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「わたしたちの本国は天にある」

2006年11月5日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピの信徒への手紙 3章17節~21節

牢獄の中で

 今日は聖徒の日です。この日、礼拝堂には、既に地上の生涯を終えられた方々の名前が掲げられております。この一年の間に、5名のお名前がこの列に加えられました。この名簿がこの礼拝堂に置かれているのは、私たちがこられの方々から引き離されてはいないと信じているからです。なぜなら、私たちがこうして礼拝している神は、彼らの神でもあるからです。召された方々の名前が壁に刻まれている教会もあります。いつもそのことを心に留めるためでしょう。私たちは年に一度、この名前が記された額を出してきます。しかし、いつも思い起こさねばならないことは同じです。私たちは生きても死んでも同じ主を仰ぐのです。墓の向こうも墓のこちらも、同じ神の御手の内にあるのです。

 そのような聖徒の日の礼拝において、先ほどフィリピの信徒への手紙3章17節以下をお読みしました。特に、「わたしたちの本国は天にあります」という言葉を、私たちに与えられた言葉として心に留めたいと思います。

 この手紙を書いた時、パウロは未決囚として牢獄におりました。明日の命さえどのようになるか分かりません。しかも、パウロの反対者たちが、パウロのこれまでの働きを否定し破壊するために動き回っておりました。そのように牢獄の外においては、今までの彼の働きが無に帰するかも知れないという状況が展開していたのです。パウロはどうすることもできません。彼はそのように壁に囲まれた空間において、明日も知れぬ命を生きていたのです。

 しかし、そのようなパウロの姿は特別なものであるかと言えば、必ずしもそうは言えないだろうと思うのです。明日の命さえどうなるか分からない。――それは私たちにしても同じです。積み上げてきたことが無に帰するようなことが起こる。――それは私たちにしても同じです。四方を壁で囲まれている。――それは私たちもまた様々な限界の中に生き、手に負えない多くの事ごとに囲まれております。

 しかし、現実に牢獄の中に閉ざされているはずのパウロが、こう宣言しているのです。「わたしたちの本国は天にあります」と。つまり物理的には閉ざされているその牢獄さえも、パウロにとってはもはや閉ざされたものではないのです。彼の人生は閉ざされてはいないのです。なぜなら彼は天とつながっているからです。言い換えるならば、彼には常に天が開かれているのです。

 その言葉が、今日私たちにも与えられています。私たちもまた、パウロと共に、「わたしたちの本国は天にあります」と言い表して生きていきることができるか。それとも、閉ざされた人生の牢獄の中で不平や不満、恐れや不安という諸々の亡霊と共に生きるのか。それは決定的な違いとなってまいります。私たちは、ぜひともこの言葉を、私たち自身の言葉としたいと思うのです。

恵みとして与えられた市民権

 「わたしたちの本国は天にあります。」――パウロは、その言葉をフィリピの教会に宛てて書きました。この手紙を読んだ人々は、パウロが言わんとしていることが何であるか、ピンと来たに違いありません。というのも、そのフィリピの町はローマ帝国の植民都市であったからです。

 フィリピはマケドニアにある一都市でありながら、そこにはギリシア流ではない、ローマ流の生活がありました。そこに住んでいる人々の大部分はローマの市民権をもっていました。その市民権を持っているがゆえに様々な特権を享受していました。それがまた彼らの誇りでもありました。彼らは皆、「わたしたちの本国はローマにある」と言って生きていたのです。ですから、「わたしたちの本国は天にあります」という言葉を読んだ時、フィリピの信徒たちはただちにその言葉のイメージをつかむことができただろうと思うのです。

 「わたしたちの本国は天にあります。」――それはフィリピの人々がマケドニアに居ながらローマの市民として生きたように、地上にありながら天の市民として生きるということです。信仰者として生きるとはそういうことです。この世にありながら、この世のことだけを考えて生きるのではなく、天につながる者として、天に属する者として生きていくのです。

 そのように、信仰生活というものは、植民都市における生活と良く似ていると言うことができるでしょう。しかし、その一方で、「本国がローマである」と言うことと、「本国は天にあります」と言うことの間には、決定的に異なる要素があることも見落としてはなりません。類似があれば相違もまたあるのです。ローマの市民であることにおいて重要なのは皇帝との関係です。天の市民であることにおいて重要なのは神との関係です。それは全く異なる事柄なのです。なぜなら、人間との関係であるならば、いくらでも誤魔化しがきくかもしれないけれど、神との間においては一切の誤魔化しがきかないからです。

 考えてみてください。いったい私たちは神の御前において、自分を指して、「わたしは天を本国とする市民である」と胸を張って言える者でしょうか。天の市民として自分は相応しい人間であると言えるでしょうか。言えないだろうと思うのです。この世に生きる私たちは、しばしば神をないがしろにし、神がおられぬかのごとくに生きているものです。おおよそ天とは無関係に振る舞っているものです。そのすべては神の前に明らかなのです。そのような私たちが、どうして当たり前のように「わたしたちの本国は天にあります」などと口にすることができるでしょう。

 私たちが正直に自らを省みるならば、「わたしたちの本国は天にあります」という言葉は、本来だれも口にすることのできない言葉であることが分かります。そのような私たちが、なおも「わたしたちの本国は天にあります」と言い得るとするならば、それは特別な神の恵みによるしかありません。神の御前に明らかである私たちの背きと罪とが問題であるならば、神によって赦していただくしかないのです。

 その神の特別な恵みこそ、イエス・キリストの十字架なのです。私たちに罪の赦しが与えられるように、キリストが私たちの罪を背負い、十字架の上で罪の贖いを成就してくださったのです。キリストは何のために来られたのか。キリストは何のために十字架にかかられたのか。キリストは何のために私たちの罪を背負われたのか。――それはローマの市民権ならぬ、天の市民権を私たちに与えるためでありました。このキリストの十字架のもとにあって、初めて私たちは「本国は天にあります」と、心からそう言い得るのです。

わたしたちの本国は天にある

 実はこの御言葉は、私にとってたいへん思い出深いものです。今から丁度7年前の10月31日に、わたしは一人の方の洗礼式を行いました。それは病院の無菌室の中での洗礼式でした。その方をNさんとお呼びしておきます。Nさんは翌年2月に亡くなられました。それまでの約4ヶ月、最後までNさんは無菌室を出ることはありませんでした。まさに閉ざされた部屋での信仰生活でした。

 その方は教会員のご主人で、大学の教授でした。その部屋には書き散らされた多くの研究メモがありました。内容を見ても良く分かりませんでしたが、一つのことだけは分かりました。まだまだ書きたいこと、まとめたいことがたくさんあったであろうということです。その部屋には多くの書類と書物が積まれていました。まだまだ読んでおきたいものがたくさんあったのだと思います。すべてが途上にありました。そして途上で終わるであろうことを、Nさんはよく分かっていたのだと思います。

 獄中にいたパウロだったら、その方に何と言ったでしょうか。多分、こう言っただろうと思います。「あなたの気持ち、良く分かるよ。わたしもまた閉ざされた壁の中にいる。ここから出ることはできない。そして、わたしがしてきたことはすべて途上にあって、途上のまま終わるだろうと思う。あなたと一緒だ。」

 そのように無菌室での生活の中において洗礼を受けられたNさんは、亡くなられる二日前にわたしが訪ねた時、もはやうまく伝えられなくなった言葉をもって、私にこう言いました。「聞いておくべきことはないか」と。私は最初良く聞き取れなかったので、それは質問であるか、と聞きましたら、その方は静かに頷かれました。

 「聞いておくべきことはないか」。――聞いておくべきことはあります。人が死に向かうならば、聞いておくべきことはあるのです。イエス・キリストの十字架による罪の贖いによって、あなたの罪が赦されたこと。そして、罪を赦された者として神が共におられること。神が共におられるならば、もう大丈夫であること。安心してよいこと。これは既に洗礼の準備の時にお話ししたことでした。しかし、聖書が告げる福音を、本当の意味で自分のものとして欲しいと切に祈り願いつつ、私は彼の耳元で一生懸命に語りかけました。

 「がんばりなさい、病気は必ず直るよ」という励ましの仕方もあるでしょう。そして、しばしばそれは大切です。しかし、それはあるところまでなのです。あるところまでくると、その励ましは意味を失うのです。そして、その励ましが意味を失うならば、そしてすべてが限界の壁の中において途上のままに終わっていくことが明らかになる時には、もはや人が語り得ること、聞き得ることは多くはないのです。あなたの罪は赦されたということ。神は共におられるということ。最終的な希望はそこに行き着くのです。

 次の日、Nさんはもはやほとんど言葉をもって意志を伝えることはできなくなっていました。そのような中で、もう一つの聖書の言葉を私はNさんと共有しました。「わたしたちの本国は天にあります」。今日、私たちにも与えられている御言葉です。その方は深くうなずかれました。ああもう大丈夫だと思いました。この言葉にうなずくことができるなら、未完成も中断も制約も限界も本質的には全く問題ではなくなるからです。

 Nさんはその翌日、静かに本国へと帰って行かれました。

 「わたしたちの本国は天にあります。」イエス・キリストの十字架によって、私たちにも与えられている言葉です。キリストは、天の市民権を与えるために、十字架にかかってくださいました。私たちもまた、キリストにあって「本国は天にあります」と言い表しながら生きていきたいと思うのです。

 
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