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「罪を赦す権威」

2006年2月19日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書2章1節~12節

 イエス様が再びカファルナウムに戻って来られました。するとそのことを聞きつけて大勢の人々が集まってきました。人々が集まった家については何の説明もありませんが、恐らく1章に出て来たシモンとアンデレの家であろうと思われます。前回の時も「町中の人が、戸口に集まった」(1:33)と書かれていましたが、今回も「大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどに」なりました。

 ここに記されているのは、そこで起こった出来事です。内容的には癒しの奇跡の話です。しかし、ここには私たちが注目すべきことが少なくとも二つあります。一つはイエス様のもとに病人を連れて来た人々が他人の家を壊したという過激な行動です。このような話は他には見られません。もう一つは、連れられてきた病人に対してなされた「あなたの罪は赦される」という宣言です。もちろん罪の赦しについてイエス様が口にされたのはここが初めてではないでしょうし、さらに言うならばイエス様以前に、洗礼者ヨハネが「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」ていたのです。しかし、イエス様の言葉として罪の赦しの宣言が記録されているのは、ここが初めてです。そして、その宣言を巡って論争が起こるので、このエピソードは少々長くなっております。イエス様と律法学者の論争が、ちょうど奇跡の物語に挟まれる形で記されているのです。

 ということで、今日はこの二つの点が私たちに何を意味するのかをご一緒に考えたいと思いますが、順番としては先に「罪の赦しの宣言」の方に目を向けることにしましょう。

あなたの罪は赦される

 イエス様は連れて来られた中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と語られました。ここでイエス様が言っておられるのは、「いつか後の日に赦される時が来るでしょう」ということではありません。「今、ここにおいて、あなたの罪は赦されるのだ」ということです。ですから、この言葉を「あなたの罪は赦された」と完了形にしている写本もあります。要するに、イエス様は中風の男に全き罪の赦しを宣言されたのです。

 しかし、この「あなたの罪は赦される」という赦しの宣言は、この箇所を読む人にとって、まったく文脈無視の唐突な言葉に思えるかもしれません。というのも、キリストのことろに連れて来られたのは病人だからです。彼は中風です。床に寝かせたまま連れて来たというのですから、全く動けなかったのでしょう。この動けない人、また彼を連れてきた人々が、何よりも求めていたのは、この病気が癒されることだったに違いありません。彼らがこの中風の人を連れてきたのは、数日前にカファルナウムで起こったことを耳にしたからでしょう。あの時もイエス様は「いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやされたのです(1:34)。

 しかし、キリストはここですぐに彼を癒されませんでした。そもそもイエス様が罪の赦しの宣言の後に彼を癒すつもりであったのかどうかさえ明らかではないのです。後に見ますように、この人の癒しは、単にこの人自身のためではなかったからです。

 人は病気であれば病気が癒されることが何よりも必要であると考えます。それは当然のことでしょう。悩みがあれば悩みが解決することを願います。欠乏が満たされることを望みます。苦しみや悲しみは取り除かれることを求めます。私たちは常々そのことが何よりも重要であると考えています。ですから、大勢の病人が癒されるためにキリストのもとにやってきたのです。そして、主は確かに彼らを癒されたのです。福音書の物語が伝えるとおりです。

 しかし、この福音書はここに至って、キリストがその命をかけて語ろうとしていたことがいったい何であるのか、与えようとしていたのがいったい何であるのかを明らかにするのです。言い換えるならば、人間が救いのために本当に必要としているのが何であるかを明らかにしているのです。人はまず神によって赦されねばならない、ということです。人間は赦しを必要としているのです。罪の赦しが宣言されねばならないのです。そのようにして、神との正しい関係と交わりの中に回復されることが必要なのです。ですから、続く物語において、主は御自分が何のために来られたかを次のように語られるのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(17節)。

 しかし、このイエス様の言葉は、物議をかもすこととなりました。そこに居合わせた律法学者たちにとって、その言葉は神に対する冒涜でしかなかったからです。彼らは心の中でこうつぶやきました。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(7節)。律法学者たちの考えは基本的に間違ってはおりません。そもそも、罪の赦しは権威と結びついて初めて意味を持つのです。罪に定める権威、断罪できる権威があってこそ、初めて罪の赦しも言い渡すことができるのです。そして、最終的に人間を正しく裁いて罪に定めることができるのは神だけです。ですから、罪の赦しを最終的に言い渡す権威を持っているのも神おひとりのはずなのです。それゆえに、律法学者の目には、イエス様が罪の赦しを宣言したこと自体、自らを神と等しいとすることであって、神への冒涜としか映らなかったのです。

 もちろん、イエス様御自身、自分の言葉がどのように受け止められるかをご存じでした。それゆえに、さらに主はこう言われたのです。「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」(9‐10節)。イエス様も権威を問題にしています。律法学者たちがつまずいた、「罪を赦す権威」を問題にしているのです。主は御自分が、この地上で「罪を赦す権威」を持っていることをあくまでも主張しておられるのです。

 「罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」という部分は、「罪を赦す権威を持っていることをあなたがたが知るようになるために…」という言葉です。途中で文が切れています。この「知るようになるために…」に言葉を続ける代わりに、主は突然中風の人の方に向き直ってこう命令したのです。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(11節)。するとそこで癒しの奇跡が起こりました。その人は起き上がって、家に帰って行ったのです。

 ここに見ますように、この中風の癒しは、単に病んでいたその人自身のためではありませんでした。それは、そこにいた人々が「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知るようになるため」だったのです。ここに、キリストの行った癒しの業の意味が表現されていると言えるでしょう。

 イエス様の宣教活動および後の時代の教会の宣教活動において、病気の奇跡的な癒しが行われることは、決して珍しいことではありませんでした。それは現代においても、決して希有なことではありません。病気の奇跡的な癒しは起こります。しかし、ある人は癒され、ある人は癒されません。人生最後の病気は癒されません。病気の癒しが救いだと思っている人は、最後には救われないことになります。

 そもそも、もし癒しが救いそのものならば、主はそのことに専念されたことでしょう。しかし、そうではありませんでした。福音書の後半、病気の癒しの奇跡はほとんど出てきません。エルサレム入城以後は、全く見られなくなります。ですから、私たちは、キリストが行った癒しの奇跡の中に、その人の苦しみが取り除かれたこと以上のことを見なくてはなりません。それは私たちに与えられたしるしなのです。キリストの権威を指し示すしるしなのです。その権威とは、私たちが立つこの地上の世界において、人間に罪の赦しを宣言する権威なのです。

 この物語はマタイによる福音書にも出ています。実は、マタイによる福音書ですと、もう一言加えられているのです。イエス様はこう言われたのです。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(マタイ9:2)。以前使っていた口語訳聖書ですと、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされた」となります。きっとこの言葉は耳にしたことがおありでしょう。この一年の間に何度か洗礼式がありましたが、洗礼の時に私が引用するイエス様の御言葉です。

 「元気を出しなさい」「しっかりしなさい」と訳されている言葉は、別の箇所では「安心しなさい」とも訳されている言葉です。励ましの言葉というよりは、むしろ「あなたはもう大丈夫だ!」という意味合いです。この人は癒されて動けるようになった、だから「もう大丈夫」なのではありません。この時点で彼はまだ癒されていないのですから。まだ床の上なのです。しかし、主はそのような彼に対して「既にあなたはもう大丈夫だ」と言われるのです。なぜでしょう。罪の赦しが与えられているからです。既に神との交わりの中にあるからです。罪の赦しのあるところ、そこに救いは既にあるからなのです。

その人たちの信仰を見て

 次にもう一つのことを見ておきましょう。中風の人を運んできた四人の男が他人の家の屋根をぶち破って、病人の寝ている床をつり降ろしたという話です。このような非常識な行動がなぜ聖書の中に記されているのでしょうか。

 恐らく第一の理由は、それが非常に印象的な忘れがたい出来事だったからでしょう。屋根に穴が開いて、そこから人間が降りてくるという光景に出くわすことは、一生の間にそうあるものではありません。しかし、それだけの理由ならば、省かれることもあり得るわけです。事実、マタイによる福音書では、この過激な行動の部分は省略されているのです。

 この福音書にわざわざこの過激な行動が記されているのは、単に印象的だったからではないのです。それがよく表れているのは次の言葉です。「イエスはその人たちの信仰を見て」(5節)。この時点で中風の人が求めていたのも、運んだ四人が求めていたのも、ただ病気が癒されることだったのかも知れません。しかし、彼らの姿は、「信仰」というものの本質をよく表している、ということなのです。つまり《イエス様のもとに行きたい!イエス様のもとに連れて行きたい!たとえ家をぶっ壊してでも!》――これが信仰だと言っているのです。

 もちろん「非常識なこと」イコール「信仰的なこと」だと言っているのではありません。目的のために手段を選ばずということを安易に承認してはなりません。しかし、彼らが他人の思惑ばかりを気にしていたら、この物語の展開が全く違っていたであろうし、この中風の人の一生が全く違っていたであろうことも事実です。さらに言うならば、この中風の人が「君たちにそんな苦労をかけられないよ。そこまで世話にはなれないよ」などと言っていたら、この家に来ることすらできなかったでしょう。

 誤解を恐れずに言いますならば、誰かに多少の迷惑をかけたって構わないのです。人々の重荷になったって、苦労をかけたって構わないのです。それがイエス様に近づくためならば。イエス様に近づくことはそれほど重要なことだからです。なぜなら、イエス様のもとには病気の癒し以上のものがあるからです。そこには人間がどうしても聞かなくてはならない言葉があるからなのです。既にそのことについては申しました。それは罪の赦しの言葉です。その御方こそ罪を赦す権威を持っている御方だからです。

 会議などで各地の教会が集まる場に行きますと、食事時にいろいろなことが話題になります。「そちらの教会には若い人は多いですか。うちは若い人が少なくて。」「高校を出ると皆、都会に行ってしまうんですよ」。そんな声を聞くことがあります。確かに地方の教会は高齢者が多く、活気もないように見えるかもしれません。都市部の教会には比較的若い人も多い。活動的でもあり、元気です。それはそれで喜ぶべきことでしょう。

 しかし、本当のことを言えば、若い人が多いか少ないか、活気があるか、活動的であるかそうでないかということは、決定的に重要なことではないのです。教会が生きているか、命に輝いているかは、そんなことで決まるのではないのです。「どうしてもイエス様のもとに行きたい」「どうしてもイエス様のもとにあの人を連れて行きたい」そう思っている人がどれだけいるかなのです。多少迷惑をかけてでも、人の世話になってでも、礼拝に行きたい。御言葉を聞きたい。聖餐を受けたい。行けなかったら、牧師やみんなに来てもらってでも、聖餐を受けたい。そして、そのような人の願いを、多少の犠牲を払ってでも、実現してあげたい。そう思っている人がどれだけいるかなのです。それで教会が本当の意味で生きているかどうかは、それによって決まるのです。この福音書を書いたマルコにとって教会とは、このような中風の人がいるところであり、彼を運んだこのような四人の男がいるところだったのです。

 
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