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「大切なのは愛の実践を伴う信仰」

2006年7月16日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 5章2節~11節

割礼を受けていないキリスト者

 今日はガラテヤの教会に宛てて書かれたパウロの手紙をお読みしました。そこには「割礼」という言葉が繰り返し出てきます。割礼というのは、男性生殖器の包皮を切り取る儀式です。ユダヤ人は、生まれて八日目に割礼を受けます。そして13歳になりますと成人(バル・ミツヴァ=律法の子)となり、律法上の戒律を守って生きていくことになります。ユダヤ人にとりまして割礼というのは神との契約のしるしであり、それを受けるということは神の民として神の律法を守って生きていくことを意味するのです。(実際にユダヤ人が皆律法を守っているかどうかは別として、ともかくそういうことになっているのです。)あるいは生まれながらのユダヤ人でない異邦人でありましても、ユダヤ教に帰依する時には割礼を受けます。神との契約のしるしを受け、そこからはユダヤ人として律法を守って生きてゆくのです。

 そのように割礼は受ければそれで終わりというものではなくて、律法遵守と結びついているのです。その割礼をガラテヤの信徒が受けるということ、あるいは受けないということがここで話題になっているのです。そして、そこには当時の教会の直面していたある特別な事情があったのです。

 ご存知のように、イエスの弟子たちは皆ユダヤ人でした。最初のキリスト者は皆、ユダヤ人でした。教会にはユダヤ人しかいなかったのです。彼らは皆、割礼を受けていた人たちであり、その多くは律法を守ることを大切にしていたのです。しかし、やがて福音がユダヤ人以外にも伝えられていきました。生まれながらのユダヤ人でない人々がイエス・キリストを信じて洗礼を受け、キリスト者になっていきました。

 異邦人への伝道の中心となっていたのはパウロです。パウロの伝道により、ガラテヤにも教会ができました。そこの信徒たちの多くはユダヤ人ではありませんでした。割礼を受けていない異邦人キリスト者です。律法上の戒律にも彼らは全く縁がありませんでした。彼らは、異邦人のまま神の愛を知り、異邦人のままキリストを受け入れ、異邦人のまま罪を赦され、異邦人のままキリスト者として生活していたのです。それでよかったのです。

 しかし、パウロが去った後、そこにユダヤ人の教師たちが入ってきました。そして、彼らは、異邦人キリスト者も、神との契約のしるしである割礼を受け、戒律を守るべきであると主張したのです。そうしなければ救われない、と。この教えは少なからぬ影響を及ぼすことになりました。それは理解できることでしょう。救われるためには戒律を守らなくてはならない。正しい人間にならなくてはならない。そのような教えは分かり易いのです。しかも、先輩であるユダヤ人キリスト者が言うのだから間違いないと思ってしまう。ですから、ユダヤ人キリスト者の主張を受け入れて、救われるために割礼を受ける人々が起こってきました。しかし、パウロはそのような教えに対し、福音の真理をゆがめるものとして真っ向から反対していたのです。

いくら払ったらいいですか?

 さて、ここにいる私たちは恐らく全員ユダヤ人ではありません。異邦人です。異邦人である私たちが割礼を受けて律法を守るべきか否かがこの教会の役員会の議題になったことは、恐らく一度もないと思います。その意味において、ここに書かれていることは、私たちにはほとんど関係ないことのように見えませんか。しかし、実はそうではないのです。ここには私たちがどうしても聞かなくてはならない重大な内容が語られているのです。

 そこでちょっとこんなことを想像してみてください。あなたは愛する誰かにプレゼントをしようと思っています。愛する人へのプレゼントですから、何日も何日もかけて考え抜いて、真心を込めて用意しました。それをついにそれを渡す日がやってきます。あなたは愛を込めてそのプレゼントを渡しました。相手はそれを受け取ります。そして、ひとことこう言いました。「ありがとう。で、いくら払ったらいい?」。

 皆さん、どう思いますか。悲しいでしょう。情けないでしょう。しかし、パウロがここで問題にしているのは、まさにそのようなことなのです。人間は、しばしば神に対してそのような態度を取っているのです。神様が時間をかけてプレゼントを用意しました。それこそ何千年という歳月をかけて、その全き愛によって、神は救いの恵みを人間に手渡すために準備されたのです。しかし、それを人間に手渡そうとすると、人間はたいていこう言うのです。「いくら払ったらいいですか?」と。

 人間はあまりにも取り引きに慣れすぎているのです。ですから、神の救いという愛の賜物でさえ、何かを支払って買い取ろうとするのです。人間の行為と引き替えに救いを得ようとするのです。先にも言いましたように、そのような教えの方が分かり易いのです。ですからパウロはこのように言っているのです。「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです」(2‐3節)。

 「あなたがた」というのは、ガラテヤの異邦人キリスト者です。ただキリストの十字架のゆえに罪を赦された人たちです。それゆえにただ神の恵みによって救われるのだということを知った人たちです。その彼らが「割礼を受けて、律法を守らなければ救われない」という教えを受け入れて割礼を受けるということは、救いを恵みのプレゼントとして受け取ることをやめて、あたかも「いくら払ったらいいですか」と問うようなものなのです。

 そこでパウロは言うのです。「もし救いを恵みとして受けるのではなくて、代金を支払うことによってそれを買おうとするならば、全額を支払わなくてはならないのだよ。それはとてつもない額になることを知っているのですか」と。3節で彼が言っているのは、そういうことです。「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです」。律法全体――それが代金だというのです。律法を守ることによって救いを得ようとするならば、律法のすべてを完全に守らなくてはならない。つまり完全に正しい人にならなくてはならないのです。

 もちろん、ここには「割礼を受けて律法を守ること」と引き替えに救いを得ようとしている人はいないでしょう。しかし、他のものが、無意識のうちに神との取引の材料になっているかもしれません。善行や奉仕がそのような材料になるかもしれません。良い人間になりますから救ってください、一生懸命に奉仕しますから救ってください、と。 いや、それだけでなく、洗礼や聖餐、礼拝することでさえ、そうなるかもしれないのです。真面目に教会生活しますから救ってください、というように。

 皆さん、それらは皆、本当は神の恵みの賜物なのです。洗礼も、聖餐も、礼拝も、教会生活も、教会の交わりも、奉仕も何もかも、それは神様との取り引きの材料ではないのです。それはもともと、すべて恵みとして与えられているのです。キリストの十字架を通して、罪の赦しと共に、ただ一方的な恵みとして与えられているのです。ですからそれらは恵みとして、感謝して受けるべきものなのです。しかし、それが恵みの賜物だと分からないと、いつの間にか、それが救いを得るために《行わなくてはならないもの》に変質してしまうのです。

 私たちが、なんらかの行いによって救いを得ようとするならば、私たちは神の律法のすべてを完全に守らなくてはなりません。自分の行いによって、神から義と認められなくてはなりません。神と取り引きをしようとする人は、とてつもない高額を支払わなくてはならないのです。そして、その支払いは――不可能なのです。

大切なのは愛の実践を伴う信仰

 では、「いくら払ったらいいですか」ではなくて、本来はどうあるべきなのでしょうか。パウロは次のように言っています。「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(5‐6節)。

 私たちが救われる、救いを得るということは、代価を払って何かを獲得することとは異なるのであって、それは「待ち望む」という言葉によって表現されるべきことなのです。待ち望むのです。ただ受け取るために手を伸ばして、待ち望むのです。手を伸ばすこと、それが信仰です。そのように信じて、待ち望んで、そして受け取るのです。

 このことについては、先ほど想像していただいたプレゼントを誰かにあげる場合とは逆に、今度はプレゼントをもらう側に立ってみると良く分かります。誰かがあなたに長い時間をかけて、心を込めて準備したプレゼントを差し出すとします。「はい、これをあげますよ」と。そこで「いくら払ったらいいですか」と問う愚か者にならず、単純に「ありがとう!」と言って手を伸ばしたとします。そのプレゼントが相手の手から自分の手に移るまでに、ある程度の時間はかかりますでしょう。しかし、まだプレゼントを実際に手にしていない時点でありましても、もう既に相手の「愛」そのものはいただいているわけです。ですからまだ実際に手にしていなくても、プレゼントの大事な部分は、既に味わっているのです。だからうれしい。だから喜びがある。そうでしょう。――私たちはちょうどその時点にいるのです。「待ち望む」というのは、そういうことなのです。

 「義とされた者の希望が実現すること(直訳では「義の希望」)」を待ち望んでいるとパウロは言います。私たちに手渡されようとしている救いは、聖書において様々な言葉をもって表現されています。神の国に入ること。神の国を受け継ぐこと。主と顔と顔とを合わせて相まみえること。罪と死から解放されること。復活の体を与えられること。神の栄光にあずかること。やがて神様ご自身が、私たちの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださること。そうです、そのような時が来るのです。しかし、それはまだ実現してはいません。確かに私たちはまだ手にしてはおりません。しかし、それは神の愛によって既に用意され、イエス・キリストにおいて差し出され、手を伸ばす私たちに手渡されようとしているのです。まだ手にはしていないのですが、もう既に神の愛そのものはいただいているのです。あとはプレゼントそのものを手にするときを待つだけなのです。

 ですから、そこで大切なのはただ信仰だけなのです。言い換えるならば、手を伸ばし続けることなのです。代金を払うためではなくて、感謝をもって救いを受け取るために手を伸ばし続けることなのです。それは割礼を受けたユダヤ人キリスト者であろうが、割礼を受けていない異邦人キリスト者であろうが変わらないのです。大切なのは信仰です。

 その大切な「信仰」について、パウロは少し言葉を加えて、「愛の実践を伴う信仰」と表現しています。直訳すれば、「愛を通して働く信仰」です。言い換えるならば、愛と一つになった信仰です。どうして「信仰」と「愛」が結びつくのでしょう。――それは、《愛》に対しては《愛》をもって応答するのが最もふさわしいあり方だからです。

 プレゼントを受け取るときのことをもう一度考えてみてください。愛をもって準備されたプレゼントを受け取るのに、「いくら払えばいい?」と尋ねることは愚かですが、同じように、「タダでくれるというのなら、もらっておきましょう」と言って無造作に手を伸ばすのも愚かなことでしょう。「どうせ恵みによって救われるのだから、どう生きたっていいでしょう。大事なのは信仰だけですよ」というのは、そういうことです。明らかにどちらもふさわしい受け取り方ではありません。

 神様が愛をもって差し出してくださった救いを受け取るのに最もふさわしいあり方は、私たちも神様を愛する愛をもって手を伸ばすことなのです。愛に対するふさわしい応答は《愛》なのです。そして、神様を愛するということは、神様が愛してやまない私たちの隣人をも愛することであるはずです。神を愛することと人を愛することは切り離すことはできません。神を愛する愛であり人を愛する愛――大切なのはその愛の実践を伴う信仰だけです。それが神の愛に対する応答であり、私たちが救いを待つ待ち望み方なのです。

 
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