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「神の愛を知る人」

2006年5月7日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの手紙 Ⅰ 4章7節~21

神を知ること

 今から460年ほどまえに宗教改革者カルヴァンが、「ジュネーブ教会信仰問答」を書きました。その主たる目的は子供たちの信仰教育にありました。その第一問は、とても印象的な次のような問いです。「人生の主な目的はなんですか。」子供に人生の目的を問うのです。幼い時から最も大事な問いを突きつけるのです。問答ですから、答えがあります。こう書かれています。「答 神を知ることです。」そのように問われ、そのように答えるなら、子供たちは知ることになるでしょう。なぜ今、自分は教会にいるのか。なぜ信仰の教育を受けているのかを。それは人生の最も重要な目的のためなのです。最も重要な事柄と真実に向き合うためなのです。それは今、ここにいる私たちについても同じです。私たちは、ここにおいて、人生において最も重要な事柄と向き合っているのです。

 しかし、「神を知る」とはどういうことでしょうか。とても漠然とした言葉です。神が存在することを知ることでしょうか。何か超自然的なことを通して体験的に神を知ることでしょうか。そこで重要となってきますのが、ヨハネの手紙にありました今日の御言葉です。「神は愛です」(4:16)。神を知るということは、ヨハネに言わせるならば、愛なる神を知ることなのです。ヨハネがあふれる喜びをもって語っているのは、「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています」(16節)ということなのです。

 「わたしたちに対する神の愛、神がわたしたちに抱いていてくださる愛」を知った。そして、今なお知っている。いや、知っているだけではありません。彼は信じているのです。愛を信じることができる。愛を信じて生きていける。生きていけるだけではなく、愛を信じているということは、愛を信じて死んでいくこともできるということでしょう。神の愛を知り、愛を信じられるとはなんと幸いなことでしょう。これが神を知るということです。愛なる神を知るということなのです。

 しかし、ヨハネは神の愛をどのように知ったのでしょう。神の愛をどこに見たのでしょう。世の中には奇跡的に病気が癒されて「神は愛である」と感謝する人もいます。しかし、病気の癒しが「神は愛である」と語る根拠にならないことは明らかです。人生最後の病気は癒されないからです。自分が経験してきた数々の幸運のゆえに「神は愛である」と言う人がいるかもしれません。しかし、その人が不運に見舞われるならば、一転して神を呪うかもしれません。そもそも「神は愛である」という言葉が、単純にこの世の経験から出てこないことは明らかです。なぜなら、この世は実に理不尽な出来事に満ちているからです。ヨハネはいったいどこを見ているのでしょう。

 そこで私たちは彼の言葉に耳を傾けたいと思います。10節の最後でヨハネは「ここに愛があります」と言っているのです。彼の指先はどこを指し示しているのでしょう。10節全体をお読みします。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:10)。お分かりになりますか。彼の指先は十字架にかかったキリストを指し示しているのです。そして、もし彼が礼拝の場にいたならば、彼は聖餐のパンとぶどう酒を指差してこう言ったことでしょう。「ここに愛がある」と。ここに私たちの罪を償ういけにえがある。神自ら備えてくださった、罪の贖いがある、と。

ここに愛がある

 誰もが知っている聖書の話の中に「エデンの園の物語」があります。ストーリーは今さらお話しするまでもないでしょう。アダムとエバが、禁じられた木の実を食べてしまうという話です。そこで印象深いのが、その後の描写です。このように書かれています。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」(創世記3:8‐10)。

 その映像が目に見えるようです。さわやかな風が吹く中、野の草花や空の鳥たち、造られたものすべてが神を喜び、神が与えてくださった命を喜んで生きている中、アダムとエバはジメジメとした木の陰に隠れているのです。神の顔を避けて!もはやまっすぐに神に顔を向けて生きられない。それゆえに不安と恐れを抱えながら生きている。なんという惨めな姿でしょう。しかし、これは昔々の話などではありません。今もなお変わらない私たち人間の姿そのものです。

 しかし、そうやって神の顔を避けて、木の間に隠れて生きていた私たちを、神様が追い求めてくださったのです。「アダムよ、どこにいるのか」と神様が呼びかけたように。そして、神自らが罪の償いの犠牲を用意して、その犠牲を屠られたのです。イエス・キリストを十字架にかけられたとは、そういうことです。

 それは何を意味しますか。神様があくまでも愛の手を伸ばし続けられたということです。「償いの犠牲は屠られた。あなたの罪は赦された。だからもういいんだよ。木の間に隠れてなくていいんだよ。わたしの顔を避けて不安と恐れを抱えながら生きていなくていいんだよ。顔を上げて、わたしにまっすぐに顔を向けて生きていいんだよ」。言い換えるなら、「あなたは罪人だ。しかし、それでもわたしはあなたを愛している」という神様の意思表示です。そう言って、愛の御手を伸ばし続けられた。それが神自ら罪の償いの犠牲を備えてくださったということです。それがキリストの十字架です。だからヨハネは言うのです。「ここに愛がある」と。

完全な愛は恐れを締め出す

 この愛を受け入れ、感謝をもって、この愛を信じて生きていく。そのことをヨハネは、「愛にとどまる」と表現しました。それこそが、愛なる神と共に生きることであり、さらに言うならば、愛なる神と一つになって生きることなのです。「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」と書かれているとおりです。

 そのように、私たちが愛にとどまるということが大事なのです。確かに神は愛です。愛は神から来るのです。しかし、神の愛は一方通行では完成しないのです。私たちが愛を受け入れ、愛を信じて生きるときに、神の愛は全うされるのです。そして、そこにはさらに驚くべきことが書かれております。「こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです」(17節)。

 「イエスのようである」は、「彼のようである」と書かれているのですが、新共同訳のように、内容的にはイエス様のことを言っていると考えてよいでしょう。ならばどうでしょう。皆さんは、「この世でわたしは、イエスのようである」と言えますか。「そんなこと、絶対にありえない」と思いますでしょうか。しかし、わたしたちが「愛にとどまる」ならば、そのように言えるのです。「この世でわたしは、イエスのようである」と言えるのです。どのような意味においてでしょう?ただ一点においてです。すなわち、父なる神との関係においてです。神との関係において、「わたしはイエスのようである」と言えるのです。

 神の顔を避けて隠れているイエス様、想像できますか。それはありえないことでしょう。なぜですか。罪のない御方だからです。ですから、イエス様はいつでもまっすぐに父なる神に向かって、「父よ」と呼びかけておられたのです。そして、私たちもそのようなイエス様のように生きることが許されているのです。なぜですか。既に述べましたように、罪を取り除く神の小羊、罪を償う犠牲が屠られたからです。だから、もうアダムのように、「あなたの足音が聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております」などと言う必要はないのです。この世にあって、私たちもまた顔を上げて、「父よ」と呼びかけることができるのです。そうです、イエス様のようにです。ならばヨハネが言うように、最終的な裁きの日さえも、もはや恐怖の対象とはなり得ないでしょう。

 ですから彼はさらにこう言っているのです。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです」(19節)。ここで言われている愛、「完全な愛」とは、これまでの流れから明らかなように、償いの犠牲として御子を与えてくださった神の愛です。「神は愛です」――この愛こそが、恐れを外に放り出してくれるのです。ここに「恐れは罰を伴い」と書かれていますが、意味合いとしては「恐れと罰は関係している」ということでして、そのように訳している聖書も少なくありません。確かに様々な恐れというものがありますが、究極的に恐ろしいのは神に処罰されることであるに違いありません。アダムも「恐ろしくなり、隠れております」と言いましたでしょう。確かに、「恐れと罰は関係している」のです。

 ならばその恐れを締め出してくれるのは、神の愛以外にはあり得ません。神の愛が人間にとって最も根源的な恐れを外に放り出して締め出すのです。「恐れる者には愛が全うされていないからです」とヨハネは言いました。大事なことは、恐れをもたらす原因を一生懸命に取り除いたり、自分の身を必死で守ろうとすることではないのです。「愛の内に全うされること(直訳)」なのです。キリストにおいて現された神の愛を受け入れ、神の愛を信じて生きること、完全に神の愛の中に身を置いて生きるようになることなのです。

愛する者となる

 そして、最後にもう一つのことを心に留めましょう。19節以下にはこう書かれています。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(19‐21節)。

 「神を知る」ということが、そもそもの出発点であったわけですが、実はこの手紙が書かれた頃、「神を知る」ということは一つのホットな話題となっていたようです。それはこの手紙の中に「知る」という言葉が繰り返し出てくることからも分かります。ある人たちは、こう考えました。「神を知る」ということは、特別な人間のみが受けることができる「秘められた知識」を得ることだ、と。その知識という言葉はギリシア語でグノーシスと言います。ですので、そのような人たちは、後に「グノーシス主義者」などと呼ばれるようになりました。その結果、どういうことが起こってきたかと申しますと、自分たちは特別な知識を得ている霊的な人間であると思っている人々が、他の人々を見下すようになりました。教会に分裂と混乱が生じるようになりました。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です」という言葉はそのような人々を念頭に置いて語られているのです。

 既に見てきたことから明らかなように、「神を知る」ということは、そのような個人的な霊的な神との神秘的な合一を追い求めることとは異なります。「神を知る」ということが、傲慢になったり、他者を見下したり、憎んだりすることに結びつくなら、何かが間違っているのです。「神を知る」ということは、愛なる神を知ることです。神がまず私たちを愛してくださいました。そのような神の愛を知ることは、今度は私たちが誰かを愛するようにと導くはずなのです。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」とヨハネは言いました。これこそが本当の意味で神を知る人の言葉です。そのように私たちも言えるように、そのように神を知るようにと、私たちは十字架のみもとに集められ、今ここにいるのです。

 
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