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「重い皮膚病の癒し」

2006年2月12日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書1章40節~45節

 今週の福音書朗読では、イエス様が「重い皮膚病」を患っている人を癒されたという箇所をお読みしました。このことがいつ為されたのかは特に明らかにされておりません。恐らくマルコはイエス様の宣教活動に起こった典型的な一場面としてこれを記しているのでしょう。今日はこの箇所を通して語られる主のみ言葉に耳を傾けたいと思います。

主は憐れまれた

 初めに40節から42節までをお読みしましょう。「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」(40‐42節)。

 従来の訳では「らい病」と訳されていました。新共同訳の旧い版でもそうなっています。しかし、これは狭い意味でのハンセン病を指す言葉ではなく、かなり広い意味を持っていますので、新共同訳の新しい版では「重い皮膚病」となっています。いずれにせよ、ここで重要なことは、その病気が当時のユダヤ人社会においては「汚れ(けがれ)」として認識されたということです。

重い皮膚病を病む人は、他の人々に近づくことが許されていませんでした。いや、それどころか、人々が誤って触れることがないように、歩く時には「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と叫びながら歩かなくてはなりませんでした。彼は人々の間に住むことは許されず、離れて住まねばなりませんでした。そのように、重い皮膚病を患うということは、ユダヤの社会において、いわば社会的な生命を断たれることを意味したのです。

 しかし、重い皮膚病の人の最も深い苦しみは、肉体的な苦しみや社会的な隔離から来る苦しみではありませんでした。問題は神との関係だったのです。人々は彼を指さして言ったことでしょう。あの家は呪われている。きっと先祖が罪を犯したか、あるいは本人が罪を犯したからに違いない。そして、病気の人自身も、自らをそのように見ざるを得なかったのです。私は神から見捨てられてしまった、と。もっとも、そのようなことを口にする人は今日でもいないことはありません。不幸な出来事に遭遇した時に、「私は神から見捨てられた」と口走る人はいるでしょう。しかし、当時の重い皮膚病の人が神に対して感じていた断絶感は、もっとリアルでありもっと深いものだったのです。

 そのことを念頭に置いて今日の聖書箇所を読みます時に、ここには驚くべきことが書かれていることが分かります。病気が癒されたことではありません。重い皮膚病を患っている人が、イエス様に近づいたということです。それは本来起こり得ないことだったのです。少なくともそう考える二つの理由があります。第一に、それは明らかに《律法に違反すること》だったからです。それは社会的に許されていないことでした。弟子たちや共にいた人々の驚きと怒りに満ちた表情が目に見えるようです。一斉に、非難の眼差しがこの人に向けられたことでしょう。

 しかし、第二の理由はより大きいものです。既にこの福音書に見てきましたように、イエス様が神の権威によって語り、神の権威によって奇跡を行っていたということです。イエス・キリストという御方において、神の力がリアルに現れていたのです。「私は神に見捨てられている。私は神に呪われている」という意識を持っている人にとって、神の力がリアルに現れるということは、何を意味しますか。本来なら極めて恐ろしいことではありませんか。しかし、本来なら恐ろしいはずの神の権威に満ちた御方に、この重い皮膚病の人はあえて近づいて行ったのです。なぜでしょうか。

 その答えは至って単純です。イエス様が人々を「癒して」いたからです。しかし、この人がただイエス様の「癒しの奇跡」を見聞きしていただけならば、律法を犯してまであえて近づくことはなかったでしょう。他の人は癒されたとしても、自分は裁かれるかも知れないからです。ですから、明らかに彼は単に癒しの奇跡を見ていただけではありません。イエス様の宣教の言葉を聞いていたのです。「悔い改めて福音を信じなさい」という呼びかけを聞いていたのです。罪の赦しと神の招きの言葉を聞いていたのです。そして、イエス様の御業の中に、神の赦しと憐れみを見ていたのです。言い換えるならば、彼は《罪人に差し出され伸ばされる神の御手》を見ていたのです。

 ですから、彼は「御心ならば、(あなたは)わたしを清くすることがおできになります」と言ったのです。清められること、そして神に近づくことができること。彼はそれを願い、「御心ならば」と言って、イエス様に現れている神の憐れみに自らを委ねたのです。

 そして、イエス様は、汚れた者として、律法を犯した者として、人々から断罪されていたこの人に、また自分自身からも断罪されてきたこの人に、その御手を伸ばされたのです。その伸ばされた御手をもって、誰も触れることのなかったこの人に、イエス様は触れられたのです。イエス様は、この人が近づいてくるまでに、どれほどの勇気を必要としたか、どれだけの覚悟を必要としたかを思い見られたに違いありません。そして、主に近づいたこの時にまでに至る、彼の長く悲しい道のり、人々から疎外され続けた長く悲しい日々を思われたに違いありません。主はそのような人生の歴史を持つ一人の尊い人間をこの人の中に御覧になられ、そして触れられたのです。

 聖書はそのイエス様の姿を、「深く憐れんで」と表現しています。「深く憐れんで」という言葉は、もともと人間の内蔵を表す言葉から派生したものです。内蔵が揺さぶられるような深い感情を表しているのです。この誰からも顧みられない人、むしろその存在さえも疎まれるような人、邪魔なだけで何の価値もないと思われていたこの人、また自らに対してもそう思っていたこの人に対して、内蔵が揺さぶられるような深い思いを抱く方が、少なくともこの世に一人はおられたのです。そのようにこの物語は伝えているのです。イエス様とは、実にそのような御方でありました。

主は厳しく注意された

 さて、主がその人に触れられ、「よろしい。清くなれ」と言われますと、たちまち重い皮膚病は癒されました。彼は長年背負い続けてきた大きな苦しみから解放されました。もしこのことをただ単に喜ばしい出来事として伝えるだけであるならば、この話はこれで終わりにしてよいはずです。しかし、マルコは話をこれで終わりにしませんでした。その先を続けるのです。私たちは、イエス様に現れた神の恵みを見てきました。しかし、私たちはさらにもう一つのことを見ておかなくてはならないようです。

 ここで突然、イエス様の態度が変わります。43節以下をご覧下さい。「イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。『だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい』」(43‐44節)。

 「立ち去らせる」という言葉は、むしろ「追い出す」と訳せる言葉です。「厳しく注意する」という言葉も、これは「怒鳴りつける」とも訳せる強い言葉です。ですから、これらの言葉は一貫して、この癒された人に対するイエス様の非常に厳しい態度を表しているのです。

 その厳しさをもって、イエス様は「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と言われました。その後に続く「行って祭司に体を見せ、云々」という部分は、癒されたこの人が社会に復帰するための当時の法的な手続きです。ですからこの部分はよく分かります。問題はなぜその前に「だれにも、何も話さないように」と言われたのか、ということです。しかも、なぜそれほど厳しくこのことを命じられたのか、ということです。

 「何も話さないように」とは、もちろん、「誰がどのようにして癒したのかを話すな」ということです。この奇跡については話すな、ということです。ただ結果だけ示して社会復帰すれば良いと言っているのです。おかしいと思いませんか?本当は「何が起こったのか」という結果よりも、「誰によってこのことが起こったのか」ということの方が、はるかに重要なはずではありませんか。癒された患部を示すことよりも、癒してくださったイエス様を示して、その恵みを証しすべきではありませんか。少なくとも、現代のキリスト者ならそう言うではありませんか。「キリストを証しすべきだ」と。しかし、イエス様はそのことを禁じられたのです。結果だけ示して、社会に戻れば良いと言われたのです。

 ここで彼がイエス様のもとに来た時のことを今一度思い起こさなくてはなりません。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言ってイエス様の前にひざまずいた時、この人の抱えていた本当の問題は、この人と神との関係であったのです。そして、彼はイエス様を通して、確かに神の憐れみに触れたのです。この人にとって、イエス様がしてくださったことは、確かに病気の癒し以上のことだったのです。

 しかし、病気そのものではなくて、神との関係が問題であるならば、この人はまだ本当に見るべきものを見てはいないのです。知るべきことを知ってはいないのです。なぜ神の力が彼に臨んだ時、それが滅びをもたらすのではなく、癒しをもたらしたのか。なぜこの人に対して、神の裁きの御手ではなく、憐れみの御手が伸ばされたのか。その理由を彼はまだ知らないのです。

 その理由とは何ですか。この福音書の最後になって、初めてそのことが明らかになるのです。その御方は、罪人を招かれ、悔い改めを呼びかけられ、罪の赦しを語られ、神の恵み深い御手を現されただけでなかった。実は、この御方御自身が罪の贖いの犠牲そのものであられたということが、最後になって明らかにされるのです。すべてはキリストの十字架によるのです。すべてはキリストの十字架のゆえであることを、彼はまだ見ていないのです。だから語ってはならないのです。まだだれにも、何も話してはならないのです。十字架抜きのキリストを語ってはならないのです。どんなに彼の体験した癒しが有り難くとも、それによってどんなに人生が変えられたとしても、十字架抜きのキリストを語ってはならないのです。

 イエス様は、それゆえにあえて厳しく命じられたのです。厳しく言われなければ分からないからです。いや、この人は残念ながら、厳しく言われても分かりませんでした。何と書かれていますか。45節を御覧ください。「しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た」(45節)。

 心に喜びが溢れている。自分が経験したことを一人でも多くの人に伝えたいと思う。それは悪いことではないでしょう。しかし、自分が語りたいことを語り、伝えたいことを伝えることを「伝道」とは言いません。使命感で動いているのと、本当に使命を与えられて動いているのとは天と地ほどの開きがあります。いつでも重要なことは、イエス様が何を望んでおられるのか、ということなのです。主の御心を尋ねようとしない熱心が、しばしば主のお働きの妨げとなるものです。この一人の“熱心な”男のしたことで、イエス様はもはや公然と町に入ることができなくなりました。このようなことは今でも起こります。

 恵みに対する応答は《感謝》です。信仰生活とは、恵みに対する感謝の生活です。そして、感謝の表現の仕方は、自分の気持ばかりが先走った独りよがりのものであってはならないのです。自己流の感謝の生活、自己流の信仰生活であってはならないのです。私たちはまず主の御心を尋ね求めなくてはなりません。主が何を望んでおられるかを尋ね求めなくてはなりません。まず御言葉に耳を傾けなくてはなりません。そのことを抜きにした信仰生活、恵みに対する感謝の生活などあり得ないからです。

 
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