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「信仰のないわたしを助けてください」

2006年7月30日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 9章14節~29節

 ある父親が病気の子供をイエスの弟子たちのもとに連れて来ました。父親の言葉によりますと、その子は霊に取り付かれていて、所かまわず地面に引き倒され、口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまうと言います。「てんかん」の症状です。そうなったのはその子が幼い時からだと語られています。長い間その子供は苦しんできたのでしょう。もちろん父親も共に苦しんできたに違いありません。なんとか子供を助けたい。そう思ってあらゆる手立てを尽くしてきたのだと思います。しかし、どうすることもできませんでした。そこでこの人はイエスの弟子たちのところに子供を連れてきたのです。イエスと弟子たちの噂を耳にしたのでしょう。彼らは、病人を癒し、悪霊を追い出すことができる、と。しかし、弟子たちに助けを求めたのだけれど、弟子たちはその子を悪い霊から解放することはできませんでした。するとちょうどそこに、イエス様がペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて山から帰って来られました。

なんと信仰のない時代なのか

 「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」と父親は言いました。するとイエス様はこう答えられます。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れてきなさい」(19節)。なぜその子は悪い力から解放されなかったのか。それは信仰の問題だとイエス様は言われるのです。信仰がないからだ、と。

 しかし、このような言葉だけを単純に取り上げますと、長い間苦しんでいる人に向かって、「あなたの問題がなかなか解決しないのは、あなたの信仰が足りないからだ」と言い出す人が出てくるかもしれません。あるいは他の人に対してでなく、そう言って自分を責める人もいるでしょう。「わたしの信仰がしっかりしていないから問題なのだ」と。そして、揺るぎない信仰を持っている人、自信をもって「わたしは信じています」と言える人を羨ましく思うかもしれません。しかし、イエス様が問題にしているのは、そのようなことなのでしょうか。「なんと信仰のない時代なのか」とイエス様が言われたとき、主は何を嘆いておられたのか。私たちはそのことを丁寧に良く考えてみる必要があるように思うのです。

 そこでまずイエス様が弟子たちに語っている言葉に耳を傾けましょう。弟子たちはイエス様に尋ねました。「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」。するとイエス様はこう答えられました。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」(29節)。この言葉は、裏を返せば弟子たちは祈りによらずに追い出そうとしたことを意味します。苦しんでいる子供が連れてこられたとき、「助けて欲しい」と父親が頼んできたとき、弟子たちは神に祈らなかったのでしょうか。自分の力でその子を助けようとしたのでしょうか。イエスの弟子なのに、そんなことがあり得るのでしょうか。しかし、この福音書を遡って読み返してみると、そうなった事情がよく見えてまいります。

 かつて弟子たちは、彼らだけで宣教に遣わされたことがありました。二人ずつ組になって村々を巡ったのです。その時のことが、このように書かれています。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(6:12‐13)。そうなのです。彼らには、人々を助けてきた実績があるのです。30節にはこう書かれています。「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」。彼らが意気揚々と帰ってきて、自分たちの成果を得意満面に報告している姿が眼に浮かぶようではありませんか。

 もちろん、その働きはすべてイエス様が彼らに与えた権威によるのです。そこで悪霊を追い出し、病をいやしたのは、すべて神の力によるのです。神様が彼らを通して働かれたのです。それは弟子たちも頭では分かっていたはずです。しかし、彼らの心が変化していったであろうことは容易に理解できます。実際、皆さんだったらどうでしょう。もし私たちが誰かを助けることができ、誰かから感謝されたらどうですか。しかも、そのようなことが繰り返されたらどうですか。どうしたって「わたしが助けてあげた」という思いになるではありませんか。あたかも私の功績であるかのように。

 そして、もう一つ明らかなことは、「わたしが助けてあげた」と思っていると、次第に関心は自分に移ってくるということです。助けを必要としている相手ではなくて、助けている自分に意識が向けられるようになるのです。そのようなことが、実際あの弟子たちに起こりました。今日の聖書箇所を読めば分かります。イエス様が帰って来たとき、あの弟子たちは何をしていたと書かれていますか。律法学者たちと議論していたと書かれているのです。苦しんでいる親子をそっちのけで、議論していたのです。恐らく、子供を解放できなかったことで、律法学者たちから何かを言われたのでしょう。そして、一生懸命に自己弁護をしていたのでしょう。この子供ではなく自分にしか関心がないから、律法学者たちとの議論が優先となるのです。

 もしこの弟子たちの関心が、この親子の現実の苦しみに向けられていたならば、こうはならなかったはずでしょう。子供が悪霊から解放されなければ、「神様、なんとかしてください」と祈ったに違いありません。弟子たちみんなで、その親子のために、神の憐れみを求めて祈り続けたに違いありません。助けられない自分の無力さを嘆きながら、ただ神の力が働いてくださることを必死で求めて祈り続けたに違いありません。しかし、弟子たちは祈りませんでした。

 いや、弟子たちだけではありません。そこには、この親子の苦しみに目を留めて、彼らのために神の憐れみを切実に祈り求める人は、一人もいませんでした。自分たちの立場を守るために議論している弟子たちだけではありません。子供が癒されなかったことを攻撃材料にして議論を吹っかける律法学者たちも同じです。弟子たちと律法学者たちの議論を、外から取り囲んで眺めている群集も同じです。誰もこの親子の苦しみには関心がないのです。そこには、この親子のために、神の憐れみを求めて、神が憐れんでくださることを信じて、祈り求める人は一人もいませんでした。

 これがイエス様の見ていた人々の姿です。それゆえに主はこう言って嘆かれたのです。「なんと信仰のない時代なのか」と。「信仰」が揺るぎない確信や自信のことであるならば、弟子たちにはもともとそれがなかったわけではありません。自分たちはその子を解放することができると思っていたのです。疑いなどなかったのです。あるいは「信仰」が敬虔さと同義ならば、あの律法学者たちは実に神を畏れる敬虔な人々だったのですから、信仰の深い人々と言うこともできるでしょう。しかし、イエス様は彼らの有様を見て嘆かれたのです。イエス様が求めている「信仰」とはそのようなものではなかったのです。

信仰のないわたしを助けてください

 そのことは、この後に描かれている父親とのやりとりを読みますと、さらに明らかになってまいります。人々が息子をイエス様のもとに連れてきました。するとその子は引きつけを起こし、地面に倒れ、転び回って泡を吹きました。主はその子について尋ねます。「このようになったのは、いつごろからか」と。その後のやり取りは次のように書かれています。「父親は言った。『幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。』イエスは言われた。『「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる。』その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください』」(23節)。

 この父親は「息子を憐れんでください」とは言いませんでした。憐れまれなくてはならないのは、自分でもあることが、よく分かっていたのです。自分もまた救われなくてはならない。ですから、「わたしどもを憐れんでお助けください」と願ったのです。

 イエス様はそんな父親に言われました。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」。イエス様はこの人が完全に信じきっていないことを《責めている》のではありません。イエス様は、この人が本当は「おできになるなら」などと悠長なことを言っていられないことを良くご存知なのです。無力なのですから。もうボロボロなのですから。ただ神様を信じて憐れみを乞い願ってすがりつくしかないのです。いや、その「信じること」すらできないのです。そのような父親が、ひたすら神の憐れみを信じて求めることができるように、イエス様は励ましてくださっているのです。「信じる者のは何でもできる」と。そのようにして、この父親が本当に口にしなくてはならない言葉を引き出されたのです。無力さに打ちひしがれたこの父親の口から、その内にある魂の叫びを引き出されたのです。

 その父親が口にしたのは、「信じます。信仰のないわたしを助けてください」という支離滅裂な叫びでした。この父親はそう言って叫び求めるしかなかったのです。すがりつくしかなかったのです。自分ではどうにもならないのですから。自分の息子が苦しんでいるのに、どうすることもできないのですから。「信じます。信仰のないわたしを助けてください」。そう言って、彼は自分自身をキリストの御前に投げ出しました。無力な自分自身、信じることすらできない自分自身を、主の御前に投げ出したのです。イエスの弟子たちや律法学者たちとの違いは明らかではありませんか。これを聞いたイエス様は、その子供を悪しき霊から解放されました。あの支離滅裂な叫び、「信仰のないわたしを助けてください」という《信仰》から、イエス様の言われる、「信じる者には何でもできる」という世界が確かに開かれたのです。これがイエス様の求めておられる信仰です。

 いや、この父親だけではありません。イエス様がどのような人に信仰を見出されたか思い起こしてください。主はたびたび「あなたの信仰があなたを救った」と語られました。イエス様はどのような人々にそう言われましたか。例えば、十二年間出血が止まらなかった女の人がいました。群集にまぎれて必死の思いでイエス様に近づいて、後ろからイエス様の服に触れました。主は言われた。「あなたの信仰があなたを救った」。バルティマイという盲人の物乞いがいました。イエス様が通りかかったとき、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び出しました。人々が叱りつけて黙らせようとしたけれど、彼はますます大声で叫んだのです。主は彼に言われました。「あなたの信仰があなたを救った」。

 皆さん、自分の内に信じきれない思いがあっても、そんなことは問題ではありません。信仰者としての自分に自信が持てなくたって、少しも心配いりません。イエス様が望んでおられるのは、私たちが「完全に信じています」と胸を張れるようになることではありません。私たちが自分の無力さを認め、弱さを認め、ボロボロであることを認め、そこからひたすら神を仰ぐ者となることなのです。救っていただかなくてはならないことを認めて、いや、時として、救ってくださる神を信じることさえできない自分であることを正直に認めて、ひたすら主の憐れみを求めてしがみつく者となることなのです。「信じます。信仰のないわたしを助けてください」と叫んだ、あの父親のように。主が信じさせてくださいます。そして、主が御業を現してくださるのです。

 
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