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「だれがいちばん偉いのか」

2006年8月6日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 9章33節~41節

だれがいちばん偉いのか

 「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである」(33‐34節)。

 皆さんは「だれがいちばん偉いか」などという議論をしたことありますか。仲間内でそんなことが問題になったことがありますか。私的な人間関係においては、通常「オレとオマエとどちらが偉いか」などという議論は起こらないものです。友達同士で常にそのようなことが話題になっているとするならば、それは極めて幼稚な関係であると言わざるを得ないでしょう。

 しかし、もう一方において、「だれがいちばん偉いか」という議論が現実的に重要になってくる場面は確かにあります。それは上下関係がはっきりしている組織においてです。ピラミッド型の組織です。特にそのような組織の形成期においてです。そのときには、上になるか下になるかは極めて大きな関心事となります。ここで弟子たちは明らかに、そのような場面に身を置いているのです。つまり彼らは、イエス・キリストを頂点とするピラミッド型の組織を念頭に置いて議論しているのです。

 そのことは、弟子たちが置かれている状況を考えてみれば、なるほど頷けます。これまでこの福音書において見てきましたように、ガリラヤにおけるイエス様の宣教活動は瞬く間に人々の知れるところとなりました。常に大勢の群集が彼らの後を追っていました。あるときには男だけを数えても五千人もの人々が集まってきました。そのように、イエスの周りに集まる人の群れは一気に巨大化して行ったのです。いや、一般的な群集とは一線を画した、弟子を自認する人々も増えていきました。ここに出てくるのは「十二人」ですが、イエスの弟子たちは十二人だけではありません。ルカによる福音書には、七十二人が宣教に遣わされたという話が出てきます(ルカ10:1)。恐らくその他にも、弟子を自認する人々は数多くいたであろうと思われます。

 そのような中に、この十二人はいたのです。先に招かれ常にイエスの身近にいた十二人です。この十二人が自分たちを上層部の人間と見なし始めたとしても不思議ではないでしょう。それは増加しつつある弟子の群れの秩序を保つ上でも重要であると考えたに違いありません。38節以下のエピソードにはそのような彼らの意識がよく現われております。

 ヨハネはイエス様に次のような報告をしました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」(38節)。彼らはイエスの御名を濫用から守ろうとしたわけです。しかし、ここでヨハネは「あなたに従わないので、やめさせようとしました」とは言っていません。「わたしたちに従わないので」と言っているのです。「わたしたち」とは十二人のことでしょう。あるいはイエス様を含めて十三人。イエスの名を使うならば、正規に公認された弟子として、わたしたちに従うべきであると要求したのです。

 そのような十二人であるならば、そのお互いの間において上下関係を問題にし始めたのは、至極自然な成り行きでありました。他の人よりも上に位置すると考える人々は、必ず今度はお互いの上下関係を問題にするようになるのです。彼らは考えました。ピラミッドの上層部にいる自分たちの、誰が一番頂点に近いのか、と。そう言えば9章のはじめには、イエス様が十二人の内、ペトロとヨハネとヤコブの三人だけを山に連れて行ったという話しが出ていました。当然この三人は「自分たちは特別だ」という意識を持っていたことでしょう。十二人の中でも特に頂点に近い三人だ、と。この三人の中で、ヤコブとヨハネは兄弟です。すると、ヤコブ&ヨハネか、それともペトロか、という話題にもなるでしょう。 このように、「だれがいちばん偉いのか」という議論が起こった背景には、巨大化する群集、増大しつつある弟子の数という事情があったものと思われます。

 しかし、実は彼らがピラミッド構造を意識せざるを得なかった理由は、それだけではありません。実はより本質的な理由があったのです。それは、イエスをメシアと信じる信仰です。

 8章には次のような出来事が記されています。「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、『人々は、わたしのことを何者だと言っているか』と言われた。弟子たちは言った。『「洗礼者ヨハネだ」と言っています。ほかに、「エリヤだ」と言う人も、「預言者の一人だ」と言う人もいます。』そこでイエスがお尋ねになった。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『あなたは、メシアです』」(8:27‐29)。

 メシアとはもともと「油注がれた者」という意味です。そして、「油注がれた者」と言えば、第一には王を意味します。ペトロや他の弟子たちが期待していたのは、救いを実現してくれる力ある王なのです。具体的には、ローマ人の支配からイスラエルを解放し、神の国を建国してくれる王です。そして、イエスこそまさにそのような力ある王であると信じたのです。それゆえにペトロは言ったのです、「あなたは、メシアです」と。

 そのように、イエス様を力ある王と見なし、神の王国を実現する御方と見るならば、当然そこに王が支配する王国の構造をも思い描くことでしょう。そこで、この世の王国の姿から連想するならば、どうしてもそれは王なるイエスを頂点とする支配構造を思い描くことになります。上の者が下の者を支配し、下の者が上の者に仕えるという構造です。下の者は上の者に仕えることによって、頂点に位置する王なるキリストに仕える。上の者は下の者を支配することによって、王なるキリストの支配を実現する。そのような構造です。そして、そのような形で王なるキリストに仕えることは神に仕えることであり、王なるキリストの支配を実現することは、神の支配を実現することであると考えられるのです。

 そのように、神の国を王なるキリストを頂点とした支配構造を持つ王国として思い描くならば、当然、弟子たちの間にも上下関係を持つ構造を思い描くことになります。そのようなことが既にあの十二人の中に起こっていたのです。ですから彼らは論じ合ったのです。「だれがいちばん偉いのか」と。

 さて、実はこれは私たちの教会生活、信仰生活にとりまして、極めて身近な話題なのです。最近、また一つのカルト宗教が世間を騒がせているのはご存知のとおりです。私たちは思います。どうしてあのようなおぞましいことが起こり得るのかと。しかし、だいたいカルト宗教というものは、この弟子たちが思い描いていたような構造を持っているのです。下が上に仕えることは、すなわち神に仕えることだという構造です。そのように「弟子たち」が考えていたということは、すなわちそのようなことが私たちにも起こりえるということです。信仰の世界は常にカルト化の危険と背中合わせにあるのです。それゆえに、私たちはここで語られているイエス様の言葉にしっかりと耳を傾けなくてはならないのです。

弱さに仕える人に

 イエス様はそのような十二人を呼び寄せて次のように言われました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(35節)。「仕える者になりなさい」ということ自体は、弟子たちは全く考えていなかったわけではありません。既に述べましたように、彼らが王なるキリストの王国を考えるとき、そこでは下の者が上の者に「仕える者となる」こと、そのことを通して王なるキリストに「仕える者となる」ことは想定していたはずです。しかし、イエス様が言っておられるのは、そのようなことではないのです。主は「すべての人に仕える者(すべての人の僕)になりなさい」と言われたのです。

 それがいったい何を意味するのかを、イエス様はさらに一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて、次のように語られました。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(37節)。

 「受け入れる」という言葉になっていますが、話の流れからして内容的には「仕える」ということです。しかし、上の者に仕えるのではないのです。主の御腕によって抱き上げられた、そのような「子供の一人」に仕えるのです。子供とはどのような存在でしょう。子供は弱い。子供は手がかかります。子供は善意に報いることができません。そのような子供という存在を受け入れ、そのような子供に仕えるということは、すなわち弱さを受け入れ、弱さに仕えるということに他なりません。

 先にも申しましたように、ピラミッド型の支配構造を考えるならば、上の者に仕えることがキリストに仕えることであり、神に仕えることだ、ということになるのです。しかし、イエス様はそう言われなかった。「子供の一人を受け入れる」という言葉が示しているように、弱い者の弱さを受け入れ、弱さに仕え、報い無きところに仕えるということが、すなわちキリストを受け入れ、キリストに仕えることなのです。

 さらに言うならば、これは弱い誰かを受け入れるということに留まりません。私たちは皆、それぞれ弱い部分、手がかかる部分を持っているのです。それを互いに受け入れ、互いに弱きところに仕えることが求められているのです。それがキリストに仕えることなのです。そして、それがキリストを遣わされた神を受け入れ、神に仕えることなのです。それが神の国の構造なのです。それが弟子の群れ、教会が持つべき構造でもあるのです。そこにはもはや「だれがいちばん偉いのか」という問いは存在しないはずなのです。

僕となられた王

 今日は33節からお読みしました。その直前には、イエス様の受難予告が記されております。主は言われました、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」(31節)と。主はエルサレムに向かっておられました。主は十字架へと向かっておられました。今日のお読みした言葉は、十字架へと向かっておられたイエス様の言葉として読まれなくてはなりません。

 「すべての人に仕える者になりなさい」とイエス様は言われましたが、実は同じことを主は後にもう一度弟子たちに語られます。「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(10:44)。そして、さらに主は言われるのです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(同45節)。

 ペトロはイエス様に対して「あなたは、メシアです」と言いました。そうです。イエス様は確かにメシア、すなわちキリストです。油注がれた方、まことの王です。そのことを私たちも信じています。しかし、そのまことの王である方は、仕えるために来てくださったというのです。命を献げて仕えるために来てくださったというのです。私たちのためにです。弱く貧しく自らの罪のゆえに滅びるばかりの私たちのために、命を献げて仕えてくださったのです。そのことに対して、何もお報いすることのできない私たちのために、まことの王は仕えてくださったのです。

 王自らが、すべての人に仕える僕となられた――これがイエス・キリストが示してくださった、神の国の構造です。そのような神の国に生きるように招かれていることを、あの弟子たちは知らなくてはならなかったのです。そして、そのような神の国へと私たちも招かれていることを、ここにいる私たちもまた知らなくてはならないのです。

 
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