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「良い羊飼い」

2006年4月30日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 10章7節~18

わたしは良い羊飼いである

 初期のキリスト教会というものは、ユダヤ教の一派として認識されておりました。「ナザレ派」などと呼ばれていました。イエス様がガリラヤのナザレ出身だったからです。ところが、教会が誕生した紀元一世紀も終わり近くにさしかかった頃、キリスト教会はユダヤ教社会から完全に切り離されることになりました。イエスがメシアであると公に言い表す者は、会堂から追放されることになったのです。教会にとって非常に厳しい状況でした。ユダヤ人から迫害の対象となることが確実になっただけではありません。ローマの公認宗教であるユダヤ教界から追放されるということは、ローマ帝国の迫害の対象となることをも意味していたからです。それは大きな試練でした。信仰が大きく揺さぶられることとなりました。

 先ほどお読みしたヨハネによる福音書は、そのような時代に書かれたのです。信仰が揺さぶられるような状況の中で、人々は今私たちがこうしているように、主の日に集まって礼拝をしていました。指導者たちが次々と捕らえられていくということも起こってきたでしょう。これからどうなっていくのだろうか。自分たちのこの小さな集まりはどうなってしまうのだろうか。先の見えない不安の中で、恐れの中で、共に集まって主の御言葉に耳を傾け、主の体と血とにあずかっていたのです。そのような中で、この福音書も朗読されていたのです。

 先ほどお読みした福音書の言葉が、そのような礼拝において朗読されていたことを想像してみてください。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる」(14‐15節)。この言葉は彼らにとってどれほど大きな励ましであったことかと思います。このイエス様の言葉に、彼らは文字通りしがみついたに違いありません。そして、そのような彼らの心に、イエス様は繰り返し語ってくださったことでしょう。「わたしの羊たちよ、恐れるな。わたしは良い羊飼いだ。お前たちは苦難の中に放り出されているのではない。わたしがお前たちの羊飼いだ」と。

 そのような言葉を、同じように私たちは今、聞いているのです。イエス様が、ここにいる私たちにも同じように語っていてくださるのです。もちろん、初期の教会と私たちとでは置かれている状況が違います。私たちの教会は、国家や民族の迫害に遭っているわけではありません。しかし、私たちの生活を揺さぶり、神から引き離し、絶望をもたらすために悪魔が用いる艱難は、必ずしも迫害のような単純なものばかりではありません。この世に存在するありとあらゆる力が、私たちを神から引き離そうとする力として働きます。そのような中に私たちは生きているのです。そして私たちは皆、狼が来ればひとたまりもない、そんな無力な羊に過ぎません。そうではありませんか。しかし、そのような私たちにも、イエス様は繰り返し語りかけてくださるのです。「わたしは良い羊飼いである」と。ならば大事なことは、その声を聞いてついていくことなのです。羊飼いから離れないことです。

わたしは自分の羊を知っている

 今日は特にこの14節と15節を心に留めたいと思います。「わたしは良い羊飼いである」。どのような意味で主は「良い羊飼い」なのでしょう。こう書かれています。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」。「良い羊飼い」であるとは、私たちを知っている羊飼いであるということです。

 残念ながら、羊飼いが羊を飼っている姿というものは、私たちにあまり馴染みがありません。かつて私が大阪にいたときには、車で二時間ほどの距離に六甲牧場という羊の牧場がありましたのでよく行きましたが、そこでは羊飼いなるものは見かけませんでした。パレスティナの羊たちの生活は、どうもそれとは違うようです。

 羊飼いは羊と共に生活をしていました。羊の一匹一匹に名前をつけて養っていたと言います。3節には「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と書かれています。私たちから見ると羊は皆同じように見えますが、羊飼いは羊の一匹一匹を見分けることができるのです。羊飼いにとって羊たちは、あくまでも単なる《羊の群れ》ではなく、一匹の羊が他の羊の代わりには絶対になれない、それぞれかけがえのない羊なのです。

 イエス様が、「わたしは良い羊飼いである」と言われたとき、念頭に置いておられたのは、そのような羊飼いと羊の関係です。羊飼いが羊を知っていると言う場合、それは単に羊の生態や羊というものの性質を知っているという意味ではありません。個々の羊を知っているということです。イエス様は、人間とはどのようなものかを知っておられるのではなくて、私を知っておられ、あなたを知っておられるのです。十把一絡げではないのです。

 しかも、そこには驚くべきことが語られています。「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」(15節)と言われるのです。こんなことを言ってよいのでしょうか。父なる神と御子なるイエス様の関係は、唯一無二の関係です。イエス様が父なる神といかに深い愛と信頼の絆で結ばれていたかを、この福音書の中に繰り返し見ることができます。イエス様は言われるのです。「わたしと父とは一つである」(30節)と。しかし、なんとイエス様は、そのような関係がただ御父と御子との間にあるのみならず、羊飼いなるイエス様とその羊との間にもあるのだ、と言っておられるのです。

 実際、福音書に見るように、イエス様と弟子たちとの関係はまさにそのようなものでした。本当の意味で弟子たちがイエス様を知るのは後になってからのことです。しかし、弟子たちがそのように主を知る前に、イエス様は彼らのことを知っておられました。実に、彼らの内側に潜んでいる弱さや罪深さまでも知っていたのです。弟子たちが自分を知る以上に、イエス様の方が彼らのことを知っていたのです。後の方を読みますと、イエス様はやがて弟子たちが御自分を見捨てて逃げ去っていくことまで知っていたことが書かれています。イエス様は、ペトロが御自分を三度否むであろうことまでも知っておられたのです。ペトロも弟子たちも、自分で自分のことが分かっていませんでした。しかし、弟子たちはやがて、イエス様に知られていることを知ることになるのです。そのように、自分のことを自らが知る以上に自分たちを自分の羊として知り尽くしている羊飼いなるイエス様を知ることになるのです。

 イエス様は私たちに対しても、「わたしは良い羊飼いである」と言ってくださいます。主は羊飼いとして、私たちを知っていてくださいます。主に背いてきた私たちの罪も、私たちが決して外に現そうとしない、内に秘められた弱さも、主は知っておられるのです。

わたしは羊のために命を捨てる

 そのように御自分の羊を知り尽くした上で、主はさらに言われるのです。「わたしは羊のために命を捨てる」と。これが「わたしは良い羊飼いである」と言われた主の意味していたもう一つの内容です。

 羊飼いが羊を守るために命を捨てるとするならば、それは羊を愛しているからです。羊が自分の命よりも大事だからです。しかも、ここには「わたしは良い羊のために命を捨てる」とは書かれておりません。イエス様の愛は、私たちの献身や忠実さに対する褒賞ではないのです。考えてみてください。イエス様は、やがて御自分を見捨てて逃げていくような、そんな弟子たちを前にして、この言葉を語られたのです。「わたしは羊のために命を捨てる」と。

 皆さんには、「あなたは私の命よりも大事だ」と本気で言ってくれる人が一人でもいますでしょうか。今日、この後で婚約式があります。婚約する二人は、少なくとも現時点においては、互いにそう言うだろうと思います。「あなたは私の命よりも大事だ」と。いずれにせよ、もしそのような人が一人でもいるならば、あなたは本当に幸せな人だと思います。どんなに辛いことがあっても、苦しいことがあっても、不安でも恐ろしくても、生きていくことができるはずです。

 しかし、人間の愛というものには、やはり限界があるものです。あなたのすべてを知り尽くした上で、あなたが内に秘めている弱さも、表には現われていない諸々の罪も、すべてを知り尽くした上で、なお「あなたは私の命よりも大事だ」と本気で言ってくれる人となると、どうでしょう。自分自身について、そのことをまじめに考えたならば、やはり「それはありえないだろう」と言わざるを得ないのではないでしょうか。

 そうです。ここでイエス様が語っておられるのは、そのような《ありえない》言葉なのです。しかし、やがて弟子たちは知ることになるのです。十字架にかけられたイエス様を目の当たりにして、一つの事実を知ることになるのです。あの御方は、私たちの弱さをご存知だった。私たちがあの御方を見捨てて逃げ去ることもご存知だった。結局は我が身のことしか考えない者であることもご存知だった。しかし、そんな私たちにあの御方は本気で言ってくれた。「わたしは羊のために命を捨てる」と。「わたしの羊たちよ、お前たちはわたしの命より大事なのだ」と。あの方は本気でそう言っておられたのだ、と。

 そのことが、ヨハネの手紙にはこう表現されています。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」(1ヨハネ3:16)。そこまで愛してくださった方が、復活して、今も生きておられて、永遠に良き羊飼いでいてくださる。世々の教会はそのことを信じ、宣べ伝えてきたのです。だから一世紀の末においてもなお、皆が集まるときにこのイエス様の言葉が朗読されたのです。そして、今日もなお、この言葉が礼拝の中で朗読されているのです。

 イエス様は、私たちを知っていてくださいます。ここにいる私たち一人ひとりを、その弱さも、その罪も、何もかも知り尽くしておられます。その御方はまた、私たちの罪を贖うために、私たちを救うために命を捨ててくださった御方です。「あなたは私の命よりも大事だ」と本気で言ってくれる人が一人でもいますか、と先ほどお尋ねしました。少なくとも一人はいるということです。その御方が、今日も私たちに言われます。「わたしは良い羊飼いである」と。

 私たちは、神の国に向かって、御心が天に成るごとく地にも成るその時に向かって、主の羊の群れとしてこれからも歩いていきます。羊飼いの声を聞きながら、この良き羊飼いについていきましょう。この一年間、教会が置かれているこの世界に何が起こってくるのか、私たちには分かりません。私たちの個々の人生にも、思いがけない様々なことが起こってくることでしょう。しかし、私たちには良き羊飼いがいるのだから、心配いりません。その声に耳を傾け、これからもその良き羊飼いについていきましょう。

 
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