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「救われた人」

2006年6月25日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 5章1節~20節

レギオンに取りつかれた人

 今日の福音書朗読には、一人の男が登場します。彼は墓場に住んでいました。日本の場合、墓場に住むのは難しいと思います。墓石を動かすだけでも大変でし、一般的に中は広くありません。パレスチナの墓は横穴式の洞穴が主ですから、人が住もうと思えば住めるのです。とはいえ墓場は本来人間が生活する場所ではありません。そこは人間同士の生きた交わりのない死の世界です。

 何が彼を墓場へと追いやったのでしょうか。それは「汚れた霊」だと言うのです。この人は「汚れた霊に取りつかれた人」と表現されています。後でその汚れた霊の名前が出てきます。「レギオン」です。「レギオン」とは、もともとローマ軍の一軍団を意味する言葉です。一軍団には6000人の兵士がいたと言われます。まさに一軍団に匹敵するような、多くの汚れた霊が、彼を支配し、彼を引き回していたのです。そうして、いつの間にか人間と共に生きることができなくなりました。後に見ますように、彼には家があります。家族もいるのです。しかし、彼は家族とも共に生きられなくなって、墓場の住人になってしまいました。

 そのようにレギオンに取りつかれた人を、地元の人々は鎖でつなぎとめておこうと試みたようです。一人の人間として向き合うのではなくて、その人の行動の自由を制限しようとしたのです。これは誰でも考えることです。問題を起こす人がいるならば、行動の自由を制限することによって解決するしかない、と。しかし、この人は足枷を砕き、鎖を引きちぎってしまうので、誰も彼の行動の自由は奪えませんでした。一方、鎖を引きちぎった彼は、それで自由になったかと言えば、決して自由にはならないのです。内面がレギオンに支配されているのですから。鎖につながれていなくても、自由ではないのです。

 それは苦しいことです。鎖につながれることも苦しいことですが、鎖につながれていない自分自身が自分の思い通りにならないことは、もっと辛いことです。だから彼は苦しみの叫びを上げていたのです。「彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」(五節)と書かれています。彼は自分の思い通りにならない自分自身が許せないのです。それゆえ石で自分を打ちたたくのです。自分を処罰するのです。

 私たちは、この人をどう見るのでしょうか。医学の観点から、この人に病気との診断を下すことは容易いことでしょう。そのような観点から、「自分とは関係ない」、あるいは逆に「自分と関係がある」と見ることもできるでしょう。しかし、この男の話が聖書に書き記され、公の礼拝において繰り返し朗読され、そして聴かれてきたのはなぜでしょう。この男の姿に、世々の人々は自分自身の姿を見てきたからではないでしょうか。

 確かに、ここには墓場に住んでいる人はいないでしょう。しかし、私たちもまた、墓場の中にいるような生活をしていることはあり得ます。人間が生きているということは、ただ単に生物としての生命があるということではありません。人間としての生命は、他者との交わりにこそあります。神の交わり、そして人との交わり。人間は愛するとき、本当の意味で生きているのです。ですから聖書は、「愛することのない者は、死にとどまったままです」(1ヨハネ3:14)と言うのです。どんなに大勢の人々に囲まれ、賑やかな中にいたとしても、確かに人間社会の中に存在しているように見えても、その人が憎しみの中にとどまり、死にとどまったままならば、その人は墓場にいるのです。墓場に住んでいたこの人の姿は、その意味で他人事ではありません。

 先にも触れましたように、彼を墓場へと追いやったのは、汚れた霊でした。レギオンでした。「汚れた霊?悪霊ですって?今のこの時代に、なんと馬鹿馬鹿しいことを!」そう笑い飛ばしますか。しかし、それを汚れた霊と呼ぼうが何と呼ぼうが、人間のコントロールを超えた力によって、そのような人間の内に働く諸々の衝動によって、現実に人と人との交わりが破壊されることは事実ではありませんか。命に満ちた愛の交わりが失われ、本来人と人とが共に生きているはずの場所が墓場のようになるということは、いくらでも起こるのです。実際、まさに悪霊としか呼びようのない力によって、国を挙げて人間同士が殺し合うということさえ起こるのです。いや現に起こったのであり、今も起こっているのです。そして、時にはレギオン――6000人の兵士たちの軍団――が自分の内側で暴れているというような経験は、私たちと決して無縁ではありません。

 ある意味で、人間とはそういうものだということを、私たちは良く知っているのです。ですから足枷と鎖に解決を求めるのです。行動の自由を制限することに解決を求めるのです。もちろん、この時代に、実際に足枷を使うことはありません。鎖につなげるわけではありません。鎖や足枷の代わりに、数多くの規則と厳しい罰則を用います。自由であるから問題が起こるのであって、戒律社会にすれば問題はなくなるのだという考え方は、いつの時代にもあります。今のこの時代にもそのような主張は聞こえてまいります。

 しかし、行動の自由を抑制すれば、それは解決になるのでしょうか。ならないでしょう。それ以上の力が内に働けば、鎖は簡単に引きちぎられてしまうのです。いや、実際には鎖が引きちぎられていないときにも、内側には問題を残したままなのです。

 それはパウロという人を考えれば分かります。彼はまさにそのような鎖だらけ、手かせ足かせだらけの戒律社会の中に生きていたのです。しかし、そのパウロがこう叫んでいるのです。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分の望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:15)。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」(同18節)。「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(同22‐24節)。

 鎖で縛られれば縛られるほど、内面から突き上げる衝動は強くなります。汚れた霊は活発に動き出します。表面的には真面目におとなしく鎖につながれているように見えても、その魂は叫んでいるのです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と。そして、ある日突然鎖を引きちぎり、あるいはこの男のように自分を打ちたたくようなことをするのです。思い通りにならな自分が嫌で、許せなくて、自分を処罰するようになる。自分を傷つけるようになるのです。

 鎖によって人間は救われません。戒律によって人間は救われません。いくら自分で自分を打ちたたいても、そのことによって人は救われないのです。人間に必要なのは、汚れた霊から解放してくださる御方です。その御方との出会いなのです。

イエス・キリストによる解放

 今日の聖書箇所は、その御方、イエス・キリストが、嵐に荒れ狂う湖を越えてこの男のところまでやってきたという話しです。「湖の向こう岸」というのは、このゲラサの人から見れば「湖のこちら側」です。湖のこちら側に来てくださったのは、全くイエス様の御心から出たことでした。イエス様が「向こう岸に渡ろう」(35節)と言い出されたのです。そのように、アクションはイエス様の方から起こしてくださったのです。

 そのように「湖の向こう岸」に渡ったイエス様のもとに、この男は墓場から出て駆け寄りました。6節には、「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し」たと書かれています。彼の思いがどんなに切実であったかをその姿が物語っています。彼は助けて欲しいのです。救ってほしいのです。足枷や鎖ではどうにもならないことを知っているのです。自分の力ではどうにもならないことを知っているのです。

 ところが、彼の内側に分かれ争うもうひとつの声が上がります。その声は叫ぶのです。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と。汚れた霊の声です。放っておいてくれ、という声です。イエス・キリストが私たちの人生に介入しようとしますとき、このような二つ思いが分かれ争うということは、不思議なことではありますけれど、事実そのようなことは起こります。私たちは自分を何とかしたいと思うのです。惨めな現実を何とかしたいと思うのです。助けて欲しい。救って欲しいのです。しかし、もうひとつの思いもまた起こってくるのです。そのままにしておいて欲しい。放っておいて欲しい。かまわないでくれ。苦しめないでくれ、と。

 しかし、この人はイエス様のもとに留まったのです。イエス様もまた、この人に関わり続けてくださったのです。しかも、敵ではなく味方として!イエス様は「汚れた霊、この人から出て行け」と言われました。あくまでもこの人の側に立って、汚れた霊と戦ってくださったのです。そして、この人の現実と向き合ってくださったのです。その人を支配する霊に名前を尋ねるとはそういうことです。人々はこの人の迷惑な行動しか見ていませんでした。しかし、イエス様は、何がいったいこの人を支配しているのか、その内にあるものを知ろうとしてくださったのです。

 そして、イエス様が最終的にこの人をレギオンから解放してくださいました。その出来事は次のように描写されています。「汚れた霊どもはイエスに、『豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ』と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ」(12‐13節)。

 湖になだれ込む夥しい豚の群れ。溺れ死ぬ豚たちの悲痛な叫び。その凄惨な光景を、このゲラサの人は、どのような思いで見ていたのでしょう。自分を支配していた力が、いかに恐るべきものであったか。自分の内にあったものは、なんと恐るべきことをもたらす力であったか。そのことを改めて思ったに違いありません。

 そして、汚れた霊から解放されたこの人に対して、イエス様はこう言われたのです。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」(19節)。人々との交わりを破壊し、墓場へと追いやっていた汚れた霊から解放された今、彼は再び人々との交わりの中へと戻っていくのです。もはや墓場は彼の住むところではないのです。壊れていた家族との関係の中にも、彼は戻っていくのです。それはもしかしたら、とてつもなく困難なことかもしれません。しかし、彼は戻っていくのです。主の憐れみを伝えるために!

 先にも申しましたように、このゲラサの人の中に世々の人々は自分の姿を見てきたのです。そして、このイエス様の姿に、復活し今も生きておられるイエス・キリストを見てきたのです。あのとき「向こう岸へ渡ろう」と言われたイエス様は、そして向こう岸に渡ってゲラサの人のところまで行かれたイエス様は、私たちのいる「こちら側」にも来てくださいました。イエス様の方から私たちの人生に入ってきてくださいました。そうではありませんか。私たちが、今こうして礼拝の場に座っているということ、福音を聞いているということは、そういうことでしょう。

 教会は、ただ生活の指針を与え、宗教的な戒律を課し、行動を抑制するための足枷や鎖を提供する場所ではありません。人間の提供する鎖など、役には立たないのです。教会は、こちら側に渡ってきてくださったイエス様に、私たちが駆け寄る場所なのです。あのゲラサの人のように。主よ憐れんでください、と。だから私たちには希望があります。私たちは、もう一人で格闘する必要はないのです。どうにもならない自分と格闘し、破れ、嘆き、自分を打ちたたき、自分を傷つけ、自分を痛めつけながら生きる必要はないのです。イエス様が来てくださいました。神の国は近づきました。その方が私たちを解放し、墓から引き出し、命の交わりへと送り出すために、私たちと真実に向き合い、私たちに関わり続けてくださるのです。

 
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