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「キリストの復活」

2006年4月16日 復活祭礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書16:1‐8

 イースター、おめでとうございます。わたしは昨年のイースターの翌週にこの教会に着任しましたので、これが皆さんと一緒に祝う初めてのイースターです。それゆえに感激もひとしおです。三月のはじめから受難節に入りました。この一ヶ月半、一緒にイエス様の御受難を覚えながら過ごしてまいりました。受難節の期間というのは、感覚的にはある意味でトンネルの中を歩いているような感じです。でもトンネルは永遠には続きません。やがて出口に至ります。今日は、典礼色も真っ白に変わって、いかにも出口に達したという様相ではありませんか。これは、私たちの人生のトンネルも決して永遠ではなくて、必ず出口に至ることを指し示しているかのようです。

絶望した人々

 さて、そんな今年のイースターにおいて、あの復活の朝の出来事を伝える聖書の御言葉が読まれましが、私たちはまずその直前に書かれていることに目を向けておきたいと思います。今日の聖書箇所は、その直前に書かれている場面と際立ったコントラストを示しているからです。こう書かれています。「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」(15:46‐47)。

 そこには今日の聖書箇所と関係する人々が出てきます。まずはヨセフです。彼がイエス様の葬られたあの墓の持ち主です。彼は最高法院の議員でした。イエス様に有罪判決を下し死刑を言い渡したあの最高法院の一員です。しかし、イエス様を手厚く葬ったこの男は、明らかにイエス様に対して好意的です。彼には、このナザレのイエスという方が、死罪に当たるとはどうしても思えなかったに違いありません。真夜中に持たれた異常な裁判による判決は、どう見ても正当ではないと思っていたことでしょう。しかし、彼はイエスを守れなかった。彼の属する最高法院の決定により、宗教的な正義の名のもとに、イエスは処刑されて死んでしまったのです。ヨセフは、せめてイエスをきちんと墓に葬りたいと思った。ですから自分の墓を使ったのです。しかし、遺体を墓に納めたところで、何が変わるわけでもありません。事態を変え得なかった自分の無力さ、自分もまたその一部である宗教的権威の醜さ、正義の名のもとに犯してしまった大きな大きな罪。それは動かしがたい事実なのであって、もはや何も変わらないのです。ヨセフにとってはこれが結論でした。すべては終わったのです。

 そして、またそこには婦人たちが出てきます。マグダラのマリアとヨセの母マリア。イエス様を愛し、慕っていた婦人たちです。しかし、そのイエス様を守ることはできませんでした。十字架につけられ苦しんでいるイエス様に対して、何もすることもできませんでした。ただ見つめていることしかできなかったのです。彼らの目の前で、イエス様は息を引き取りました。安息日の前日、大急ぎで葬られた遺体に、香油を塗って差し上げることもできませんでした。イエス様から多くの多くの愛を受けてきた。けれど何一つお返しできなかった。何もしてあげられませんでした。「マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」と書かれています。彼らはいつまでもいつまでも見つめていたことでしょう。それしかできないから。でもそれで何が変わるわけではありません。イエス様が死んでしまったという事実は変わりません。終わったのです。すべては終わったのです。

 私たちは、その場面に登場しない人々のことにも思いを馳せるべきでしょう。イエスの弟子たちです。彼らはこの前後にまったく現れません。イエス様を見捨てて逃げてしまったからです。「あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と誓ったペトロ。しかし、実際には、鶏が二度鳴く前に三度イエス様を知らないと否んでしまったペトロ。彼はイエス様が葬られた後の安息日を、どんな思いで過ごしていたのでしょう。見捨てられることによる絶望というものがあります。しかし、誰かを見捨ててしまったという自責の念における絶望は、より深いものなのかも知れません。また夜が来れば朝も来る。新しい日は来るでしょう。しかし、もはや何も変わらないのです。あの弟子たちの時計は、イエス様の死と共に止まったままです。終わったのです。すべては終わったのです。

 イエス様は死んでしまって、墓に葬られました。その入り口は石でふさがれました。その石は大きかったと記されています。あの婦人たちが見つめていた墓の入り口にある大きな石、動かし難い大きな石。それはヨセフや婦人たちやあの弟子たちの絶望の大きさを象徴しているように思えてなりません。彼らの心の中には、あの墓の石よりも、もっともっと大きな動かし難い絶望という石があったのです。

キリストの復活

 しかし、そこに本日お読みしたあの聖書の言葉が続くのです。そこにはこう書かれているのです。「ところが、目を上げて見ると、石はすでにわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである」(4節)。三日目の朝、あの日曜日の朝、あの婦人たちはイエス様の遺体に油を塗りに墓に行ったのです。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。石は大きかったのです。動かし難い石だったのです。しかし、「目を上げて見ると、石はすでにわきへ転がしてあった」。これが福音です。「だれが転がしてくれるでしょうか」――だれが転がしてくれましたか。神様です。すでに神様が転がしておいてくださったのです。

 これが何を意味するのか。その後の言葉がよく表しています。彼女たちは、墓の中にいた若者から、こんな言葉を聞くのす。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」(6節)。そうです、彼女たちは確かに、「十字架につけられたナザレのイエス」を捜していたのです。なぜなら、十字架につけられたイエスは、墓の中にいるはずだったからです。変わらずに墓の中にいるはずだったからです。すべては終わったのですから。墓にいることは結論であったはずです。ところが、イエス様は墓にはおられなかった。「あの方は復活なさって、ここにはおられない」。――終わったはずだったのに、終わってはいなかったということです。復活とは、そういうことです。

 人間の目から見て「終わり」であることがあります。「もう終わりだ」としか言いようのないことが確かにあります。しかし、人の目から見て「終わり」であっても、神様にとっては「終わり」ではないのです。イエス様は、「終わり」である墓になんていなかった。その先に既に進んでいたのです。それがキリストの復活です。人の目から見て「終わり」であっても、神にとっては「終わり」でないということは、何を意味しますか。もう私たちは決して絶望する必要はないのだ、ということを意味するのです。神様は、あの墓の入り口から大きな石を転がされました。そして、それだけではありません。あの婦人たちの心から、ヨセフの心から、そしてあの逃げた弟子たちの心から、そして後に続く多くの人々の心から、絶望という大きな石を転がされたのです。

 神が大きな石を転がされた――それが今日にまで続いている教会の出発点です。神がキリストを復活させてくださらなかったら、神が人間の絶望を転がしてくださらなかったら、キリスト教会などこの地上に存在するはずがないのです。

キリストの復活を信じる教会

 今日、はじめて教会に来られた方もあるかもしれません。教会へようこそ!教会は、その初めから、二千年の長きに渡って、キリストの復活を信じてきました。神が人間の絶望を既に転がしてしまっていることを信じてきました。ですから、教会は世々に渡って、日曜日に集まって礼拝をしてきたのです。日曜日は、キリストの復活の日だからです。日曜日ごとに集まってきたこと自体が、復活を信じる信仰の証だったのです。そのような復活の日の集まりに、日曜日の集まりに、イエス様が私たちをも招いてくださいました。ここにいるひとりひとりを、復活の日の集まりに招いてくださったのです。この信仰の中にたどりついたなら、もう大丈夫です。ここにたどり着くまでに、本当にたいへんな道を辿ってきたかもしれません。しかし、キリストの復活を信じる信仰へと導かれたのですから、もう大丈夫です。もはや決して望みを失って「もう終わりだ」などと言う必要ありません。

 確かに人は、ある程度長く生きていれば、大きな悲しみに出会います。親しい友人や家族との死別の悲しみをも経験することになるでしょう。あるいは自分自身が、死と向き合わざるを得ないときがあるかも知れません。いや、自分自身については、「かも知れない」ではなくて、必ずそのようなときを迎えることになります。しかし、それでも私たちは、もはや絶望する必要はないのです。人間の目から見て死は終わりであっても、神にとっては終わりではないからです。

 あるいはこの世界に目を向ける時、毎日世界で起こっている悲しいニュースが目に耳に飛び込んでくる時、私たちの目にはこの世界がますます悪くなって、人間の悪と罪の中に崩壊して滅びていくだけに見えるかも知れません。もう既にこの世界は終わっているようにさえ見えるかも知れません。しかし、私たちはこの世界の様相にも絶望する必要はないのです。人間の目から見て終わりであっても、神にとっては終わりではないからです。

 あるいはまた、自分自身の罪深さ、あるいは自分が犯してしまった罪の大きさに、「もう終わりだ」と思わざるを得ないことがあるかも知れません。「もう終わりだ。もう取り返しがつかない」と。しかし、人間の目から見て、どれほど罪が大きくて、まったく取り返しがつかないことに見えたとしても、もう何もかも終わりであるかのように見えたとしても、神にとっては終わりではないのです。

 終わりでないならば、そこには新しい始まりがあります。神様は、新しい始まりを与えることができるお方です。人間の死の先に、新しい始まりを与えることができるのです。この世界の終わりの先に、新しい始まりを与えることができるのです。いや、死を待たずして、今の世の終わりを待たずして、神様は新しい始まりを与えてくださるのです。罪の赦しによって、新しい始まりを与えてくださるのです。

 もう一度、あの空の墓の中に響いた御使いの言葉に耳を傾けましょう。御使いは言いました、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と。そしてさらに彼はこう言ったのです。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(7節)。

 イエス様は、「終わり」である墓の中などにおられません。既に新しく始まった新しい時の中にいるのです。もう先に歩いておられるのです。そして、そこで弟子たちを待っているのです。面白いことに、ここでわざわざ「ペトロに」と言われています。ペトロだって弟子の一人でしょう。でも特別扱いです。イエス様を三度も否み、自分の罪の重さに苛まれ、本当に苦しんで苦しんでいたであろうペトロにこそ、イエス様は神による新しい始まりを与えたかったに違いない。そう思います。だから言われたのです。「さあ、行って、ペトロに告げなさい」と。

 そして、同じことが私たちにも起こりました。「さあ、行って、清弘に告げなさい」。イエス様がある人に命じてくださった。だからその知らせが私のところにも伝えられたのです。「もう終わりだ」なんて決して言う必要ないんだということが、私にも伝えられました。だから今、ここにいるのです。ペトロのところに、自分の名前を入れて読んでください。そのようにして、あなたにもキリストの復活が伝えられました。私たちは、そのようにして、キリストの復活を信じる集まりへと招かれたのです。さあ、共にキリストの復活を祝いましょう。イースター、おめでとうございます。

 
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