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「神のぶどう園」

2006年9月3日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 12章1節~12節

ぶどう園の主人と農夫

 今日お読みしましたのはイエス様のたとえ話です。そのたとえ話を「彼らに話し始められた」と書かれています。「彼ら」とは誰でしょう。前の章から読みますと、これは「祭司長、律法学者、長老たち」(11:27)に対して語られた言葉であることが分かります。イスラエルの指導者たちに対して、主はこう語り始められたのです。

 「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た」(1節)。

 これが場面設定です。このたとえに出てくる「農夫たち」とは、直接的にはイエス様が語りかけているイスラエルの指導者たちを指していると考えてよいでしょう。そうしますと、「主人」は神、ぶどう園はイスラエルということになります。ぶどう園の主人は、「これを農夫たちに貸して旅に出た」と書かれています。ここには主人の信頼が語られています。主人は農夫たちを信頼して、ぶどう園の管理を託した。主人は農夫たちを信頼して、ぶどう園における仕事を与えました。しかし、農夫たちは主人の信頼を裏切ったのです。農夫たちは分を忘れて、あたかもぶどう園の所有者であるかのように振る舞っています。それがこのたとえ話です。イエス様は、これと同じことがイスラエルにおいても起こってきたし、今も起こっていることではないか、と言っておられるのです。

 祭司長やファリサイ派の人々は、民の上に立っている人々です。そのように彼らが指導的な立場にいるのは、神が彼らを信頼して指導者としての務めを与えたからです。しかし、彼らは神の信頼を裏切り、あたかも自分たちがイスラエルの所有者であるかのように振る舞いました。イエス様が鋭く見抜いていた彼らの問題は、要するに、《農夫が農夫であることを弁えていない》ということです。

 さて、そのような話を、今ここにいる私たちが読んでいるのは、これが他ならぬ私たちの問題でもあるからです。イスラエルの姿は、この世界の縮図です。この指導者たちの姿はしばしば私たちの姿でもあります。

 この世界の主人は神様です。人間がこの世界を造ったのではありません。神が、「ぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」るようにして、この世界をお造りになりました。そして、その世界の中に人間を置いて、人間を信頼して管理を託されたのです。「神を信じる」とか「神を信じない」とか言いますけれど、それ以前に、神が私たちを信じてくださったのです。しかし、私たちが今目にしていますように、人間はこの世界の所有者であるかのように振る舞っています。この世界を自分たちが造ったかのように振る舞っているのです。人類は環境問題を始めとして、実に多くの問題を抱えているように見えます。しかし、実は根源的な問題はただ一つなのです。《農夫が農夫であることを弁えていない》ということです。分を弁えず、まことの主人である神を退けているということなのです。

 それは個人の人生においても言うことができます。私たちは、自分が人生の所有者であり、主人であるような顔をして生きているものです。将来を考えるにしても、「《わたしの人生》をわたしはどうしたら充実した意味あるものにできるか」ということしか考えません。しかし、私たちの能力にせよ、私たちの富にせよ、私たちはその管理を託されているのです。個々に託されているものは異なります。しかし、いずれにせよ、神の信頼に応え、神の栄光のために用いる。それが本来の人生なです。しかし、私たちは往々にして農夫であることを忘れています。それは実に不幸なことです。私たちは人生に多くの問題を抱えているように見えます。しかし、実は根源的な問題はただ一つなのです。《農夫が農夫であることを弁えていない》ということです。

呼びかけ続ける主人

 そこでたとえ話は次のように続きます。「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された」(2‐5節)。

 主人は農夫であることを弁えない農夫たちに「僕」を遣わします。イスラエルについて言えば、送られた僕たちとは「預言者」と呼ばれる人々のことです。これを聞いている祭司長たちにとっては、洗礼者ヨハネがそれに当たります。預言者というのは、単に未来を予告する人ではありません。日本語では「言葉を預かる者」と書くように、彼らは神の言葉を託されて伝える人たちです。預言者とは、いわば神の呼びかけなのです。神はイスラエルに預言者を遣わし、立ち帰るようにと、繰り返し呼びかけられたのです。ぶどう園の所有者のようにではなく、農夫として生きるようにと呼びかけられたのです。そのように本来の関係に立ち帰るように呼びかけられたのです。

 しかし、それにしましても、このたとえ話には全く驚くべきことが語られています。農夫たちが僕を侮辱したり殺したりしたことではありません。この主人が《繰り返し》僕を送ったということです。主人は農夫たちを直ちに全滅させることができる力を持っています(9節)。それがこのたとえ話の前提です。そのことを考えますとき、主人が繰り返し僕たちを遣わしたということは、まことに驚くべきことだと言わざるを得ません。農夫たちは遣わされた僕たちを袋だたきにし、殺してしまうのです。そのようなことが起こったのです。にもかかわらず、主人はなおも「多くの僕を送った」のです。主人は、ただちに滅ぼすことのできる力をもって、事柄を解決しようとはしなかった。あくまでも忍耐強い呼びかけによって、解決しようとしたのです。

 いや、それだけではありません。このたとえ話はさらに驚くべき展開を見せることになります。このように書かれています。「まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」(6節)。この主人の行動は常軌を逸して愚かであると言わざるを得ないでしょう。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」――今まで僕たちを侮辱したり殺したりした農夫たちが、息子だからと言って敬うはずはないではありませんか。これはあまりにも愚かな判断です。

 しかし、この主人の愚かとしか言いようがない行動こそ、このたとえの中心なのです。イエス様はこのようなたとえによって、神様について語っておられるのです。わたしの父なる神は、このような御方だ、と。「『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」――イエス様は、この最後に送られた「息子」として語っておられるのです。その「息子」として、わたしの父である神は、これほどまでに愚かな神なのだ、と言っておられるのです。

 もしかしたら、「愚かな神」という言葉に抵抗を覚える人がいるかもしれません。しかし、愛するということは、時として、徹底的に愚かになることではないでしょうか。裏切られてもなお信じて、侮辱されてもなお忍耐して、受け入れ難きをなお受け入れて愛そうとするならば――愚かにならなくてはならない。そういうものではありませんか。少なくとも、神が自ら示された愛とは、そのような愛だったのです。

 もしこれが反対に、人が通常思い描くような、いわゆる《賢い神》ならば、どうなっているでしょうか。恐るべき神の裁きがとうの昔に降っているはずなのです。彼らの上に、そして私たちの上にも。しかし、神はそうされなかった。愚かにも、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って、最後に息子を送られたのです。そのように、イエス・キリストを世に遣わされたのです。そのことは神の意志の究極的な表明となりました。神は力をふるって滅ぼすことを望んではおられないこと、私たちが立ち返ることを望んでおられることを、イエス様は、最後に送られた息子として、身をもって示しておられたのです。

捨てられた石は隅の親石に

 そのように、イエス様は自ら、神の愚かさによって遣わされた息子として、このたとえを語っておられました。そして、神の愚かさによって遣わされたゆえに、自分がどうなるかも、分かっていたのです。

 このたとえ話はさらにこのように続きます。「農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった」(7‐8節)。イエス様は分かっておられました。実際この数日後に、イエス・キリストはエルサレムの外にあるゴルゴタの丘で、十字架にかけられて殺されることになるのです。

 最後にイエス様は、祭司長たちに問われます。「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか」と。そして、自らがその問いに答えておられます。「戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(9節)。これが当然予測される結末です。

 しかし、イエス様はこの結末を、あえてたとえ話そのものには含めなかったことに注意してください。物語はあくまでも「息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった」ところまでです。つまり、このたとえ話を聞いている者は、息子が殺された時とまだ起こってはいない主人による裁きの時との間に立たされることになるのです。

 私たちも、その地点に立ってこのたとえを聞き、主の問いかけを聞いているのです。「息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった」。――それはその時のユダヤ人指導者がしたことだと言うこともできます。しかし、それは私たち人間がしたことであるとも言うことができるでしょう。神は独り子なるイエス・キリストをこの世界に送られました。それはこの世界に対する神の究極的な語りかけでした。神はその力をもって滅ぼすことを望んでいないこと、私たちが神と本来の関係に立ち帰ることを望んでおられることを表明されました。にもかかわらず、そのキリストを私たち人間は殺してしまいました。私たちは、キリストを殺害した世界に生きているのです。私たちは、キリストを殺害した人間の一人なのです。そのような私たちは問われているのです。「このぶどう園の主人は、どうするだろうか。あなたはどう思うか」と。

 しかし、そこで主はこう言われるのです。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」と。「家を建てる者の捨てた石」とはイエス・キリストのことです。イエス様は確かに人の手によって捨てられました。十字架にかけられたということは、そういうことです。神の最後の呼びかけも無に帰してしまったかのように見えます。しかし、それで終わりではありませんでした。むしろ、そこから決定的に新しいことが始まったと言うのです。捨てられたはずの石が、新しい家の隅の親石となった、と。

 イエス様の言われるとおりです。捨てられて十字架にかけられたイエス・キリストが、私たちの罪を贖う犠牲となりました。そこから罪の赦しの福音が、新たに宣べ伝えられるようになりました。教会が誕生しました。イエス・キリストは、確かに教会の親石となったのです。神はそのような形において、悔い改めへの呼びかけを継続されたのです。神はキリストを磔にしたこの世界に今もなお呼びかけ、今も恵みの内に招いておられるのです。

 
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