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「律法学者と貧しいやもめ」

2006年9月17日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 12章35節~42節

 本日の福音書朗読には律法学者と貧しいやもめが出てまいりました。もっとも、律法学者はイエス様の話の中に出てきたのであって実際に登場したわけではありませんが。一方は宗教的にも社会的にも非常に重んじられていた人たちです。もう一方は宗教的にも社会的にも最も軽んじられてた人々の一人です。しかし、イエス様は律法学者については「人一倍厳しい裁きを受けることになる」と語られ、一方、貧しいやもめの小さな行為については、弟子たちをあえて呼び寄せることまでして注目させたのでした。

律法学者と貧しいやもめ

 まず、律法学者について考えてみましょう。彼らは律法の専門家です。律法学者になることは決して容易なことではありません。長い年月をかけて律法を学び訓練を受けます。そして、正式に任命されて律法学者となるのです。彼らは何を思って律法学者となることを志したのでしょうか。その動機はそれぞれ異なることでしょう。しかし、もしその人が敬虔なユダヤ人であるなら、神の律法に携わる志を神から与えられた者として律法を学び訓練を受けて準備をすることには、神に仕える大きな喜びであったに違いありません。

 パウロもキリスト者になる以前はガマリエルという有名なラビのもとで学んでいた人でした。使徒言行録において、そのパウロがかつての自分を振り返って次のように語っています。「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました」(使徒22:3)。このように使徒言行録に記されている彼の証言を読みます時、この人は純粋に神に仕える熱心さをもって律法を学んでいたことが伺えます。恐らくパウロだけが特別だったのではないでしょう。誰でも当初は、神を思う純粋な熱意をもって律法を学んでいたであろうと思うのです。

 しかし、イエス様が律法学者について語っていることもまた事実だったのです。純粋な志をもって歩み始めた彼らが、いつの間にか、長い衣をまとって歩き回ることを好むようになりました。長い衣は権威の象徴でした。人々が彼らの権威を認めるということは、彼らにとって非常に大事なことでした。それゆえに権威を主張し続けなくてはなりませんでした。また、広場で挨拶されることを求めるようになりました。人々から敬われることが彼らの関心事となりました。会堂では上席、宴会では上座に座ることを望むようになりました。人々より少しでも上に位置することを求めました。そして、人々から接待されることを求めるようになりました。神の律法はやもめや孤児を保護することを命じています。彼らはそのことを知っているはずでした。しかし、自分たちが結果的にやもめの家に大きな負担を強いていることについては無関心でした。また、彼らは神に語るためではなく、人に見せるための長い祈りをしました。神からその信仰を認められることよりも、人々から敬虔であると思われることの方が重要になりました。いったい彼らの内に何が起こったのか。問題は明らかです。関心が神から人へと移って行ったということです。

 人から敬われること、人から重んじられること、人から評価されることは、それ自体悪しきことでも、忌むべきことでもありません。しかし、この世の誉れはたえず私たちの関心を神から引き離す危険を伴っているものです。失敗や挫折を私たちはしばしば試練と呼びます。しかし、私たち自身が試されるという意味において、本当に厳しい試練はむしろ人々から評価され、重んじられ、尊敬され、賞賛されている時であると言えるでしょう。 イエス様は、「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と言われました。たとえ人々から権威を認められても、敬われても、高い者として見られても、それが裁きで終わるならば、いったい何になるのでしょうか。

 次に貧しいやもめの姿に目を向けてみましょう。イエス様は賽銭箱にむかって座っておられました。そして、人々が献金を捧げている様子を見ておられたのです。多くの富める人々が次々と多額の献金を捧げて行きました。その後、貧しいやもめがきて、レプトン銅貨二枚を入れたのです。これは1クァドランスに当たると書かれています。今のお金で言うなら百円ぐらいだと思います。しかし、イエス様はこれを御覧になって言われました。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」(43‐44節)。

 神殿にはラッパの形をした献金箱が13個置かれていたといいます。誰がどれくらい献げたかは、近くにいる誰の目にも明らかだったことでしょう。そのようなところに大勢の富める人が多額のお金を献げる中で、レプトン銅貨二枚を献げることは、人からの評価にしか関心のない人には絶対にできないことでしょう。彼女がそこにいたのは、明らかにこの人がそうせずにはいられなかったからです。神によって生かされている感謝、そしてその神を愛する愛が、彼女を突き動かしていたのでしょう。

 そのような貧しいやもめが献げたレプトン銅貨2枚――それは生活費のすべてであったと主は言われました。しかし、主があえて弟子たちを呼び寄せてまで彼女の行為に注目させたのはなぜでしょう。「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」と主は言われました。しかし、単純に額の多少で評価できないのだよ、ということを言うために、ただ生活費に対する献金の割合が、金持ちの献金よりも大きいのだ、ということに注目させるために、わざわざ弟子たちを呼び寄せたのでしょうか。そうではないと思うのです。だれよりもたくさん入れたとはどういうことでしょう。

 このやもめの献げものをご覧ください。人々の目に映ったのはレプトン銅貨二枚です。しかし、イエス様の目に映っていたのは単なる銅貨二枚ではありませんでした。それは生活費全部だった。それは神に信頼しなくては献げられません。イエス様が見ていたのは、このやもめの信頼だったのです。神への感謝と愛をもって彼女が真心から献げようとしていたのは、神への信頼なのです。イエス様はその見えざる献げものを見ておられたのです。まさに神が目を留めておられる献げものとして、弟子たちにも目を向けさせたのです。

貧しき弟子たちのために

 さて、このように律法学者の姿、それとは対照的な貧しいやもめの姿を見てまいりました。私たちはそこから何を聞き取るべきでしょうか。律法学者のような生き方を反省し、この貧しいやもめのように生きるべきであるという事でしょうか。たしかにそれも大事です。しかし、今日の聖書箇所を、ただ私たちへの戒めの言葉として読むだけでは十分ではないのです。すでにお気づきの事と思いますが、本日の説教では、35節から37節についてまだ何も語っておりません。この部分を読まないと、今日の説教は完結しないのです。

 イエス様は言われました。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」(35‐37節)。

 メシアがダビデの子孫として生まれることは旧約聖書に預言されていることです。ですから、イエス様の時代においても、人々はダビデの子孫から生まれるメシアをひたすら待ち望んでいたのです。しかし、「ダビデの子」という言葉は、単にメシアがダビデの子孫として生まれること以上を意味していました。メシアが到来することは、失われたダビデの王座が回復されることを意味したのです。すなわち、メシアの統治する偉大なる王国の再建です。人々は、イスラエルを異邦人の支配から解放し、独立した強大な王国を打ち建てる王の到来を待ち望んでいたのです。そして民衆は、このナザレのイエスこそ、まさしくそのような王となるべき御方だと信じていたのです。

 しかしイエス様は、メシアがそのような意味における「ダビデの子」であることを否定されたのです。単なる政治的解放者でありダビデの王座を回復する者ではなくて、それ以上の者なのだというのが、ここでイエス様の言っておられる事です。ここでイエス様が引用しているのは詩編110編です。最初の「主」は旧約聖書における主なる神ヤハウェを指しており、二番目の「主」はメシアを指しています。つまり、メシアはダビデの子であるだけでなく、それ以上に、ダビデの主でもあるのです。

 そして事実、イエス様はダビデの子として、人々が期待するような輝けるこの世の王座へと向かう栄光の道を進もうとはされませんでした。この御方は、この世の王以上の御方です。詩編110編に歌われているように、神の右の座に就くべき御方です。天の王座に就くべき御方です。しかし、今日お読みしたすべてのやりとりはエルサレムにおいて行われたのです。そのエルサレムにおいて、その週に、その数日後に、イエス様は十字架の上で死ぬことになるのです。これが福音書の伝えているイエス様の歩みです。

 この御方は、天の王座に就くべき御方は、父なる神の御心に従って、人々から誉れを受ける栄光の道とは全く逆方向に、すなわち十字架への道を歩まれたのだと、この福音書は伝えているのです。その御方は、父なる神の御心に従って、世の人々から捨てられ、弟子たちからも捨てられ、あざけりとののしりの声のなかで、孤独のうちに十字架の上で死んでいくという道を選ばれたのです。父の御心に従って、私たちの罪を贖う犠牲となって、私たちを救うためでした。この御方は、私たちを救う父の御心に信頼して従われたのです。あのやもめは生活費のすべてを献げました。そしてキリストは、御自分の命を、御自分のすべてを、私たちの救いのために献げてくださいました。そのようにして、私たちのために、神への信頼を献げられたのがイエス様です。

 そのイエス様が、弟子たちを呼び寄せて、やもめの行為に注目させておられるのです。ならば、それは単に「あの律法学者のようにではなく、このやもめのようになれ」という意味ではありません。イエス様は知っておられたのです。やがて自分は十字架にかかって死ぬことになる。そして、弟子たちがそのようなキリストの御足の跡に従うならば、律法学者のように人々の栄誉を受ける道を歩くことはできないだろうことを知っておられたのです。そのような弟子たちを呼び寄せて、このやもめに目を向けさせたとき、イエス様はきっとこのような思いであったに違いありません。「お前たちは、やがてこのやもめのように、誰からも顧みられることなく、いやむしろ人々から馬鹿にされながらも、まずしい自分自身を献げながら、神への信頼を献げながら生きることになるだろう。そのとき、お前たちは思い起こして欲しい。わたしがあの貧しいやもめが信頼を献げたことに目を留めていたことを。だれが目を留めなくても、わたしはお前たちに目を留めている。なぜなら、そのとき確かにお前たちは、十字架への道を歩んだわたしの後を歩いているのだから」。

 
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