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「盲人バルティマイの癒し」

2006年8月27日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 10章46節~52節

 「一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた」(10:46‐48)。

強い王国を打ち建てるメシア

 「ダビデの子」とは、メシアを意味する称号です。来るべきメシアは、偉大なるダビデの子孫として生まれると信じられていたからです。彼が叫んだのは、ナザレのイエスが通ると耳にしたからです。彼はこのイエスという御方こそメシアであると信じているのです。

 一方、イエス様の一行もまた、このナザレのイエスをメシアと信じている人々です。そう信じるからこそ、大きな期待に胸を膨らませながら、エルサレムまでついて行こうとしているのです。メシアがエルサレムに到着するならば、そこで決定的な救いの出来事が起こると信じているのです。

 ところが、これらの人々は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」という叫びを耳にしたとき、この盲人の物乞いを叱りつけて黙らせようとしたのです。これは何を意味しますか。ダビデの子メシアは、お前みたいな盲人の物乞いを憐れむために来られたのではない、と言っているのと同じでしょう。「この御方は、もっと大きなことのために来られたのだ。この御方は、お前などと関わり合っている暇はないのだ。」そう思っているから、その物乞いを叱りつけたのです。黙らせようとしたのです。

以前にも叱りつけられた人々がいました。イエス様のもとに子供たちを連れてきた人々です(10:13)。その時には叱りつけたのはイエスの弟子たちでした。この御方は、子供などと関わり合っている暇はない。メシアを煩わせるな。そういうつもりだったのでしょう。そのことを考えますと、ここで盲人の物乞いを叱りつけたのも弟子たちであるか、あるいは少なくとも黙らせようとした人々の中心にあの弟子たちの姿があったものと思われます。

 今日は46節からお読みしましたが、その直前の出来事を読みますと、そのような弟子たちの心の内を垣間見ることができます。35節以下にこう書かれています。「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください』」(35‐37節)。

 「栄光をお受けになる」とは、明らかに「王となる」という意味です。ですから、一人を右に、一人を左に、という話が出てくるのです。イエスがエルサレムに向かっているのは、栄光をお受けになる、すなわち王となるためである、とこの二人の弟子たちは信じているのです。だから抜け駆けをしたのです。すると他の十人の弟子たちは二人のことで腹を立て始めました(41節)。要するに、皆同じことを考えていたということです。

 そのようにイエスが王となるということは、何を意味するでしょうか。この時にはローマ帝国がユダヤを支配しているのです。そこに王が現れるということは、要するに政治的な独立を意味します。イスラエルが独立した王国となるということです。しかも、ローマよりも強い王国となるということです。メシアは、かつてのダビデの王国のように、強い王国を打ち建ててくれるのです。ナザレのイエスこそ、このダビデの王座を回復してくれるメシアであると、弟子たちは信じていたのです。なぜそう信じたのでしょうか。イエス様の力を見たからでしょう。この御方が行う奇跡に、計り知れぬ《神の力》の現れを見たのです。

 イエスと共にエルサレムに上ろうとしていた群衆もまた、同じことを考えていたに違いありません。11章8節以下には、いよいよエルサレムに入城しようとしていたイエス様に対する群衆の姿が描かれています。「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ』」(11:8‐10)。「ホサナ」とは、「救ってください!」という叫びです。その救いをどこに求めているのでしょう。「我らの父ダビデの来るべき国」の回復に救いを求めているのです。強い王国の回復です。まさに王の到来を熱狂的に迎える群衆の姿が目に見えるようではありませんか。

 このように、弟子たちも群衆も、強い王、強い王国を求めていたのです。異邦人たちを完全に支配下に置くことができるような、強い神の王国を求めたのです。しかし、そのように人々がひたすら「強さ」を求めるところにおいては、力に救いを求めるところにおいては――残念ながら盲人の物乞いの場所などないのです。苦しみの中を生きてきた一個人の苦悩が顧みられる余地などないのです。ですからそのような人が救いを求めて「憐れんでください」と叫びを上げるならば、叱りつけられ、黙らされることになるのです。

神の憐れみを体現するメシア

 しかし、この男は黙りませんでした。人々が黙らせようとすれば、ますます大声を上げて、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたのです。なぜでしょうか。この男は信じていたからです。ナザレのイエスは、この小さな私を、この小さな一人の人間を憐れんでくださるメシアだと信じていたからです。だから諦めなかった。声を上げ続けました。

 では、なぜこの男は、イエスという御方をそのように信じたのでしょうか。そもそも、この男にはイエス様が見えないのです。見えないのに、イエス様のことを知っていたとするならば、それはイエス様のことを耳にしていたということでしょう。イエス様の語られたこと、イエス様のなさったことを聞いて知っていたのでしょう。彼は、イエス様のなさった奇跡の数々をも耳にしていたに違いありません。しかし、重要なのは、そこで彼は何を聞き取ったのか、ということなのです。

 先ほども申しましたように、人々はそこに《力》を見たのです。だから力ある王としてのイエスに期待をかけたのです。しかし、往々にして目で見ることは、必ずしも事の本質が見えることにならないものです。むしろ、聞くだけだったこの男には分かったのです。見えたのです。何が見えたのでしょう。神の力ではなく、神の憐れみです。一人の小さな者も見過ごされない神の憐れみです。神の力の王国ではなくて、神の憐れみの王国が到来したことを、彼は見えないその目で確かに見ていたのです。苦しみのどん底で這いつくばっている一人の人間に目を留めて憐れんでくださる神の憐れみが到来した!神の憐れみを体現してくださるメシアがついに到来した!彼はそのことを心の内に既に見ていたのです。だから、声の限りに叫んだのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と。――そして、この人は間違っていませんでした。イエス様は立ち止まって言われました。「あの男を呼んできなさい」と。

 そして、主はその人に言われました。「何をしてほしいのか」。この男はすぐさま答えました。「先生、目が見えるようになりたいのです」。この人は目が見えないゆえに苦しんできました。物乞いをしなくては生きていけなかったのも、その目が見えなかったからでしょう。さらには、目が見えなければ、それは本人の罪のゆえか、それとも両親の罪のゆえか、などと心ない言葉を投げかける人もいるものです。ですから、目が見えるようになりたかった。確かにそうでしょう。

 しかし、目が見えるようになることで、彼が本当に見たかったのは何なのでしょうか。それは神の憐れみそのものではなかったかと思うのです。神の憐れみの見える姿であるイエス御自身を見たかったに違いない。今まで耳にしてきた御方を憐れみの到来を、その目で見たかったのだと思うのです。

 ですから、目が開かれたとき、彼の目はひたすらイエス様を追ったのです。こう書かれています。「そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」(52節)。進み行くイエス様を彼の目は追い続けます。どこまでも、どこまでも。彼はそのようにして、エルサレムに向かっていくイエス様についていったのです。しかし、そのような彼が目にすることになるのは、イエス様の受難に他ならないことを私たちは知っています。イエス様に従った彼は、その目で十字架にかけられたイエス様を見なくてはならなかったのです。

 「見えるようになんて、ならなければよかった!わたしは見たくなかった!」イエス様が捕らえられ、処刑される場面を目にしたとき、彼は心底そう思ったに違いありません。しかし、もしそれで終わりなら、彼が経験したことは神の憐れみなどではあり得ないし、彼の目が開かれたというこの物語も語り伝えられることはなかったでしょう。

 なぜこの物語が伝えられたのか。そのことを考えて改めて読みますときに、この盲人の物乞いの名前があえて書き記されている事に気づかされます。それは、この福音書が書かれた頃、その名前が教会において良く知られていたということを意味します。他に名前が記されている、あの十二人のようにです。彼はイエスに従った。そして、ティマイの子、バルティマイの名は、教会の歴史の中に書き残されることとなりました。

 そうです。十字架につけられたイエス様を目にした悲しみは、それで終わらなかったのです。やがて彼は知ることになったのです。私の目が開かれたのは、まさに十字架につけられたメシア=キリストを、この目でしっかりと見るためであった、と。彼は開かれた目をもって、確かに神の憐れみを見たのです。十字架につけられたキリストにおいて完全に現わされた神の憐れみを見たのです。私たちの罪を赦すため、罪のあがないの犠牲として御子をさえ死に引き渡される、神の計り知れない憐れみを見たのです。彼はその開かれた目をもって、神の憐れみの王国が確かにイエス・キリストにおいて到来したことを見たのです。

 それゆえに、この男の物語は、「憐れんでください」という祈りと共に伝えられることとなりました。そして代々の人々もまた、この人と同じように主を信じて、いかなる時にも信頼して、憐れみを祈り求めてきたのです。主よ、憐れんでください、と。繰り返し、繰り返し、この言葉を口にしてきたのです。主よ、憐れんでください――キリエ・エレイソン。私たちもまた、そのように祈って良いのです。罪のあがないは成し遂げられました。到来した神の憐れみと私たちをへだてるものは、もはや何もないのですから。

 
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