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「キリスト賛歌」

2006年4月9日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピの信徒への手紙2章1節~11節

心を合わせ、思いを一つに

 今日はパウロがフィリピの教会に宛てた手紙を共にお読みいたしました。彼は教会の人々に言います。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」(フィリピ2:1‐2)。パウロは今、獄中にいます。もしかしたら、生きて外に出ることはできないかもしれない。そのパウロがひたすら願ったのは、自分が解放されることではありませんでした。フィリピの教会の人々が「心を合わせ、思いを一つ」にすることだったのです。この手紙を読みますと、そんなパウロの思いがひしひしと伝わってまいります。

 しかし、人と人とが「心を合わせる」ということは、何と難しいことでしょうか。表面的な争いや混乱をなくすことは、さほど難しいことではないかも知れません。秩序を保つことだけなら上からの強制力によって成し遂げられます。強いヤツが一人いれば、秩序は保たれます。しかし、「心を合わせ」ることは、支配力や強制力によって成し遂げることはできません。それは平穏であること以上のことです。それをパウロは教会に求めているのです。

 これはある意味で驚くべきことでもあります。教会には様々な人が集まっています。いや正確にはキリストによって集められています。ですからそこに属する人々は、それぞれ生まれ育った環境も違います。生活事情も違います。社会的な思想についても異なる背景を持っています。ある人は奴隷です。ある人は自由人です。ある人はユダヤ人であり、ある人は異邦人です。しかし、そのような教会について、パウロは「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに」することを本気で願っているのです。

 それはなぜでしょうか。「あなたがたに幾らかでもキリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」とパウロは言うのです。これが理由です。ここで、「あるなら」と訳されている言葉は、内容的には「あるのだから」と訳すべき言葉です。パウロは「彼らにはそれらがない」とは思っていないのです。キリストによる励まし、神の愛の慰め、そして聖霊による交わりが与えられているのです。だからパウロは、「思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」と言っているのです。

 キリストによる励まし、神の愛の慰め、聖霊による交わり――ここにいる私たちには与えられていませんか。頌栄教会には与えられていませんか。全く与えられていないなら、これは教会ではありません。もし私たちが「教会」であり、それらが「幾らかでも」与えられているならば、私たちも「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに」することを求めるべきだろうと思います。自分の身を外において「一つになっていない」と批判するのは簡単です。しかし、そんな声をいくらあげても一つになどなりません。大事なことは、自分の身を置いて、共に追い求めることです。

利己心や虚栄心からするのではなく

 では、具体的にどうしたらよいのでしょうか。パウロは言います。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(3‐4節)。

 なんと拍子抜けするぐらい、ありきたりのことしか語られていません。このようなことは、誰でも考えることですし、どこでも言われていることでしょう。皆が利己心や虚栄心によって動いているならば、一つになどなれやしない。当たり前のことです。自分を他の人間よりも優れた者と考える高ぶりが共同体に分裂をもたらすことぐらい、誰だって分かります。この程度の話なら、何も教会の礼拝で語られなくても良いと思いませんか?

 いいえ、そうではないのです。これは教会の礼拝で語られてこそ意味を持つのです。なぜなら、利己心、虚栄心、へりくだった心などは、人間の行動の動機に関わっているからです。そして動機の部分が本当の意味で問題にされ得るのは、人間の前においてではありません。神の御前においてです。

 ただ人間が相手であるだけなら、その部分はいくらでも繕うことができるのです。「このようにしているのは、私のためではなく、あなたのためなのよ」と言うことができる。「これは世の人々のためなのだ」と言うことができる。「神のために、キリストのために」と言うことのできる。しかし、本当にそこにあって人を動かしているのは、利己心や虚栄心かも知れないのです。へりくだっている素振りは見せることができるかも知れません。しかし、本当にそこにあるのは謙遜な自分を誇る傲慢さかも知れないのです。人間の心は偽るものです。自分自身に対してさえも偽っているものです。そこに本当の意味で光が当てられるのは、人が神を礼拝する時です。このパウロの言葉は、今、礼拝において朗読され、礼拝において語られているからこそ意味を持つのです。

 ですから、パウロはここで話を終えません。6節以下に書かれている美しい詩文は、当時の教会で歌われていた讃美歌であろうと言われている部分です。「キリスト賛歌」などと呼ばれます。礼拝において歌われる讃美歌を引用するのです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(6‐11節)。

十字架の死に至るまで

 この歌は日本語で読んでもすぐに分かりますように、二つの部分に分かれます。前半は6節から8節。後半は9節から11節です。ただし、前半部分が少し長くなっています。歌としてのリズムを乱しているのは「それも十字架の死に至るまで」という部分です。これはパウロが引用する際に書き加えた部分であろうと言われます。このように、パウロがこの歌に少し手を入れて引用しているのですが、特に、その前の「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって…」という勧めに関連するのは前半部分であることはすぐに分かります。8節に「へりくだって」という言葉が出てくるからです。ここには確かに、全く利己心に生きられなかった方、へりくだられた方が歌われているのです。

 しかし、へりくだられたイエス様の姿を示して、「この御方を見習いなさい」と言いたいだけならば、「十字架の死に至るまで」という言葉は必要ありません。そもそも、キリストがただ単に謙遜の模範を私たちに示しただけならば、十字架にかけられて殺されるようなことはなかったでしょう。謙遜の模範である人は、通常は尊敬されることはあっても、十字架で処刑されることはないからです。ですから、パウロがあえて「十字架の死に至るまで」と加えたのは、「この御方を見習いなさい」ということ以上のことを考えているからに違いありません。

 こう考えてきますと、8節の「へりくだって」というのは、いわゆる「謙遜」の美徳ということではなさそうです。そもそも「へりくだる」ということにおいて重要なことは、「誰に対してへりくだったのか」ということです。この場合、言うまでもなく「神に対して」ということです。だから「従順でした」という言葉が続くのです。キリストが「従順であった」とは、父なる神の御心に従った、ということです。

 では、その神の御心とは何でしょうか。聖書が一貫して語っている神の御心は人間の救いです。キリストが従った神の御心とは、人間を救おうとしておられる神の御心に他なりません。それは神に背き、神から離れ、羊飼いを失い荒れ野を彷徨っている羊のような有様の私たち人間を救いたいと願っている神の御心です。親元を飛び出してボロボロなってしまっている放蕩息子のような有様の私たち人間を救いたいと願っている神の御心です。神に背いた罪人を神との交わりへと回復されるために、神は罪なき御子に全て人の罪を背負わせ、罪そのものを断罪することを望まれたのです。それが神の御心です。そして、その御心に従順に従ったのが、罪なき御子、イエス・キリストだったのです。

 要するに、この歌にうたわれているのは、模範とすべき謙遜な姿などではないのです。救い主であるキリストの姿なのです。キリストが神と等しい者であることに固執しようとは思わず、栄光を捨てて人となられ、徹底的に低くなられ、十字架の死に至ったのは、私たちを救うためだったのです。腹の底にある利己心によって動き回り、虚栄心を満たすために事を図り、大義名分によって高ぶりを覆い隠している、罪深い私たちを救うためだったのです。人を貶めて満足し、自分のことばかりを追い求めている、まことに救い難い私たちを救うためだったのです。そのような私たちを赦し、生かすために、キリストは神の栄光を捨てて十字架の死に至ったのです。あのキリストの御姿は、この私のため、そしてあなたのためだったのです。

 私たちを愛し給う神の御心。その御心に従い、私たちを愛して十字架の死に至るまで従順であられた御子、イエス・キリスト。その御業のゆえに、今、神に向かって顔を上げ、神との交わりの中に生かされ、神の御前にあって共に礼拝している私たち。そのような私たちに、そのような私たちであるからこそ、この勧めの言葉は語られているのです。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と。

 このことが本当に、主の御前で語られているなら、そして、そのような言葉として聞かれているなら、私たちは何と応えますか。一切の取り繕いが無意味となる主の御前において、私たちの語り得る言葉は、ただ「主よ、罪深い私たちを憐れんでください」ということだけではありませんか。そして、それで良いのだと思います。

 「主よ、罪深い私たちを憐れんでください」――ここにいる私たちが、本当に腹の底からそう祈れたら、そしてそう祈り続けることができたなら、私たちは変わることができる。この教会は変わることができる。私はそう信じます。そこで本当の意味で私たちの利己心、虚栄心が崩れ始めるのです。だれも「わたしはへりくだらなければ」と自分に言い聞かせる必要はなくなるのです。そして、その時、私たちは「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにする」ことへと向かう道を歩み始めているはずです。

 
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