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「ノアの箱船」

2006年3月5日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記9章8節~17節

 今日の聖書箇所は、有名な「ノアの箱舟」の物語の最後の部分です。これが受難節の第一主日に私たちに与えられた御言葉です。今日はこの洪水の物語において特に四つの点に目を向け、一つ一つの事柄を丁寧に見ていきながら、主の御心を尋ね求めたいと思います。

天地創造の物語との関係

 その第一は、洪水物語と天地創造物語との関係です。少し遡って1節以下をご覧ください。「神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる』」(9:1‐2)。

 この言葉は私たちに創世記1章の言葉を思い起こさせます。天地創造物語の中で、人間の創造についてこう語られておりました。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』(1:27‐28)。このように、今日の聖書箇所は、天地創造物語と深い関係にあることが分かります。

 ところで、「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」とありましたが、この「支配する」という言葉は、今日あまり良いイメージと結びつかないようです。世の中に悪い支配者があまりにも多いためでしょう。しかし、この「支配する」という言葉自体に、否定的な意味が含まれているわけではありません。ここで語られているのは創造主の御心に従って被造物世界を正しく管理するということです。人間はそのような光栄ある務めを託されたのです。

 ところが、6章に至りますと、この世界の管理を任された人間が、次のように描写されているのを見ることになります。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(6:5‐6)。「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた」(6:11‐12)。

 このような言葉を読みますと、次のような疑問が心の内に湧き上がってくるかもしれません。「人間はどうして堕落するようなことになったのか。神は堕落しないように人間を造ることはできなかったのか。どうして神は後悔するような事態を未然に防ぎ得なかったのか」と。しかし、そのような疑問について、どうも聖書はあまり関心を持っていないようです。聖書の関心は、《どうしてそうなったのか》ということよりも、《現実はどうであるか》ということに向かっているのです。確かにこの地上には人の悪が満ちており、人間は常に悪いことばかりを心に思い計っているという現実があるのです。地が神の前に堕落しているという現実があるのです。どうしてそうなったかはさておき、聖書が描き出しているこの現実は否定しようがないでしょう。

 そのような人間と被造物世界全体を、神は滅ぼすと宣言されたのです。次のように書かれています。「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」(6:13)。そして、この言葉を実現するために、神は洪水を起こされたのでした。私たちが良く知っている、この物語の展開です。

混沌への逆行としての洪水

 そこで第二に考えたいと思いますのは、そもそも「なぜ『洪水』なのか」ということです。なぜ火で焼き滅ぼしてはいけないのでしょう。なぜ単に消滅させるだけではいけないのでしょうか。なぜ他の方法であってはいけないのでしょうか。

 そこで注意深く読みますと、洪水について次のように書かれていることに気づきます。7章11節を御覧ください。「ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた」(7:11)。天の窓が開かれて、上から水が落ちてくるだけではありません。下からも水が溢れてくるのです。あえてそのような書き方がされているのです。なぜでしょう。

 そこでもう一度、天地創造の箇所を見てみたいと思います。1章2節を御覧ください。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(1:2)。これが秩序なき混沌である原初の状態です。この混沌の中に、神が秩序を造り出していきます。神は「光あれ」と言われました。そのことによって最初に造り出された秩序は「昼と夜」です(5節)。そして、次に造り出された秩序は次のように表現されています。「神は言われた。『水の中に大空あれ。水と水を分けよ。』神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった」(1:6‐7)。そして、さらに下の側の水について次のような秩序が生み出されます。「神は言われた。『天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。』そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた」(1:9‐10)。

 さて、ここまで読んでお気づきになられたと思います。ノアの箱舟の物語における洪水では、せっかく上と下に分けられた水が再び一つになってしまうのです。また、水と分けられて造られた乾いた地が、再び水に覆われてしまうのです。要するにこの洪水は、《混沌の状態への逆戻り》として描かれているのです。

 創世記1章の天地創造物語は、単なる世界の起源の物語ではありません。そうではなくて、この物語は「この世界に秩序を与え、意味を与えているのは神である」というメッセージを伝えているのです。この世界に秩序を与え、意味を与えているのが神であるならば、どうなりますか。それはすなわち「神を離れたら再び初めの混沌に戻らざるを得ないのだ」ということを意味するのです。そして、そのことを教えているのが、このノアの洪水の物語なのです。

 もちろん、ノアの洪水の物語で直接的に問題とされているのは人間の罪であり悪です。しかし、私たちも良く知る通り、神に背いた人間の悪の影響は、人間社会の中だけに留まることはありません。それは被造物世界全体に混沌をもたらすのであって、世界全体が滅びに巻き込まれるという事態を引き起こすのです。そして本来ならば、混沌に戻った世界の中で、すべて肉なる者は滅びているはずなのだ、と聖書は私たちに告げているのです。神はこう言われました。「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている」(6:13)と。ですから「すべて肉なるもの」が滅びるはずだったのです。

神の憐れみによる残りの者たち

 しかし、ここで目を留めたい第三の点があります。神の言葉と行動の間の奇妙な矛盾です。神は「《すべて》肉なる者を終わらせる」と言われたにもかかわらず、実際には《すべて》を滅ぼそうとはなさらないのです。そもそも「すべて肉なるものを終わらせる時が来ている」と、当の「肉なるもの」の一人であるノアに話していること自体、おかしいではありませんか。そして、そのノアが残されるのです。いや、ノアだけならまだ分かります。実際には、ノアだけでなく、その家族も残されるのです。さらには「すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ」(6:19)も残されるのです。

 このことは私たちに何を伝えているのでしょう。神の憐れみです。この洪水の物語は、結論から言いますならば、神の憐れみの物語なのです。少なくとも、これを大切に伝えたイスラエルの民にとって、これは単なる過去の話ではなかったのです。特に、国家の滅亡と捕囚を経験した人々にとってはそうだったのです。なぜか残されたノアとその家族と動物たち――そこに彼らは自分の姿を見たのです。これは神の憐れみの物語なのです。

 私たちが本当の意味でこの物語を読むことができるかどうかも、私たちが自分の姿をここに見出すことができるか否かにかかっていると言えるでしょう。私たちが神の裁きにによって混沌の中に滅びることなく、今なお大地の上に残されている。それは当たり前のことではないのです。私たちが立っているこの大地は、まさに憐れみによって与えられている大地です。その上に営まれている私たちの生活は、まさに神の憐れみによって与えられている生活なのです。

神によって立てられた永遠の契約

 そして、本日の聖書箇所に戻り、第四の点に目を留めましょう。それは今日の箇所においてくどいほどに繰り返されている「契約を立てる」という言葉です。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」(9:9‐11)。

 私たちは通常「契約を立てる」という言い方はいたしません。「契約を結ぶ」と言います。聖書には「契約を結ぶ」と訳される言葉が別にあります。日本語では契約を「結ぶ」ですが、ヘブライ語では契約を「切る」と表現します。実際の行為としては、契約を結ぶ時、当事者たちは二つに切り裂かれた動物の間を通るということをいたします。そうすることによって、契約を破ることは死を意味することを承認するのです。こうして契約が結ばれます。そのように、契約を「切る」と表現する時には、両者が関わるのであり、両者の真実が問われるのです。

 ところが、ここでは神が「契約を立てる」と言っているのです。立てるのは神です。立てることに関わっているのは神だけです。その意味では一方的に結ばれる関係です。先にも見ましたように、裁きの対象となっていたのは「すべて肉なるもの」でありました。ノアもその家族も、その「すべて肉なるもの」の内にありました。そして、「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている」と言われていたように、本来、すべて肉なるものと神との関係は終わっているのです。ですから、本来被造物はすべて滅びるしかなかったのです。ノアとその家族、残された動物たちも同じです。にもかかわらず、ただ一方的な神の憐れみによって残されたのです。そして、神の側から、まったく一方的に、神とすべて肉なるものとの間に、契約が立てられたのだというのです。

 そして、その契約のしるしは「虹」であると語られていることも重要です。虹は代々にわたって現れます。そのように神は代々にわたってこの契約に心を留めてくださるのです。「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」(9:16)と主は言われるのです。

 私たちはいったいこの世界をどのように見ているのでしょう。そこに生きる私たち自身をどのように見ているのでしょう。この世界の中にある私たちの人生をどう見ているのでしょう。この世界もそこに生きるすべてのものも、ただ滅びに向かっているだけの意味のない存在なのでしょうか。いいえ、そうではないと聖書は教えているのです。この世界は、神によって立てられた永遠の契約の対象なのです。この世界はそのような世界なのです。すべて肉なるものはそのような存在なのです。そのゆえに神は、すべて肉なるもののために壮大な救いの計画を立てられ、そのひとり子をこの世界に遣わして肉なるものの一人とすることさえ厭われなかったのです。

 「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」(8:21)と主は言われました。確かに主の言われるとおりです。この被造物世界は今もなお、そのような人間の罪のゆえに、苦しみと嘆きの声が絶えることのない世界です。確かにそのような世界の中に私たちは生きています。しかし、そのような世界にも、繰り返し虹が立つのです。これは繰り返し虹の立つ世界です。すなわち、今もなお神の愛と憐れみの対象とされている世界です。そしてこの大地は罪の贖いの十字架が立てられた大地であることを私たちは知っています。そのような大地の上に私たちは生かされているのです。神の憐れみの中に生かされているのです。そして、神の憐れみによって語りかけられ、神の憐れみによって呼びかけられているのです。受難節において、私たちがまず目を向けなくてはならないのは、この神の憐れみです。

 
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