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「生きている者の神」

2006年11月19日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書20章27節~40節

この世と全く異なる次の世

 今日の福音書朗読には「サドカイ派の人々」が出てきました。彼らはユダヤ教の一派です。エルサレムの神殿を拠点とする祭司たちのグループです。「復活があることを否定するサドカイ派の人々」と書かれています。復活を信じない。「死んだら終わりだ」ということです。メシアを待望してもいなければ、来世も信じない。さらに言えば、霊の存在も信じない。モーセの律法に記されていないものは何も信じない。そのような人々です。これに対して、聖書によく出てきますファリサイ派の人たちは、復活も霊の存在も信じています。ですから、両者はユダヤ教における主流教派なのですが、互いに対立していたのです。そこでサドカイ派がファリサイ派などに対して復活や来世があることを否定するために用いていた論拠が、今日の福音書朗読に出てきた話です。そのような話を、彼らはイエス様のもとに持ってきて論争をしかけたのです。

 サドカイ派の人たちは旧約聖書の申命記を引用してこう語り出します。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と」(28節)。ここに出てきますのは、私たちには馴染みの薄い「レビラート婚」という制度です。子孫を絶やさぬための制度でありまして、今日でも世界の少数民族などにおいて見られると言われます。まさにこの律法の言葉こそ、復活がないことの決定的な証拠になると彼らは考えていたのです。

 続けて彼らはこう問いかけました。「ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」(29‐33節)。

 これはレビラート婚の制度を考えなくても、例えば私たちの身近に再婚した人のことを考えれば分かりますでしょう。復活があり来世があると困ったことになる、ということです。先にも申しましたように、このような議論は通常ファリサイ派との間で為されていたものです。そして、復活を信じるファリサイ派には一応答えがありまして、この場合、妻は長男のものとなることになっていたそうです。しかし、イエス様はそのような答えはなさいませんでした。主はこう語られたのです。

 「イエスは言われた。『この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである』」(34‐36節)。

 イエス様の答えの強調点は、ただ単に「来世はあるのだ」ということにはありません。そうではなくて、「この世」と「次の世」(直訳では「あの世」)は全く異なるのだ、ということです。ですから、「もはや死ぬことがない」とか「天使に等しい者である」ということまで言われるのです。つまり、救いが完全に実現している復活の世界を、今のこの世の延長のように考えてはならない、単にこの世の生活からの類推で考えてはならない、ということなのです。

 この福音書を読みますと、イエス様はサドカイ派の人々にただ淡々と説明しているかのように感じられます。しかし、他の福音書を読みますと、どうもそうではなさそうです。マルコによる福音書では、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」(マルコ12:24)と言ってイエス様は嘆いておられるのです。そうです、イエス様は時の宗教家たちの無意味な思弁的な議論に、ガッカリしウンザリしているのです。それはただ単に復活を否定するためにこんな論争を持ちかけたサドカイ派の人々に対してだけではありません。復活を信じていると言っているファリサイ派の人々に対してもそうなのです。いや、むしろイエス様はファリサイ派の人たちにこそ語りたかったのかもしれません。なぜなら先に触れました「妻は長男のものとなる」というような答えこそ、まさに来るべき救いの世界を今の世の延長でしか考えていないことを証ししているからです。

 しかし、私たちはそのようなファリサイ派の人々のことを他人事のように言えないだろうと思うのです。確かに私たちは復活を信じています。死んで終わりだとは思っていません。天の御国についても語りますし、「神の国」という言葉をも使います。しかし、救いの世界を、この世の延長のようにしか考えていないし、この世の生活からの類推でしか考えていないのではないでしょうか。せいぜい「より良いところ」ぐらいにしか考えてはいないのではないかと思うのです。言い換えるならば、神の御国に入れられるということを実に小さなことにしか考えていない。だから、神の国に対する強烈な憧れも、喉から手が出るほどに希求する思いもないのです。神の国を求めることよりは、むしろこの世で少々得をする事の方が大事になってしまうことさえある。そうではありませんか。

 私たちの感覚が、イエス様とどれほど違っているかは、例えばイエス様のたとえ話を考えれば分かります。イエス様は別のところでこう言っておられるのです。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」(マタイ13:44)。天の国に入れられるということは、この世の持ち物全部をそのために失っても惜しくない。そのようなものだと言うのです。イエス様はそのことが分かっておられる。私たちは、全く分かっていない。

 イエス様だけではありません。私たちの感覚は初代のキリスト者ともずいぶん違うようです。パウロは言っています。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現れるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(ローマ8:18)。パウロという人は世の苦しみを知らないからそんなことを言うのでしょうか。いいえ、そうではありません。パウロという人は、それこそ私たちの想像を絶する苦しみに幾たびも遭っていた人です。しかし、そんなもの、取るに足りないと言い切るのです。神の国に入れられるということは、それほどのことなのです。まさにその片鱗を知るだけでも、今の苦しみが吹っ飛んでしまうような、それほど大きなことなのです。

 そんな驚くべき恵みを神様が備えていてくださるのに、「七人の兄弟と結婚した女は、誰の妻になるんでしょうなあ」なんてことを言っている。しかも祭司たちが、律法学者たちが、そんな次元のことを議論しているのです。もう悲しくて、情けなくて、ガッカリ、ウンザリしていたに違いありません。しかし、彼らの姿は他ならぬ私たちの姿でもあります。イエス様やパウロとは全く違うところを見ている、私たちの姿です。

死んだ者の神ではなく、生きている者の神

 問題はどこにあるのでしょう。イエス様が言われるように、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」ということなのでしょう。ですから、イエス様は聖書を引いてこんな話をなさいました。

 「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(37‐38節)。

 「柴」の箇所というのは、本日の第一朗読でお読みした箇所のことです。モーセが羊の群れを飼っていたとき、ホレブの山で燃える柴を見たという話です。柴は燃えているのに燃え尽きない。不思議に思って近づいてみると、神がモーセに声をかけられた。その時に神様が自らを表現した言葉がこれです。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト3:6節)。

 柴の炎は明らかに神の現臨を示しています。神がそこにおられる!しかも、炎は消えないのです。燃え続けている。いわば「燃え続ける神」がそこにおられるのです。神は過去の神ではなく、永遠に神であり続ける、ということです。神であり続けるということは、それは抽象的なことではありません。関わりにおいて神であり続けるということです。《あなたの神であり続ける》ということです。モーセはそのような神に出会ったのです。

 神様は言われました。わたしはアブラハムの神である、と。アブラハムはもう数百年前に死んでいるのです。しかし、神は「わたしはアブラハムの神である」と言われるのです。そして、イサクの神であり、ヤコブの神であるとも言われる。その神がモーセに現れて、わたしは必ずあなたと共にいる、と言われたのです。わたしはあなたの神でもある、ということです。あなたの神であり続ける。そして、あなたが導き出すイスラエルの神となり、イスラエルの神であり続ける。それがこの「柴」の箇所に語られていることです。

 燃え続ける神、関わり続ける神、あなたの神であり続ける神、神がそのような神として御自身を示されたことこそ、来世を信じる根拠なのです。復活を信じ、完全な救いの世界を信じる根拠なのです。神がアブラハムの神であり、イサクの神であり、ヤコブの神であり、わたしの神であり、あなたの神であるならば、アブラハムもヤコブもわたしもあなたも死んで終わりではないのです。人は神によって生きるのです。イエス様はそう言われました。人は神によって、死んでも生きるのです。神は死んだ者の神ではありません。死の中に私たちを放置しておく神ではありません。死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのです。

 そのように、モーセは燃え尽きない柴に出会いました。燃え尽きない炎の中から、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」との声を聞きました。そして、私たちもまた、同じように燃え尽きない柴に出会っているのです。お分かりですか。イエス・キリストこそ、私たちに対して神が御自身を現された「燃え尽きない柴」に他ならないのです。

 今日お読みしました場面は、イエス様が十字架にかけられる数日前のことです。物語は、イエス・キリストへの死へと向かっているのです。炎は燃え尽きてしまうかのように見えます。しかし、柴の炎は燃え尽きませんでした。キリストは復活して、永遠に燃え尽きることのない神の炎を見せてくださったのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」ということを見せてくださったのです。人は神によって生きるのです。死んでも生きるのです。

 この神様との関わりにおいてこそ、人は本当の意味で死を越えた希望に生きることができるのです。神を礼拝し、神に祈り、神との交わりに生きてこそ、そのようにしてキリストを復活させた神の力に触れながら生きてこそ、人は復活の希望、来世の希望、全き救いにあずかる希望を持って生きることができるのです。

 神様抜きでどんなに来世を語っても、せいぜいこの世の生活の延長でしか語ることはできないでしょう。そして、そんな希望よりは目の前にぶら下がっている苦難や損得の方がいくらでも大きなものとなってしまうのです。そんな希望はちょっとした出来事で簡単に吹き飛んでしまうのです。

 「現在の苦しみは、将来わたしたちに現れるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」とパウロは言いました。私たちはまだまだ知るべきことを知らないのだと思います。本当に触れるべきものに、まだまだ触れていない。イエス様は私たちにも言われるに違いありません。「あなたがたは聖書も神の力も知らない」と。キリストにおいて現された神の御力のほんの片鱗でも知ることができるなら、神の国の栄光の片鱗でも知ることができるなら、そのように触れることさえできるなら、私たちもまたパウロと同じことを語り、苦難を吹き飛ばすような希望に生きることができるはずです。そのような神との交わり、そのような信仰生活をこれからも求めてまいりましょう。私たちの前には、まだまだ未知の領域が広がっているのですから。

 
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