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「神の国から遠くない」

2006年9月10日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 12章28節~34節

あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか

 「人生において最も重要なことは何でしょうか。」――口に出して問うことはしないかもしれません。面と向かって問われることもないかもしれません。しかし、ある意味では、誰の心の内にもある普遍的な問いであるとも言えるでしょう。例えば、何かをしながら、ふと空しさを覚えてつぶやきます。「こんなことしていて何になるのか。」あるいは毎日「ああ、忙しい、忙しい」と言いながら生活している人が、ふと腰を下ろした時に思います。「いったい何のために走っているのだろうか。」人生も終盤に差しかかってきたときに、それまで歩んできた日々を振り返って思います。「わたしは何のために生きてきたのだろうか。」実はそこで私たちの心は答えを求めて問うているのです。「人生において最も重要なことは何であるのか。本当に重要なこととはいったい何なのだろうか」と。

 その問いをユダヤ人ならばこう表現するだろうと思います。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」。神が我々の人生に与えた《なすべきこと》のうち、最も重要なものは何か。我らは何を為して生きるべきか。――お気づきのとおり、今日の福音書朗読の中に出てきた質問です。ある律法学者がイエス様に尋ねました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」その質問自体は、私たちの場合と同じように、恐らくユダヤ人にとって、いつも心のどこかにある問いなのです。そして、実際、繰り返し言葉にして議論されてきたテーマでもありました。ですので、この律法学者がイエス様に尋ねたことは、極めて重大な問いであると同時に、それ自体としては殊更に特別な質問というわけではないのです。

 この質問に対して、イエス様は次のように答えられました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(29‐31節)。これが答えです。「人生において最も重要なことは何でしょうか」の答えなのです。

 とはいえ、このイエス様の答えも、実はそれほどユニークな答えとは言えないようです。このように語ったのは、必ずしもイエス様が初めてではありません。同様の言葉はユダヤ人の文献にも見られます。恐らくこの律法学者もある程度同様のことを考えてきたのです。ですから、イエス様の答えに拍手を送ったのです。「その通り!」と。もっとも、日本語の訳ですと、もう少し謙遜な言い方になっていますが。「先生、おっしゃるとおりです」。そう彼は言いました。そして、実はわたしもそう思っていたんですよ、とばかりに言葉を続けます。「『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」そのように、この答えそのものは、何ら特別な答えではないのです。

 ではなぜ、この答えが福音書に書き記されているのでしょう。それは答えが特別だからではなくて、答えられた方が特別だからです。他ならぬ《イエス様が》語られたからなのです。同じ言葉を口にするのであっても、それを語る人によって意味合いが全く違ってまいります。この答えを、誰かもう一人の律法学者が口にするのと、イエス様が口にするのでは、全く意味合いが違うのです。今日はそのことについて、ご一緒に考えてまいりましょう。

愛の呼びかけそのものである御方

 イエス様はまずこう言われました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』」。

 イエス様が引用しているのは申命記6章4節です。ユダヤ人ならだれもが知っている聖書の言葉です。成人したユダヤ人ならば、毎日朝夕の二回は必ず口にしている御言葉です。その中心は「あなたの神である主を愛しなさい」という命令です。これを語っているのはモーセという人です。しかし、モーセが命じているのではありません。命じているのは神御自身です。律法とはそういうものです。主なる神が、「あなたの神である主を愛しなさい」と言っておられるのです。「わたしを愛しなさい」ということです。

 考えてみれば、これは実におかしな言葉です。そもそも、「わたしを愛しなさい」という命令は成り立つのでしょうか。例えば、私が大きな力を持っているとします。そこに弱い誰かがおります。私はその人に強制力を持っています。命じることができます。そこで私はその弱い人に命じます。「わたしを愛しなさい」と。その人は、命じられたから、わたしを愛します。そんなことが、成り立ちますか。それは本当に愛と呼べますか。そもそもそれは命じられるべき事柄でしょうか。

 そこで私たちは、このことがもともと語られた場面に戻って考えたいと思います。申命記からの引用だと申しました。申命記はそのほとんどの部分がモーセの遺言とも言うべき説教となっております。それが語られたのは、イスラエルが今やヨルダン川を渡り、いよいよ約束の地に入ろうとしている場面です。

 既にエジプトを出て40年が経過していました。荒れ野を旅した40年間です。それはどのような年月だったのでしょうか。申命記の中に次のように語られています。「あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。あなたは荒れ野で、あなたの神、主を怒らせたことを思い起こし、忘れてはならない。あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた」(申命記9:6‐7)。それは主に背き続けた40年でした。そのような40年を経たイスラエルに対して、主はなおもこう語られたのです。「あなたの神である主を愛しなさい」。

 これは何を意味しますか。背き続けた40年を経てなお、神様はイスラエルに対して「わたしはあなたの神だ」と言っておられるのです。つまり、「あなたの神である主を愛しなさい」という言葉は、強制力に基づいた命令などではないのです。そうではなくて、繰り返し主に背いてきた人々に対し、逆らってきた人間に対し、なおも赦して受け入れようとされる、神の愛に基づいた呼びかけなのです。「あなたの神である主を愛しなさい」と言ってくださること自体が神の恵みに他ならないのです。

 この神の恵みは、最終的にどのような形を取ったかご存じでしょうか。イエス・キリストを世に遣わすという形を取ったのです。この神の愛、この神の恵みこそが、最終的にこの世にキリストを送られた神の愛であり、神の恵みなのです。それが今日の福音書朗読の背景なのです。そのように世に遣わされたイエス様が口を開いて語っておられるのです。「あなたの神である主を愛しなさい」と。しかも、自ら罪のあがないの犠牲になろうとしている御方として、十字架へと向かっておられる御方として、このことを語っておられるのです。「あなたの神である主を愛しなさい」と。

自分のように愛してくださった御方

 そして、さらに主は言われました。「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』」。これも旧約聖書の引用です。レビ記19章18節です。

 神がこのように命じておられます。しかし、この命令の言葉には抜け道があることをご存じでしょうか。「隣人」を愛しなさいと言われているのですから、愛したくなければ「そいつは隣人ではない」と言えばよいのです。隣人とそうでない人との間に線を引いたらよいのです。隣人を限定したらよいのです。

 実際、ルカによる福音書には、こんな話が出てきます。ある律法の専門家がイエス様を試そうとして質問しました。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」するとイエス様は、「律法には何と書いてあるか」と問い返します。律法の専門家は答えました。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」これを聞いたイエス様は言いました。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命を得られる。」「それを実行しなさい」と改めて言われると、実際に実行していない自分が見えてきて、少々心が痛んだのでしょう。彼は自分を正当化するために、こう言ったのです。「では、わたしの隣人とはだれですか。」(ルカ10:25‐29)。この人の心境は分かりますでしょう。隣人とそうでない者の間に線を引いて解決しようとしたのです。

 しかし、イエス様にとっては、「わたしの隣人とはだれですか」という問いは意味を持ちませんでした。福音書に見るとおりです。徴税人も罪人もイエス様の隣人でした。隔離されて生活していた重い皮膚病を患う人たちもまた、イエス様の隣人でした。悪霊に憑かれていた人も、イエス様の隣人でした。なぜならイエス様は「隣人とはだれか」と問うのではなく、自ら隣人になられたからです。そして、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われた方は、実際に隣人を自分のように愛されたのです。

 そこで、今日の聖書箇所に目を転じて、私たちはよく考えなくてはなりません。今日お読みした場面において、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われたイエス様に最も近い隣人は誰なのでしょうか。言うまでもなく、それはイエス様と語り合っているこの律法学者なのです。イエス様はこの律法学者の隣人として、彼の問いに答えているのです。彼を自分のように愛する者として、答えているのです。

 先にも触れましたように、この人はイエス様と同じことを考えてきた人なのです。「『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」。そう彼は言いました。この言葉そのものは、イエス様の目から見ても適切だったのです。ですから、イエス様はこう言われたのです。「あなたは、神の国から遠くない」(34節)。神の国から遠くないとは、言い換えるならば救いから遠くないということです。そうです、確かに遠くはないのです。しかし、「遠くはない」ということは、なおあと一歩が必要だということでもあるのです。

 それは何でしょうか。何が足りないのでしょうか。「あなたの神である主を愛しなさい」と呼びかける神の赦しと恵みそのものである御方が、なんと隣人となって私を愛してくださっている。その事実を知ることなのです。その御方が自分自身のように愛してくださって、命を注ぎ出してでも救いに入れようとしておられるのです。自らが十字架にかかってでも神の国に入れようとしておられる。人が神と共に生き、人と人とが共に生きる全き愛の世界に入れようとしておられるのです。そのような御方、救い主であるキリストを知ることなのです。あと一歩なのです。彼は神の国から遠くないのです。そして、このやりとりが書き残されたのは、後の時代の人々もまた、そして今日の私たちもまた、そのことを知るためなのです。どうしても欠くことのできない大切な一歩を知るためなのです。

 皆さん、背き続けてきた私たちをイエス様が神の国へと招いてくださいます。救いの世界へと招いておられます。「あなたの神である主を愛しなさい」と。私たちの隣人として、友として!私たちのために命を捨ててくださるほどに愛してくださった隣人として、語りかけ招いてくださる。このイエス様の愛を受け入れてこそ、「神の国から遠くない」者から、神の国に生き、神を愛し、人を愛し、神の全き救いの中に生きる者とされるのです。

 
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