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「わたしは世の光である」

2006年11月12日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 8章12節

 子供たちにページェントの台本が配られて練習が始まる頃になりました。(今年もクリスマスが近づいてきたなあ)という思いを強くいたします。私たちは毎年クリスマスを、イエス様がこの地上にお生まれになったことを記念して祝います。しかし、歴史上の偉大な人物についてするように「生誕何周年」といった祝い方はいたしません。私たちがクリスマスを祝うのは、その方がかつて生きておられた偉大な人物だからではなく、その方が今も生きておられる主だからです。ベツレヘムの馬小屋でお生まれになり、三〇年あまりの生涯を地上にて過ごされ、十字架にかけられて殺されましたが、復活して今も生きておられる主であるゆえに祝うのです。

 先ほど使徒信条を共に唱和しましたが、このような信仰告白の言葉がまとめられる以前、教会で用いられていた最も古い信仰告白の言葉はもっと短いものでした。「イエスは主である」という言葉です。人々は「イエスは主である」という言葉をもって自らがキリスト者であることを言い表したのであります。「イエスは主であった」ではないのです。「イエスは主である」です。それは約二千年を経た現代においても同じです。イエスは主である。その御方は今も生きて私たちの人生に深く関わってくださる御方です。

 そのような御方であるからこそ、今日お読みした御言葉も意味を持つのです。主は言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」この言葉が福音書に記され、代々の教会によって伝えられてきたのは、イエスという人物がかつてこう言った、ということを伝えるためではありません。イエスという御方がどいういう御方であるか――わたしにとって、あなたにとって――ということを伝えるために、この言葉が福音書に記されているのです。今日は、そのような主の御言葉から二つのことをお話ししたいと思います。

わたしは世の光である

 第一に、この御方は「世の光である」と語られています。わたしにとって、あなたにとってイエスは「光」であるということです。

 ところでイエス様は、「世の光である」という言葉をもって何を仰りたかったのでしょうか。それを知るためには、この言葉が語られた場面を考えてみる必要があります。「イエスは再び言われた」と書かれています。話は前からつながっています。7章を読みますと、場面は「仮庵祭」であることが分かります。

 「仮庵」という言葉はあまり耳馴れない言葉かもしれません。要するに「ほったて小屋」です。この祭りの時、人々は庭とか屋上などにほったて小屋を建てるのです。今でもユダヤ人はそのようにして仮庵祭を祝います。最近では簡単に作れる「仮庵組立キット」がインターネット通販で売られています。仮庵を作るのは、「仮庵祭」がかつてイスラエルがエジプトを脱出して四〇年間荒野を旅したことを思い起こす祭りだからです。かつて自分たちの先祖がこうして仮小屋を造りながら、あるいは天幕を造りながら荒野を旅したのだ、という事を思い起こすのです。

 その「仮庵祭」の第一夜に、神殿には大きな黄金の燭台が四本ほど建てられたと言われます。そこに火が灯され、その火はエルサレムの隅々までを照らし出したそうです。まさに大きな光が輝く時、それが仮庵祭でありました。かつてイスラエルの人々が四〇年間荒野を旅しましたとき、その人々を昼には雲の柱、夜には火の柱が導いたと聖書に書かれています。イスラエルが荒野を旅することが出来たのは、神様が雲の柱をもって、また闇夜には火の柱をもって導いてくださったからです。要するに、「仮庵祭」において灯された燭台の大きな火は、かつて人々を闇夜の荒野において導いた火の柱の光を象徴しているのです。

 そのように火が灯される仮庵祭の神殿において、イエス様は叫ばれたのです。「わたしは世の光である」と。その意味するところは、聞いていた人々には明白であったと思います。かつて闇夜の荒野を火の柱が輝いて導いたように、イエス様は闇夜を照らし、荒野を歩む人々を導く光なのだということです。イエス様は、「わたしは世の光である」と言われることによって、この「世」をかつてイスラエルが歩んだ闇夜の荒野にたとえておられるのです。

 この世界に生きることが荒野の旅にたとえられることは、二千年後に生きる私たちにもよく分かります。確かに、この世界はエデンの園ではありません。荒野です。ごつごつした石がここかしこに転がり、命の潤いを失ってカサカサに乾いた荒野を私たちは旅しています。多くの人は毎日のニュースを見ながら、ひどい世の中になったものだと口にするかもしれません。しかし、今の世の中がことさらにひどくなったわけではないのです。聖書を読むと、そのことがよく分かります。世の有様は数千年前も今も変わりません。人間の内に宿る罪は本質的に変わらないからです。その同じ人間の罪がこの世界を依然として荒野にしているのです。

 さらにその荒野を夜の暗闇が覆っています。「夜の暗闇」という言葉から連想される言葉を、私たちはすぐにいくつも挙げることができるでしょう。「不安」「恐れ」「孤独」「怨念」「虚無感」「死の恐怖」「絶望」などなど。確かに、この世界をこれらの諸々の暗闇が覆っています。この世界は暗闇に包まれています。昔の預言者も言いました。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」(イザヤ60:2)と。しかし、先に挙げた多くの「暗闇」は、実はすべて根源的には一つなのです。それは神を失った暗さです。神を失っているから暗いのです。イエス様が見ていたのは、そのような暗さなのです。それが祭りで語られたというのは皮肉でもあります。宗教的な人々はいるのです。宗教的な戒律やしきたりを重んじる人々もいるのです。しかし、神様を失っている。だから暗い。真っ暗闇です。

 しかし、そのような暗闇の中に、そのような「世」にキリストは来られたのです。そしてこう宣言されたのです。「わたしは世の光である」と。かつて闇夜の荒野を旅したイスラエルを導いたあの光である、と。そして、暗黒の中にさまようあなたを照らし、あなたを導く光である、と。そうです、キリストは今も闇夜に生きる私たちの人生に関わってくださる方として、こう語っておられるのです。「わたしは世の光である。あなたの光である」と。

わたしに従う者は暗闇の中を歩かない

 そして第二に、イエス様は「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。朝日が昇るまで夜は去りません。この世界も同じです。この世界が完全な救いの朝を迎えるまで、夜の暗闇が去ることは決してないでしょう。しかし、それでもなお人は「暗闇の中を歩く」必要はないのです。闇の中を傷つき倒れながら傷だらけになってさまよい歩く必要はないのです。光と共に歩めば良いのです。光に導かれながら歩めばよいのです。光が共にあるならば、夜の荒野であっても闇の中を歩くことはないのです。

 皆さん、闇夜の荒野を歩むのに必要なのは、力強い健脚でもすぐれた視力でもありません。光です。荒れ野を導く確かな光なのです。「わたしに従う者は」と主は言われました。「従う」とは後についていくことです。離れずについていくことです。イスラエルの人たちが旅をしていたとき、大切なことは、前を進んでいく雲の柱・火の柱から離れないということでした。それこそが他の何よりも大事なことだったのです。

 私たちが実際に旅をして、真っ暗闇の中を進まなくてはならない状況に置かれたら、光の大切さはいやでも分かりますでしょう。誰も光から離れようとはしないでしょう。しかし、人生の問題になりますと、光の重要性はなかなか分からない。自分で歩いて行けると思ってしまうのです。

 今日は子供たちとの合同礼拝です。先ほど大勢の子供たちが前に出てきました。彼らを見ながら、私にもそのような頃があったと思い起こしておりました。私が世の光なるイエス・キリストを知ったのは、私の幼い時でした。先ほど前の方に子供たちが出てきましたけれど、彼らと同じように私もまた教会においてイエス・キリストの話を聴いていたのです。キリストはいつも共にいてくださる存在でした。

 しかし、中学生になる頃から、キリストには興味も関心もなくなっていきました。生きていく上で、キリストが必要だとも思えなくなったのです。学校の先生や世の大人たちは、いわば私に健脚を鍛えることの重要性とその鍛え方を教えてくれました。他人に負けない強い人間になれ。競争をしたら一番になれ。見かけでない実力をつけろ。そんな声を聞き続けて育ったように思います。また、大人たちは先を見通す目を持つべきことを教えてくれました。他の人の一歩も二歩も先を読むべきことが大事である、と。賢くなれ、と。そのようにして、知らず知らずのうちに、強い足さえ持っていれば、また先を見通す良い目さえ持っていれば、夜の荒れ野も歩いていけるのだと思い込んでおりました。

 しかし、実際はどうだったでしょう。闇の中をさまよい、あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、あちらでつまずき、こちらで他者と衝突し、まわりも自分も傷だらけになっていました。そもそも、いったいどこに向かっているのか、どこに行ってよいのか分かっていないのです。自分の人生、最終的にはどこに向かっているのか?まわりの大人たに聞いてみようにも、どうも彼らも分かっていない。まったく助けにはなりませんでした。

 そんな私の人生に、光なるイエス・キリストが再び入ってきてくださいました。私は光と共にあることの幸いを改めて知るようになりました。足が強いこと――確かに役に立ちます。遠くまで見える良い目を持っていること――確かに役には立ちます。しかし、本当に必要なのは光なのです。光と共にあることなのです。

 人間は生きている限り、荒れ野の旅を避けることはできません。そして、私たちが生きるのは、見渡せば果てしなく暗闇の広がる世界です。その中に生きる限り、苦しいこともあるでしょう。辛いこともあるでしょう。幾たびも悲しみの涙を流さなくてはならないことでしょう。しかし、人はそれでもなお、闇の中をさ迷いながら歩く必要はないのです。光なるイエス・キリストに従うならば!主は言われたのです。「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と。

 
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