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「自分の十字架を負う」

2006年3月12日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書8章31節~38節

 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8:34)。良く知られたキリストの言葉です。しかし、私たちはその前に「それから群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた」と書かれていることに注意しなくてはなりません。その直前には、ペトロがイエス様から叱られたことが書かれています。ペトロはいわば弟子たちの代表です。その代表が叱られて、今まで「わたしは弟子だ」と思っていた者たちが、もう一度他の群衆と同じところに立たされ、招きの言葉を聞いている。それがこの場面です。

 私は牧師としての按手を受けて今年で14年になります。洗礼を受けた時から29年の歳月が過ぎようとしています。それは長い年月にも思えますが、この教会においては大したことはありません。この会衆の中には私が生まれる前からキリスト者であった人が沢山おられることでしょう。しかし、そのような信仰歴何十年という人も、今日初めて教会に来られた方も、同じところに立って同じ御言葉を聞いています。主の日の礼拝とはそういうところです。今日の聖書箇所は特にそのことを思わされます。イエス様は、今日初めて教会に来た人にも、キリスト者となって何十年経つ人にも、同じようにこう言われるのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8:34)。

わたしの後に従いたい者は

 主は「わたしの後に従いたい者は」と言われます。言い換えるならば、「そもそもあなたはわたしの後に従いたいと思っているか」という問いかけでもあります。ここで重要なのは「わたしの後に」という言葉です。なぜ重要かと申しますと、その直前にペトロが叱られるという一件があるからです。まずその出来事を見ておきましょう。

 イエス様はこう言ってペトロを叱りました。「サタン、引き下がれ」。これを単にペトロの背後にいるサタンに言ったと考えてはなりません。聖書ははっきりと「ペトロを叱って言われた」と言っているわけですから。ここで問題となっているのはペトロという人間のあり方そのものなのです。ここで「引き下がれ」と言われていますが、これは直訳すれば「わたしの後ろに退け」という言葉です。変な日本語ですが、要するに、「どこかに行ってしまえ」と言っているではなくて、「わたしの後ろに行け」と言っているのです。ということは、ペトロはイエス様の後ろではなく前にいたということです。イエス様の前に立ちはだかることによって、もはやイエスの弟子ではなくなっていたのです。サタンと同化していたのです。ペトロそのものが、イエス様の邪魔をする者となっていたのです。

 ペトロがイエス様の後ろではなくて前にいたとは、具体的にはどういうことでしょうか。その姿は次のように描かれています。「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」。これがイエス様の後ろではなくて前にいるということです。ではなぜペトロはイエス様をいさめたりしたのでしょう。それはその前に書かれているように、イエス様が「自分は殺される」などと言い出したからです。だから「そんなことを言うものではありません」とイエス様をいさめたのです。

 この辺の事情をもう少し細かく見ておきましょう。この章の始めには、四千人の人々にイエス様がパンを与えるという奇跡物語が出ています。6章にも似たような出来事が書かれていますが、そこでは男だけ数えても五千人であったと伝えられています。どのようにしてパンを与えることができたのかはさておき、このような記録は、イエス様と弟子たちを取り巻く人の群れがいかに巨大化していたかを物語っています。すなわちイエス様の宣教活動、神の国の運動は急速に拡大していたのです。

 そのように宣教の働きが拡大していく時に、群衆の意識を把握することは極めて重要な課題となります。事実、弟子たちは群衆の意識を正確に捉えておりました。イエス様が「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と問われた時、彼らはすぐに答えることができたのです。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」(8:28)。これが現時点での群衆の意識ですよ、と。するとイエス様は弟子たちに問われました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。ペトロが代表して答えました。「あなたはメシアです」。他の弟子たちの答えも同じであったに違いありません。ペトロの答えには、はっきりとした自負が感じられます。私たちはあの群衆とは違います、という自負です。つまり弟子たちにとっては、群衆はいまだ知るべきことを知らない連中なのであって、これから教化されなくてはならないのです。そのようにして神の国の運動は拡大していかなくてはならないのです。

 弟子たちは、そのための労苦ならば、いくらでも引き受けるつもりでいたに違いありません。実際、イエス様と共に旅をする宣教活動には、多くの苦労が伴っていたと思います。押し寄せてくる群衆に対応するだけでも大変なのですから。その労苦は人々の救いのための労苦でした。もちろん、そこに弟子たち自身の上昇志向があったことは否めません。いつでも「誰が一番偉いか」と言い争っていた彼らですから。しかし、基本的には、その労苦というものは、自分のためと言うよりは、メシアの王国が実現し、人々が解放されるためだったのです。人々の救いのための労苦だったのです。そのための労苦ならば、いくらでも引き受けるつもりでいたのです。

 だからイエス様の言葉は、ペトロにとってまことに理解し難いものだったのです。せっかくペトロも弟子たちも「あなたは、メシアだ」と言っているのに、当のイエス様は御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められたのです。いやそれどころではありません。メシアであるはずのイエス様が、よりによって必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される、と言い出したのです。要するに、イエス様と弟子たちが苦労して行っていることは全て無に帰する、ということです。どんなに運動が拡大し、多くの人々がイエス様について行ったとしても、そのすべてが無に帰してしまうのです。弟子たちが共にした労苦も何もかも、すべて無に帰してしまうのです。イエス様が死んでしまうとはそういうことでしょう。

 「冗談じゃない!」ペトロは心底そう思ったに違いありません。我利我利亡者が私利私欲のために労苦して積み上げたものが、あっと言う間に消え去って無に帰したとしても、それはそれで納得できるでしょう。しかし、これが他者のための労苦であったらどうでしょう。人々の救いのための労苦であったらどうでしょう。愛の労苦であったらどうでしょう。それが無に帰するなんて、冗談じゃない!誰だってそう思うのではありませんか。純粋に他人のための労苦、無私なる労苦は報われるべきだと思うではありませんか。実を結ぶべきだと思うではありませんか。こんなことを聞いたら、もう黙ってはいられない。ペトロはイエス様の後ろになどいておれなかったのです。だから前に立ちはだかったのです。イエス様をいさめたのです。ペトロの気持ちは痛いほど分かるではありませんか。

十字架を背負って

 しかし、そんなペトロをイエス様は叱りつけたのです。「サタン。引き下がれ」と。何が問題だったのでしょう。イエス様は続けてこう言われました。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と。

 そうなのです。ペトロは神のことを思っていなかった。人々の救いのために働くことも、愛のために労苦することも、それは何も神のことを思わなくても、人間のことだけを思っていてもできるのです。ペトロや他の弟子たちがしてきたことは、神のことを思わず、人間のことだけを思っていてもできるのです。四千人の人々、五千人の人々の間を駆けめぐりながら、パンを渡していくのは重労働でしょう。しかし、それすらも彼らは喜びをもってやっていたに違いありません。そのことは、神のことを思わず、人間のことだけを思っていてもできるのです。実際、人のために尽くしたヒューマニストはいくらでもいるのですから。

 しかし、イエス様の後についていくことは、神のことを思わなければできないのです。人間のことだけを考えていたら、イエス様の前に立ちはだかることになるのです。――なぜだと思いますか。

 もう一度、イエス様の言葉を聞いて見ましょう。31節をご覧ください。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」(8:31)。先ほどは触れませんでしたが、実は決定的に重要なのは、「三日の後に復活することになっている」というこの言葉なのです。実は、この訳は厳密には正しくありません。ここは「三日目に復活させられることになっている」と書かれているのです。受け身です。自分で復活するのではありません。復活は父なる神によるのです。イエス様が死んでしまってすべてが無に帰した時、イエス様は父なる神によって復活させられるのです。その時に無に帰したかのように見えたイエス様の御業のすべてが、神によって生きるのです。十字架の死でさえも生きるのです。単に「苦労が実を結ぶ」のではないのです。神が死んだものを、無に帰したものを生かし給うのです。御子は、御父が生かし給うことに全く信頼して、また信頼するゆえにこそ、十字架への道を歩まれたのです。

 そのようなイエス様の後に従っていくことを、イエス様は次のように表現しました。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。百キロのパンを背負って人々に配るなら、その労苦は人々の感謝と笑顔によって報われることでしょう。しかし、十字架刑に処せられる者が百キロの十字架を一生懸命背負ったとしても、それで誰から感謝されるわけでもありません。十字架を背負うという労苦は、報いとは縁のない労苦です。充実感や達成感などとは縁のない労苦です。そのような十字架を背負って、わたしに従いなさいと主は言われるのです。それは神のことを思わず、人間のことだけを思っていてはできません。人間から来る報い、人間の内から生じる喜びや充実感や達成感だけを思っていてはできません。神を思い、イエス様の復活、そして私たち自身の復活を思わずしてはできないのです。神が生かし給うことを信じなくてはできないのです。

 イエス様は、人間のことではなく、神のことを思って、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従え、と私たちを招いておられるのです。厳しい言葉ですか。いいえ、そうではありません。これは福音なのです。なぜでしょうか。

 それは少しでも私たちが現実的になれば分かります。愛の労苦はいつでも報われますか。他者のための労苦は、その労苦自体がいつも実を結びますか。そうではないでしょう。愛に対して憎しみしか帰って来ない。一生懸命に尽くしても全く報われない。誰かのために苦労に苦労を重ねても、後には何にも残らない。その度に、私たちはしばしばつぶやくのです。「ああ、馬鹿を見た。ああ、損をした。もう二度とこんなことするものか」と。そうです、いつだって神のことを思わず、人間のことしか思わないで、そうやってつぶやいているのです。

 しかし、そのような私たちにイエス様は、――先に復活させられた御方は――こう言われるのです。「大丈夫。あなたはあなたの十字架を背負ってついて来い。報われない労苦をいっぱい背負ってついて来い。安心してわたしの後について来い」と。そうです。もう嘆かなくてよいのです。馬鹿を見た、などと言ってつぶやいていないでよいのです。イエス様の後に従っていったらよいのです。その道は復活へと続いているからです。神のことを思う時、その道筋が見えてくるのです。

 さて、最初に申しましたように、イエス様はこれを「群衆を弟子たちと共に呼び寄せて」言われました。弟子たちは、群衆と同じ地平に立ってこの御言葉を聞かなくてはなりませんでした。ここにいる私たちも同じです。信仰歴の何十年という人も同じです。いやむしろ、「自分たちは弟子だ」と思っていた彼らが一番分かっていなかったように、牧師や信仰歴が長いキリスト者ほど、十字架を背負って従うということが実際には分からなくなっているのかも知れません。今年も受難節が巡ってきました。キリストの御受難を覚えるこの季節、初心に返って、私たちがキリストに従うとはいかなることかを改めて考えたいと思います。

 
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