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「イエスを見捨てた弟子たち」

2006年10月15日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 14章43節~52節

 三浦綾子さんが書かれた『私の赤い手帳から』-忘れえぬ言葉-という本があります。その中に、「氷点」の挿絵を担当された福田豊四郎氏と初めて出会った時のエピソードが次のように記されております。

 「初めての旭川での夜、先生は私たち夫婦と、門馬氏、四人の席で楽しそうに盃を重ねていられた。お酒はかなり強かった。飲んでいられるうちに、先生は膳の向こうから身を乗り出すようにして私の顔をじっと見つめられた。今までの笑顔は消えていた。

 『わたしはあんたが気に入った。だから挿絵は描かせてもらう。だがね、節を曲げたら直ちに挿絵をやめますよ』  のんきな私だが、これは容易ならざる言葉だと思った。と言って、私に守るべき節があるのかどうか、分からなかった。  『あのう…節って…』私は間抜けた返事をした。と、先生は、ふっと笑って、  『あなたはクリスチャンでしょう。そのクリスチャンとしての節を、曲げてはいけないと言っているのです』  私は既に四二歳になっていた。が、私には育ち切らないところがあって、よく言えば童女、悪く言えばいささか単純に過ぎるところがあった。内心私は(なあんだ)と思った。私はその12年前、病床で受洗していた。自分はどんなことがあっても、死ぬまでクリスチャンであり得ると信じていた。キリストを信じない自分など、想像もできなかった。そう単純に割り切っていたので、クリスチャンとしての節を曲げることなど、ある筈はないと不遜にも思ったのである。人間とは弱い者であり、いかに強い信仰でも、国家権力や周囲の状況次第で、もろくも崩れていくものであることを、想像もしない幼さが私にはあった。」

もろくも崩れてしまった弟子たち

 本日の福音書朗読はマルコによる福音書14章43節からでしたが、この短い箇所には、まさに三浦綾子さんの言う、「周囲の状況次第で、もろくも崩れて」しまった人々の姿が描かれております。彼らの内にあった信念も自負心も使命感も正義感も愛情も忠誠心も何もかも、重大な局面に立ったときそのすべてが跡形もなく崩れ去ってしまったのです。

 そこにはユダが再び登場します。「十二人の一人であるユダ」と書かれています。14章10節にも「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った」と書かれていました。「十二人の一人であるユダ」――「よりによってあの十二弟子のひとりであるユダが」という意味で書かれているのでしょう。

 イエス様の弟子は十二人だけではありませんでした。ルカによる福音書では、その周りに七二人の弟子のグループがあったことが記されています(ルカ10:1)。イエスの弟子を自認する人々はそれ以上の数に上ったと思われます。十二弟子はそのような数多くの弟子たちの中でも特別な存在だったのです。特に重要な働きを託されていたでしょうし、彼らもそのことを自覚していたはずです。そして、やがてイエスが神の王国を打ち立てたあかつきには、自分たちもイエスと人々を支配する立場に立つのだと思っていたのです。

 しかし、よりによってその十二弟子の一人が主を捨てて裏切ったのだと聖書は伝えているのです。ユダは先頭に立ってイエス様に近づきます。暗闇の中においても確実にイエスを引き渡すために彼が取った手段は接吻を合図とすることでした。最後まで弟子としての仮面をかぶったまま、親愛の情を表現する接吻をもって、ユダは剣や棒をもった群衆にイエス様を引き渡したのです。

 いったいなぜユダはそのようなことをしたのか。どうしてそのような恐ろしいことができたのか。古来から数多くの説明がなされてきました。しかし、マルコは説明しようとはしません。それは謎に包まれたままなのです。ルカによる福音書にはただこう書かれております。「十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」(ルカ22:3)。そうとしか説明のしようがないのでしょう。

 「この21世紀にサタンの話なんて、バカバカしい」と言われますか。しかし、実際そのようにしか表現できないことは私たちの経験の中にいくらでもあろうと思うのです。悪い思いが入ってきたときに、心の中で何かが崩れていく。心の内にあって人を支えていたものが崩れていくのです。それが崩れたとき、恐るべきことが起こります。接吻をもって人を裏切るということさえ起こります。

 他の弟子たちはどうだったでしょう。常に弟子たちの群れの先頭に立ってきたペトロは、イエス様にこう言いました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」さらにこうも言いました。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」そして、他の弟子たちも同様のことを言ったと書かれています(14:29‐31)。彼らは虚勢を張っていたわけではありません。心底そう思っていたのです。彼らにはイスラエルの復興という希望がありました。夢がありました。使命のためには命を捨てても惜しくないと思っていたことでしょう。そして何よりも、自分たちを導いてくれるイエスを心から慕っておりました。

 しかし、彼らはどうなったでしょうか。聖書は実に淡々と「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(50節)と語っております。イスラエル復興の希望も、夢も、使命感も、その時には何一つ確かなものとして役には立ちませんでした。周囲の状況次第で、もろくも崩れてしまったのです。

父なる神によって

 そのようなユダの姿、弟子たちの姿と対照的なのはイエス様の姿です。イエス様は、近づいてくるユダと向き合い、その裏切りの接吻を受けられました。剣や棒を持って一斉に捕らえにかかる人々の暴力に身をゆだねます。裏切られた人。弟子たちからも群衆からも見捨てられた人。嵐に翻弄される一枚の木の葉のような有様です。しかし、その一枚の木の葉は嵐の中にあってなぜか動かない。主は毅然として彼らにこう語られます。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである」(48‐49節)。

 「これは聖書の言葉が実現するためである」。そうイエス様は言われました。言い換えるならば、「神の御心が実現するためである」ということです。父なる神への信頼の言葉です。裏切りと暴力のただ中にあって、イエス様を立たせていたのは、信念や使命感などではありませんでした。イエス様は自分の心の内にあるものによって立っていたのではないのです。そうではなくて、主は父なる神によって立っていたのです。この直前には、キリストの祈りの姿が描かれていました。先週お読みした箇所です。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(36節)。イエス様はそう祈られました。恐れにもだえながらでもこのように祈ることができる父との関係こそが、ユダの裏切りの前に、捕らえに来た群衆の前に、キリストを揺らぐことなく立たしめたのです。

 私は牧師ですから入院している方をお訪ねする機会が少なくありません。すると時折、他の患者さんから「信仰のある人はいいですね」というような言葉を聞くことがあります。苦難の時に、危機に直面したときに、信仰がその人を支えるというのは、確かにそうだと思います。しかし、その言葉を聞きながら、その人はどのようなつもりで言っているのかな、と思うことがあります。「その人の内にある信仰心がその人を支えるのだ」という意味でしょうか。実際、そのような意味で語られていることは少なくないと思います。「何を信じたってよいのだ。信じる心が大事なのだ」という言葉も、良く耳にしますから。しかし、そのような意味において「信仰心がその人を支えている」と言うならば、それは正しくないだろうと思います。信じる心などというものは、状況によっていくらでも崩れていくものだからです。三浦綾子さんが言うように、「人間とは弱い者であり、いかに強い信仰でも、国家権力や周囲の状況次第で、もろくも崩れていくものである」ということは事実なのです。

 人間を支えるのは、「信じる心」などではありません。そのような意味における「信仰」などではありません。動かざるものは心の内にあるのではなくて、外にあるのです。生ける神御自身です。人間を支えるものは、人間の内にあるのではなくて、神と人間との間にあるのです。神との絆であり神との交わりです。ですから、イエス様は弟子たちに「しっかりせよ」とか「心を確かにせよ」と言ったのではなくて、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と言ったのです。目を開けて、自分の内に目を向けるのではなくて、神に目を向け、神と向き合うことを求めたのです。

目を覚まして祈っていなさい

 そもそも、ペトロが三回もイエス様を否んだことや、弟子たちが皆、イエスを見捨てて逃げてしまったことが、どうして聖書に書かれているのでしょう。それは彼らが口を閉ざさなかったからです。恥ずかしい過去について、口を閉ざさなかったからなのです。彼らは良く知っていたのです。自分たちが使徒とされているのは、節を曲げなかったからでも、信念を貫き通したからでもないということ、そして彼らがなおもキリスト者であるのは、彼らの心の内にある強さによるのではない、ということを。いざとなったら何をしでかすかわからないような弱く心の不確かな者を、イエス様がその憐れみによって、御自分との交わりの内に、そして父なる神との交わりの内に回復してくださったからなのだ、ということを彼らは骨身に染みて知っていたのです。

 それは福音書を書いたマルコにとっても同であろうと思います。一人の若者が真っ裸で逃げて行ったという出来事を彼は書き添えました。別にどうでもよいことをあえて書き加えたのは、どうしても書きたかったからに違いありません。というのも、マルコもまたいわば「逃げ出した人」だったからです。パウロが第2回の伝道旅行に出発する際の出来事を、使徒言行録は次のように記しています。「バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた」(使徒15:37‐38)。第一回目の伝道旅行のとき、パウロたちに同行したマルコには、それなりの使命感や熱情があったに違いありません。しかし、彼は途中で脱落してエルサレムに帰ってしまったのです。パウロは怒りました。そんな奴はもう連れて行けないと第2回目の際にパウロに見限られてしまったのがマルコです。

 しかし、マルコはそれで終わりませんでした。彼はバルナバと共にキプロスに渡り、伝承によれば後にペトロの通訳として働き、そしてやがてこの福音書を書きました。そして、彼はその中に、裸で逃げていく一人の若者のことを書いたのです。きっと「これはわたしだ」という思いを込めてでしょう。いずれにせよ、マルコにとりましても、福音書を書いている自分が今あるを得ているのは、自分の心の内にある確かさや強さによるのではないことは、明らかであったはずです。

 そのようなマルコにとりましても、またペトロや他の弟子たちにとりましても、「誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい」というイエス様の言葉はとても大きな意味を持っていたに違いありません。人はただ本当に確かな御方につながっているしかないのです。つかんでいていただくしかないのです。憐れみを求めて祈るしかないのです。「試みに遭わせず、悪より救いだしたまえ」と。

 
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