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「神への叫び」

2006年6月18日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 4章13節~31節, 列王記下 19章14節~19節

神への従順が招いた困難

 今日の聖書箇所にはペトロとヨハネが登場しました。23節を見ますと、「さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した」(23節)と書かれています。「釈放されると」と書かれているように、彼らは捕らえられていたのです。彼らが捕らえられたのは、民衆にイエス・キリストを宣べ伝えていたからです。そのことに苛立ちを覚えたユダヤの当局者たちは彼らを逮捕し、投獄したのです。その様子は4章のはじめに書かれています。そして、4章の前半に一夜あけて次の日に彼らが取り調べを受けた様子が記されているのです。

 二週間前の聖霊降臨祭のときに、使徒言行録2章をお読みしました。弟子たちに聖霊が降って教会が誕生し、宣教を開始した次第が書かれておりました。今日の箇所は、そこからまだ5~6ページしか進んでおりません。教会が誕生して間もないのです。そこですぐにペトロとヨハネという二人の指導者の逮捕という事態が生じたと聖書は伝えているのです。イエス様が言われたとおり、彼らは地の果てに至るまでキリストを証しするために歩み出した途端に、その道を分厚い壁に阻まれることになりました。しかも、その困難は、イエス・キリストを宣べ伝えたことから始まったのです。福音を宣べ伝えることは、神の御心に適ったことではなかったでしょうか。しかし、神に従った行為が、直ちに大きな困難を招来することになったのです。

 「御心に適ったことならば、事は順調に進むものだ」――そんな思いが私たちの内にはあるものです。しかし、使徒言行録を読みますと、どうもそのような単純な発想は正しくないようです。神に従って始めたことが暗礁に乗り上げることはいくらでもあるのです。神への従順が、むしろ新たな困難を招くということが起こるのです。

 逆のことも言えるでしょう。困難に直面したからと言って、うまくいかないからと言って、だからそれは神の御心に適わないことなのだ、と単純に結論することはできないのです。私たちが問題を抱えて悩む時、それは必ずしも神様に逆らった結果であるとは限りません。初代教会が権力者からの脅迫と迫害を受けた時、それは人間的には大きな問題を抱え込むことを意味しましたが、実はそこから彼らの新しい一歩が始まることになるのです。

 この危機的状況において、彼らはどうしたでしょうか。ペトロとヨハネは、釈放されると仲間のところへ行きました。祭司長たちや長老たちから脅されたことを残らず話しました。彼らは何も問題が生じていないかのように振舞いませんでした。ペトロとヨハネは、仲間と問題を共有しました。現実を認め、一緒に現実と向き合いました。そのように、正直に現実と向き合うことができたのは、一つのことを知っていたからです。――私たちは祈ることができる!そして彼らは神に祈ったのです。心を一つにして祈ったのです。神に祈ることのできる人にとって「八方塞がり」は絶望を意味しません。八方しか塞がっていないならば、天はまだ開いているのです。

神に目を転じて

 では、彼らは何を祈ったのでしょうか。どのように祈ったのでしょうか。彼らは、神に向かって声を上げ、叫びました。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう。』事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです」(24‐28節)。

 このように、祈りとは神へと目を転じることから始まります。目の前の問題の大きさにではなく、その背後におられる神の大きさに目を向けるのです。彼らは大声を上げて天地の創造主であるお方を讃美したのです。彼らは、より大きな力を持つ者から脅迫を受けました。しかし、この世においていかに力ある者であっても、所詮は神の被造物に過ぎません。私たちを苦しめるいかなる事態も、被造物世界の出来事に過ぎないのです。小さな一円玉でありましても、目の前に置くならば、それは全宇宙をお覆い隠します。目の前の困難は、しばしば他の一切を覆い隠します。私たちはそれがこの世における全てであるかのように思い込みます。それゆえに目を転じなくてはなりません。この世界の創造主なる神に思いを馳せるとき、私たちがこれこそ全てと思っていたものが、実は造られた世界の一部に過ぎないことが見えてくるのです。それが祈りの始まりなのです。

 さらに彼らはこの世界の歴史を支配し給う神を思います。確かに、彼らが今いるエルサレムにおいて、キリストは十字架にかけられました。しかし、あの恐るべき出来事でさえ、神の御手の外において起こったのではないのです。彼らは詩編第二編の言葉を引用し、その事実を確認するのです。「そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです」と。そうです、すべては既に聖書において語られていたことでした。神が無力であるゆえに、神の力が及ばなかったゆえに、キリストが殺されたのではないのです。すべては神の御手の内にあったのです。それは御手の内にあって、御心によって実現したのです。ならば、それで終わりではないはずです。必ずその先があるのです。事実、キリストの十字架は終わりではありませんでした。

 それゆえに彼らは、ペトロとヨハネから聞かされた権力者の脅迫という事態もまた、神の手の及ばないところにおいて起こったのではないことを知っているのです。どんな厳しい現実も、決して神の御手の外にあるのではない。ならば神の御手が、必ずその先へと事態を導いてくれるはずです。

 それゆえ、彼らは全幅の信頼をもって、さらに神に叫び求めるのです。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」(29‐30節)と。

御手を伸ばしてください

 「彼らの脅しに目を留めてください!」というこの祈りの言葉は、列王記下に記されていますヒゼキヤ王の祈りを思い起こさせます。

 ユダの王ヒゼキヤの治世に、アッシリアの王センナケリブが攻め上ってきました。アッシリアはユダの町々を占領し、さらにはユダの都エルサレムにまで勢力を延ばしてきました。そして、センナケリブの使者ラブ・シャケのもとからヒゼキヤのもとに脅迫状が送られてきたのです。「ユダの王ヒゼキヤにこう言え。お前が依り頼んでいる神にだまされ、エルサレムはアッシリアの王の手に渡されることはないと思ってはならない。お前はアッシリアの王たちが、すべての国々を滅ぼし去るために行っていることを聞いているであろう。それでも、お前だけが救い出されると言うのか。…」(列王下19・10以下)。

 これに対して、ヒゼキヤ王はどうしたでしょうか。次のように書かれています。「ヒゼキヤはこの手紙を広げ、主の前で祈った。『ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です。主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いて御覧ください。生ける神をののしるために人を遣わしてきたセンナケリブの言葉を聞いてください。…』」(列王下19・14‐16)。

 「ヒゼキヤはこの手紙を広げ、主の前で祈った」。私はこの言葉が大好きです。一国の王が、国家の危機的状況において、なりふりかまわず神殿で手紙を広げて掲げている姿――見ようによっては、実に滑稽な姿です。しかし、その姿に私はとても心惹かれます。そうです、これでよいのです。彼がしたことは、現状を神の前に広げて訴えることでした。「どうぞご覧ください」と訴えることでした。私たちも、すべてを神の御前に広げたらよいのです。厳しい現状を神の御前に広げて、「どうぞご覧ください」と祈ったらよいのです。なにも自分で問題を抱え込んでいなくてよいのです。危機に直面した初代の教会がなしたことも同じでした。彼らは脅迫されている現状を、まず神の御前に広げたのです。「彼らの脅しに目を留めてください!」と。

 その上で、彼らは祈ります。「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」彼らは、脅迫されているという現状を神に訴えて、「そこから逃れさせてください」と祈ったのではありませんでした。彼らが求めたのは困難を取り除かれることでも、困難から逃れることでもなかったのです。御心に従って立ち向かえるようになることを求めたのです。恐れから解放されて、立ち向かえるようになることを求めたのです。神様の御心は、教会が御言葉を語り伝えることです。ですから、彼らは、厳しい現実に立ち向かうことができるようにと、御言葉を大胆に語れるようにと祈り求めたのです。

 そして、彼らはさらに祈ります。「どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」と。彼らは、神御自身が手を伸ばしてくださることを祈り求めたのです。しかし、神はどのようにして手を伸ばされるのでしょうか。彼らは、天から地上に大きな手が伸びているような映像を思い描いているのではありません。実際には、手を伸ばすのは彼ら自身なのです。彼らが病気の人のために祈り、彼らが病気の人の上に手を伸ばし、手を置くのです。「御手を伸ばしてください」と祈ったとき、神様が天から直接に手を伸ばされるのではなくて、彼ら自身を通して手を伸ばされるというのが、彼らの持っていたイメージだったのです。人間の体を通して、人間の働きを通して、神が手を伸ばされる、ということです。

 私たちが最終的に祈り求めるべきことも、このことに他なりません。神様が、この私を通して、現実に手を伸ばしてくださるように。救いを必要としているこの世界に手を伸ばしてくださるように。苦しみの中にある隣人に、癒しを必要としている隣人に、手を伸ばしてくださるように。真の命に渇いている隣人に、神が手を伸ばしてくださるように。この私を通して、この私たちが遣わされるところに、神の国のしるしが現われますように。私たちが、この世に遣わされるとは、そういうことなのです。

 そして、彼らの祈りに神様は答えられました。「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」(31節)。祈りの答えは聖霊の満たしでした。神の御霊が彼らの内に満ちて、彼らを通して神が力強く働き始めたのです。教会を取り巻く状況はまだ何も変わってはいません。しかし、既に神の御業は始まっているのです。彼らの内に始まっているのです。私たちもまた、彼らと同じように祈り、神の御心が現実に行われること、神の御業が現れることをひたすら求めるならば、神は私たちの祈りに対して、聖霊の満たしをもって答えてくださるのです。どのような状況に置かれても、困難から逃げないで、神様が私たちを“霊”に満たして用い給うことを期待して、祈り求め続ける者でありたいと思います。

 
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