくないのでしょう。彼らもよく知っているヨセフの息子が、まさに自らを油注がれた者・メシアとして「主の恵みの年」の到来を宣言したわけですから、それは驚いたことでしょう。とはいえ、ともかくここまでは人々の反応は好意的であったと思われます。

 しかし、そのような人々に対して、イエス様の態度は次第に挑戦的になってまいります。イエス様が彼らに言われた言葉をもう一度お読みいたします。「イエスは言われた。『きっと、あなたがたは、「医者よ、自分自身を治せ」ということわざを引いて、「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」と言うにちがいない。』そして、言われた。『はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルにはらい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった』」(23‐27節)。

 この「エリヤの時代云々、エリシャの時代云々」という話によってイエス様が何を言わんとしているか、分かりますでしょうか。これは聞いている人々にとって実に辛辣な言葉です。エリヤの話にしてもエリシャの話にしても、要するに《神の恵みを受けたのは神の民を自負するイスラエル人ではなくて異邦人だった》」という話だからです。そのような話を、よりによって会堂に集まっているユダヤ人に話しているわけでしょう。要するに、「『主の恵みの年』は到来したのだけれど、神の恵みを受けるのはあなたがたではなく、あなたがたが汚れていると言い、あなたがたが軽蔑してやまない異邦人たちだ」とイエス様は言っているのです。救われるのはあなたがたじゃなくて、救われるはずがないとあなたがたが思っているあの異邦人たちなのだ、と。

 これを言われたら腹が立つでしょう。もうそこにいた全員が、イエス様を殺したいほどに腹を立てたのです。彼らはイエス様を町の外に連れて行って崖から突き落とそうとしたのです。それほど腹を立てたのです。イエス様だって分かっていたはずです。これを言ってしまったら普通のユダヤ人なら絶対にキレると。イエス様はどうしてこのようなことを言ったのでしょう。

 それは彼らが「貧しい人」ではないからなのです。いや、本当は貧しいのに、貧しいことが分かっていないからなのです。貧しいことが分からないから、恵みを恵みとして受け取ることができなくなっている。主の恵みの年が到来したのに、恵みを受け取ることができなくなっている。イエス様にはその悲しい現実が痛いほどに分かっていたのです。

 主は言われました。「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」と言うに違いない、と。イエスを通して現された神の御業、他で現された神の奇跡は、自分たちにも現されて然るべきだと思っている、ということでしょう。イエスがメシアだと言うならば、自分たちにも何かをしてくれて当然ではないかと思っている。そして、イエス様は分かっているのです。彼らは異邦人については決して同じことを言わないだろうということを。神が異邦人たちを救われる?あんな汚れた連中を救われる?とんでもない!そう言うに決まっている。だからイエス様はあえてエリヤやエリシャの時代の話を持ち出して彼らに言われたのです。神の恵みを受けるのは、あなたたちじゃなくて異邦人たちだ、と。

 彼らは案の定腹を立てました。猛烈に腹を立てました。それがすべてを物語っています。「あなたたちが受けるのではない」と言われて怒るのは、受けて当然だと思っているからです。「受けるのは別の誰かだ」と言われて怒るのは、そいつよりも自分の方が相応しいと思っているからです。

 この彼らの怒り狂った姿は、私たちに対する問いかけに他なりません。あなたも彼らと同じなのか、と。あなたは他の人間と自分を比較して、自分は受けるに相応しいという思いを抱いているのか。与えられて然るべきであるという思いを抱いているのか。それとも、貧しさのゆえに土地を失った人々のように、貧しさのゆえに身売りした人のように、全く神の憐れみにすがるしかない者としてここにいるのか。ただ向こう側から来る一方的な恵みによってしか救われないと自覚する者であるのか。聖書は私たちに問いかけているのです。

 油注がれたメシアは来られました。主の恵みの年は到来しました。主は解放を宣言してくださいました。私たちは捕らわれたままで生きる必要はありません。私たちは見えないままにさまよっている必要はありません。私たちは重圧に押しつぶされてしまう必要はありません。私たちの人生に、主が宣言された神の御業を求めてよいのです。神の介入を求めてよいのです。そして、最終的に神の国において完全な救いが与えられることを信じてよいのです。しかし、その神の救いを味わい知るのは、資格があるとかないとか言い出さず、相応しいか相応しくないかと言い出さず、ただ恵みに寄りすがる人です。恵みを純粋に恵みとして受け取る貧しい人です。主は貧しい人に福音を告げ知らされます。ここにいる私たちにも告げ知らされているのです。

 
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