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「御心がなりますように」

2006年10月8日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 14章26節~42節

 私がまだ神学校に入る前、学生でありました時、学内のクリスチャンの友人たちと時々夜半に集まっては祈りの会を持っていました。当時、大学のゼミ室が夜でも自由に使えましたので、はじめはある友人と二人で祈っていたのですが、次第に仲間が増えていったわけです。そんなある日、ひとりの学内のクリスチャンを祈りの会にお誘いしました。すると彼は私にこう言ったのです。「そんなに長く祈ってどうするんですか。わたしは『御心がなりますように』としかお祈りしませんよ。どうせ御心がなるんだから。」――(へえ、おもしろいこと言うやつだな。)わたしはそう思っただけで、そのことはしばらく忘れていたのです。

 やがて私は神学校に入りました。他の教会の人と祈る機会も多くなりました。そんなある日、わたしは彼の言葉をふと思い出したのです。「わたしは『御心がなりますように』としかお祈りしませんよ。どうせ御心がなるんだから」。――彼ほどあからさまに言う人はおりません。しかし、あっさりと「御心がなりますように」と祈る人が決して少なくないことに気づいたのです。いや実のところ、私自身もそうであることに気づいたのです。「どうせ御心がなるんだから」と安易に考えているか、あるいは「御心しかならないのに、あれこれと願い求めることに何の意味があるのか」という半ば諦めに似た気持ちでそう言っているか、いずれにしてもそのような事が無きにしもあらずであることに気がついたのです。皆さんはどうでしょうか。

 本日はマルコによる福音書14章26節からお読みしました。32節以下にはゲッセマネの園におけるイエス様の祈りの姿が記されています。イエス様はゲッセマネの園で「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(36節)と祈られたのです。「御心がなりますように」との祈りです。しかし、果たしてこのキリストの祈りと、私たちの「御心がなりますように」という祈りは同じ祈りなのでしょうか。もし違っているとしたら、何が違っているのでしょうか。その事を今日は共に考えてみたいと思います。

この杯を取りのけてください

 イエス様は過ぎ越しの食事の後、弟子たちと共にオリブ山へ出かけて行き、ゲッセマネの園で祈られました。その時、主はひどく恐れてもだえ始めたと書かれております。イエス様は三人に「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」(14:34)と言われ、少し進んで行って祈り始められました。地にひれ伏して、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈られたのです。

 すでにイエス様は弟子たちに御自分の受難について幾度も語ってこられました。マルコによる福音書にはその内の三回が記されております。たとえば、8章31節に次の様に書かれています。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」そのように、今まで、十字架にかかられる事を承知でエルサレムにまで来られたのに、いざとなったらこれほどに取り乱している。このゲッセマネの場面を読んで意外であると感じる人は少なくないことでしょう。

 しかし、この場面の異常さこそ、まさにイエス様に課せられた事の重大さを物語っているのです。主はこう祈っています。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」取りのけてほしい「この杯」とはいったい何なのでしょうか。十字架につけられて殺されること――確かにそうです。しかし、それが意味するのはただ単に肉体的・精神的苦痛を伴う死ということではありません。確かに十字架刑は残酷な刑罰です。しかし、十字架刑によって殺されたのは何もイエス・キリストだけではないのです。それまでにも十字架刑に処せられた人はいたはずです。現にイエス様と共に二人の犯罪人が十字架にかけられておりました。そして、肉体的・精神的苦痛という意味だけならば、世の中にはもっと大きな苦しみを味わいながら死んでいった人もいただろうと思うのです。イエス様が「この杯」と呼んでいるものは、そのように既に誰かが経験したことのある苦しみであろうはずがありません。

 では、イエス様に与えられた「この杯」とは何だったのでしょうか。それはただ苦しんで死んでいくということではなくて、《神に裁かれて死ぬ》ということだったのです。もちろん、キリストは自分自身の罪のゆえに神から裁かれる必要はありません。この御方には罪がありませんでした。この御方は父なる神を愛し、人を愛して生きられました。この御方は父なる神と一つでした。この御方は聖なる方でした。ですから、この御方が背負っていたのは自分の罪ではありませんでした。そうではなくて、私たちの罪です。この御方は私たちすべての人間の罪を背負っていたのです。それは私たちすべての人間の代わりに、神の裁きを受け、神に見捨てられることを意味したのです。

 私たちは「神に見捨てられた」などと軽々しく口にするものです。神に罰せられた、バチが当たった、などと言うものです。しかし、私たちは神の裁きが何であるかということを本当は何も知らないのです。「わたしは罪深い」などとも言います。しかし、恐らく本当の意味で私たちは自分の罪深さなど知らないのです。私たちがどれほど罪深くて、その罪が正当に裁かれるならばどうなるかということを知らないのです。その結果、神に見捨てられるということがどういうことかも知らないのです。だから平気でいられるのです。

 それを知っていたのは、この御方です。罪が何であるか。罪ある者が赦しを得るために、身代わりに罪を背負うということがどういうことであるか。その結果、正当な裁きを受けて神から捨てられるということが、どれほど恐ろしく、悲しく、苦しいことであるか。それを知っていたのは、本当の意味で父なる神を知るキリストだけなのです。あの時、イエス様には何が見えていたのでしょうか。どれほど恐るべきことが見えていたのでしょうか。私たちはただこの方の苦悩の姿を通して僅かばかりに知り得るのみです。恐れ、もだえ苦しみながら祈るイエス様の姿。そこに私たちは、この方が背負っていた私たちの罪の重さ、そして罪に対する神の裁きの恐ろしさを垣間見るのです。

わたしたちと同様に試練に遭われた方

 そして、もう一つ。この御方がもだえ苦しみながら祈る姿は、神の御子が確かに私たちと同じひとりの人間となってくださったことを示しているのです。この御方は苦しみ悩みながら生きている私たち人間と、すべてを共有してくださったのです。聖書はこう語っています。この御方は「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)。

 「わたしたちと同様に試練に遭われた」。「試練」とは「誘惑」という意味の言葉でもあります。「試練」あるいは「誘惑」というものは、神の意志と肉なる私たちの意志との葛藤において起こります。神の意志と私たちの意志が完全に一つならば試練も誘惑もないのです。しかし、現実にそうはいきません。神の意志と肉の意志が対立するのです。神の御心があちらを指し示しても、肉の意志はこちらに向かおうとするのです。そのような肉における葛藤をも、キリストは私たちと共有してくださったのです。

 神の御心は、キリストが与えられた恐るべき杯を最後の一滴まで飲み干すことにありました。しかし、キリストは一人の人間として、「この杯をわたしから取りのけてください」と祈ったのです。この葛藤こそキリストが受けられた試練であり誘惑でありました。神の御心に従うことがイエス様にとってたやすいことだったと考えてはなりません。そこにはどうしても勝たなくてはならない戦いがあったのです。試練・誘惑との戦いがあったのです。どうしても征服されなくてはならない肉の意志があったのです。

 そして、その戦いの結果こそが、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という言葉だったのです。しかも、イエス様はその言葉を三度も繰り返して祈っているのです。それは、イエス様にとってさえ、本当の意味で「御心に適うことが行われますように」という祈りに行き着くことが、いかに困難であったかを物語っているのです。

 「御心がなりますように」という祈りの言葉自体は、しばしば敬虔さを装います。しかし、もし神の御心を真剣に知ろうともせず、御心の自ら従おうともせず、口先だけで「御心が成りますように」と祈って、現実には肉に従って生きているとするならば、それは敬虔さを装った最も不敬虔な祈りに他なりません。それゆえに「御心がなりますように」という祈りの言葉は安易に口にされるべき言葉ではないのです。神に対して横を向きながら、さらりと言ってのけてはなりません。

 神の御心は、私たちと無関係に実現するのではありません。神は御心を実現するために私たちを用いようとしておられるのです。私たちの人生を用いようとしておられるのです。 ならば、イエス様が見せてくださったように、私たち自身が、まず本気で神様と向き合うべきなのです。自らに与えられた杯を取りのけて欲しいという思いがあるならば、神様にしがみついて、すがりついて、泣きついてでも「この杯をわたしから取りのけてください」と祈るべきなのです。そのように祈りにおいて神と向き合って生きてこそ、初めて私たちを通して為そうとしておられることも見えてくるのでしょう。

 そして、もし私たちに与えられた杯を飲み干すことが本当に神の御心ならば、そのような祈りによってこそ、私たちは最終的に確信をもってこう言うことができるようになるのです。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と。それは諦めではないのです。「どうせ御心がなるのだから…」ではないのです。それは真に試練と誘惑に打ち勝った姿なのです。イエス様はこの場面の最後においてなんと言っておられますか。主はこう言われたのです。「時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」(41‐42節)。これこそがイエス様が見せてくださった、試練と誘惑に打ち勝った姿です。

立て、さあ行こう

 イエス様は弟子たちに「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(38節)と言われました。しかし、神の御心の実現のために必死に戦っているイエス様の傍らで彼らは眠りこけていたのです。身につまされる姿です。「御心がなるように」と口にしながら、まったく御心の実現のための戦いになっていない、霊的に眠りこけてしまっている私たちの姿がそこにあります。何度イエス様に言われても、眠ってしまっていた弟子たち。イエス様に何と言ってよいか分からなかった弟子たち。私たちの姿です。しかし、そのような弟子たちに対してイエス様は、「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。わたし一人で戦うから」とは言われなかった。主は言われたのです。「立て、さあ行こう!」イエス様はそういう御方です。

 それはこの後の物語を読んでも分かります。ここで眠りこけていたペトロは、イエス様が予告したように、イエス様を三度知らないと言って見捨てて逃げてしまうのです。他の弟子たちも同じです。イエス様が十字架にかかられたとき、御心の実現のために戦っていたのはイエス様だけだったのです。ゲッセマネの園における構図は、十字架の場面においても全く変わらなかった。イエス様一人が父なる神に向かっていたのです。

 しかし、イエス様は「もうわたし一人で良い」とは言われませんでした。復活のキリストは再び弟子たちに現れてくださった。そして、いわば「立て、さあ行こう」と弟子たちにそう言ってくださったのです。そのようにして教会はできたのです。そのようにして、ここに私たちがいるのです。主は私たちにも繰り返し、「立て、さあ行こう」と言ってくださいます。だから、私たちはまた、神の救いの御心がこの地上になることを求めて立ち上がるのです。目を覚まして祈り始めるのです。真に御心を知り、試練と誘惑に打ち勝ち、確信をもって「御心がなるように」と言えるようになるために。

 
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