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「味のある人」

2006年8月13日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 東京神学大学生 石井和典
聖書 マルコによる福音書 9:42~50

 イエス様は弟子達に様々な教えを説いておられる時に、不意に幼い子供を抱き上げて、言われました。「私の名のためにこのような子供の一人を受け入れるものは、私を受け入れたのである。」どれほど大きな愛を持って、この子供を見つめ、そして言葉を発せられたのか。想像するだけで思わずほおがほころんできてしまう。そんな光景です。イエス様の愛情が前面に出てきています。そして、今度は急に表情が険しくなり、強い口調でこのように言われました。「私を信じるこれらの小さなものの一人をつまずかせるものは、大きな石臼を首に掛けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかに良い。」本日の福音書朗読で読み上げられたところです。子供を愛するがゆえに発せられた、一見厳しい言葉。「この子に悪さをするものは死んだ方がましだ。私が許してはおかない。」子供を愛する親の気持ちというのは古今東西、いつも変わらずこういったものだと思います。子供に悪さをしようとたくらむやからには命を張って戦いを挑んでやる、それが子供を愛する親の気持ちであるだろうと思います。

 「大きな石臼を首に掛けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかに良い」これは、簡単にいってしまえば、「人をつまずかせる者は処刑されてしまった方がいい」ということです。激しい言葉です。イエス様の言葉としては珍しい部類に入る言葉でしょう。イエス様が「誰かが死んでしまった方が良い」なんていう発言をしているイメージを思い浮かべることができる方は少ないと思います。では、処刑されてしまえ!といわれているところの「つまずかせる者」とは誰なのでしょうか。どんな人でしょうか。「つまずき」という言葉は聖書に何度も登場してきます。言葉の通り、私達が歩いていて道端にある突起物に引っかかってつまづく、そのひっかかりとなっているもののことを指しています。英語の聖書だと、「つまずき」という部分は「罪を犯させること」というふうに書かれています。こちらの方が分かりやすいです。「人に罪を犯させること」これが「つまずき」の意味するところです。つまりイエス様が何を言いたかったのかというと、「このような子供にあえて罪を犯させるような極悪非道なやからは、死んだほうがましだ。」ということです。かわいい子供を抱き上げて言われました。弟子達は「うんうん、そうだそうだ」と心の中で思いながらイエス様の意見に同調していたに違いありません。

 すると突然、今度は弟子達一人一人の方に視線を向け、「もし片方の手が、あなたに罪を犯させるのなら、切り捨ててしまいなさい…」鋭い口調で、弟子達を見回しながらおっしゃられました。弟子達はそのイエス様の言葉と態度に驚きました。「イエス様は突然なんてことをおっしゃるのだろうか、子供の話をしていると思ったら急に私達の方に目をむけ、しかも命を得たいなら、罪を犯している体の一部を切り捨てろっ。急になんてことを言い出すのだろう。」  

 この聖書箇所を読んで大方の良識的な方々は、イエス様はなんとまぁ極端なことを言うんだと思われるかもしれません。弟子達にとってもきっとそうだったんだろうと思います。しかし、時間がたつにつれ、その言葉は弟子達に重くのしかかってきたに違いありません。イエス様は弟子達の前で様々な奇跡、また癒しの業をいままでたくさん行ってきました。何度もそういったものを目撃する機会のあった弟子達ですから、どう考えてもイエス様が特別な存在であって、神様から遣わされた方であるということは明らかなわけです。だから、イエス様がわけの分からない、全然根拠の無い、現実味の無い話をされるなんてことを考えられなかったわけです。なんて常識はずれなことを言うんだと笑って済ますわけには行きませんでした。イエス様の発する言葉に大きな信頼と期待をおいておりました。それが、急にこのような発言をするわけですから、あるものはガッカリし、また、あるものは恐れ、あるものは本当に体の一部を切除しなければいけないかと言って悩みました。そして各人が最終的には真実な言葉として受け入れるしかなかった。そうすると自ずと見えてくることがあります。それは、「罪の恐ろしさ」です。体の一部を失うことは誰にとっても怖いことです。どうしても、なんとしても、避けて通りたいことです。しかし、罪を犯すことはそれよりも避けて通らなければならないことなんだとイエス様はおっしゃっています。なぜなら、罪を犯すということは、命を失うということと密接に関係しているからです。命を失ってしまっては、手があったところで、足があったところで、目があったところで、それがどんな意味を成すのでしょうか。命との比較においてはだれだって、身体の一部分よりも、命のほうが大切だと思うことは当たり前のことです。

 私の母は、今、病院に入院しております。子宮の一部に大きな腫瘍ができて、それを切除するために入院しました。もう、既に手術は終わりまして、一応全て成功しました。母は病院に行ってお腹の中をレントゲン検査したときにですね、大きな腫瘍があることをお医者さんに知られました。そのときは、もう人生が終わったかのような顔をしていました。お腹の中に、なんと8kgもの腫瘍があったので、そう思うのも当然だろうと思います。それまではお腹が大きいのはただ単に太っているからかなと周りも本人も思っていたわけですから、突然お腹の中に腫瘍がありますよといわれて、もうどうしていいか分からないわけです。レントゲンを実際に見てみるとお腹全体を白い影が覆っていて、どう見ても尋常な状況ではないんです。母はそのとき目の前が真っ暗になったと言っていました。まさか、8kgもの腫瘍を目の前にして、素人目には助かるだろうとの希望は持てなかったのだと思います。あの時の母のうつろな、生気を失った顔は、もう私の脳裏に焼きついて忘れられません。それから数日して母の腫瘍は手術によって摘出すればほぼ問題の無いものであると言うことが分かりました。命は助かるのだと分かったときから母の顔色は大きく変化し「手術を受けて家に帰るのだ」という強い意志が見える言葉と態度に変わっていきました。母は何の迷いも無しに悪い部分全てを摘出することを選びました。母は決意がついたのかさっぱりとした顔つきになって手術を受けることを切望していました。「死ぬぐらいだったら、身体の一部が切除されてもかまわない」本当に死を目の前にした人はきっとそう思うのだろうと思います。

 さて、聖書に戻りまして。イエス様は人を死に至らしめるのは「つまづき」であるとはっきりといっています。つまり、罪を犯すこと、また罪を犯させることです。罪とは何でしょう。罪とは命と対極にあるものです。人を死に至らしめるものです。聖書が明らかにしている死とは、神と人との関係が破壊された状態のことを示しています。神とのつながりが絶たれている状態のことです。肉体における死のみを指して死といっているのではありません。キリスト者にとっては肉体における死がすなわち終わりを意味しません。なぜなら、キリスト者の命は神との結びつきの内にあるものだからです。神と共に生きることが命を得るということなのです。そして、神と人とが共に生きることを神の側が保障し、神の側が約束してくださっているということが私達にとっては救いであり福音であるわけです。

 「片手になっても、命に与るほうが良い。片足になっても命に与るほうが良い。一つの目になっても神の国に入るほうが良い。」

 イエス様は何が何でも、何を犠牲にしてでも、人が神と共にあることを願っておられるのです。人間が一緒にいることを切望していらっしゃったのです。その証拠に、このことを話終えてしばらくして、自らの命を差し出して、その犠牲となられたのです。

 本来ならば、罪を犯し続ける私達は、実際に、自分の汚れたところ、神に背いている所(これは身体のみではなく、)そういった部分を全て切り捨てて、消し去ってから神のもとに行かなければならないのかもしれません。

「罪を犯したり、人を罪に誘うものは、処刑されてしまったほうがましだ。」

造られたものなのに、造り主を覚えずに歩んでいるのですから。神様の正しさからするならば、真に私達は処刑されるしかない存在なのかもしれません。しかし、私達が目を留めなければいけないことはそのことばかりではありません。この言葉を誰が発したのかと言うことが決定的に重要であります。自ら私達の身代わりとなって、その罰を身に受けた方、その方がこのような厳しい言葉を発しているのだと言うことを忘れてはいけません。

 人間が罪に定められ、処罰され、滅んでいく道をふさぐためにやってこられた方の発言。全ての刑罰を自分自身が負って、私達を無罪にして解放しようとされおられる方。人間が命を受けることしか、それしか、その道しか望んでおられないお方の言葉なのです。私達は、隣人をつまづかせ、罪の道に誘ったり、自分自身を自分でつまずかせて、神なんて存在しないかのような態度を取って生活している愚かなものです。この不遜な私達が、本来ならば、海に投げ込まれ、しずめられてしかるべきものであったのです。神からいただいた一日一日という大切な命の日々を、創り主を覚えることなしに過ごしてまいりました。もっとも重要な神という存在を、自分の人生の片隅に追いやって、生きてきたのです。その深い罪の身代わりとなって、本来受けるべき私達への処罰を全てその身に負われた方が、このような厳しい言葉を発せられたのです。

 ですから、私達はマルコ福音書のこの箇所を読むときに、「あなた方は罪深いから、その罪を自分で処罰しなさい」というような、「勧め」として読んではならないのです。そうではなくて、私達の身代わりに、このような処罰の全てをお受けになった、十字架のイエス様の姿を思い描くべきなのです。「あなた方は命にあづかる方が良いのだ、私がその代わりに刑罰を受ける」という思いをもって、死ぬ覚悟でゴルゴダへの道を歩まれたその一歩一歩を覚えなければならないのです。イエス様が受けられた一つ一つの痛みは、私達が命を受けるためのものです。私達が受けなければならなかった痛みをイエス様が負われました。

 今日、読み上げられました聖書の言葉は、私達のこの身においては、もうまるで絵空事であるかのようになっています。キリスト教会が、清めのために身体の一部を切除するなんてことは未来永劫ありえません。しかし、なぜ、この話が絵空事になったのかということは覚えておくことは必要です。「代わりに既に処罰されている方がいらっしゃる。」このことを私達は絶対に忘れてはなりません。自分に課せられた刑罰はその方のおかげで一切受ける必要は無いのだということを忘れてはなりません。

「自分自身の内に塩を持ちなさい。」塩は食べ物を腐敗から守り、味をつけます。人間にとっては絶対に無くてはならないものです。この9章50節の言葉は、絶対に無くてはならないものを当たり前のように持ちなさい。という、当たり前な神様からの語りかけです。人間にとって本当に無くてはならないものとは何ですか。それは命です。命とは何ですか。神様と共に生きることです。アーメン。

祈り

 父なる神よ。救い主なるイエスよ。私達を救うこと、自らそのための犠牲になることを選ばれた神よ。私達をあなたのおそばにおいてください。あなたと共にあることが私達にとって生きるということです。主よどうか命を与え続けてください。 主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン。

 
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