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「汚れた霊を追い出すイエス」

2006年1月29日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書1章21節~28節

律法学者のようにではなく

 今日の福音書朗読は、ガリラヤ湖北岸に位置しますカファルナウムという町での出来事を伝えています。それはある安息日、皆が集まっている会堂で起こりました。

 その日、人々が集まった礼拝の場は、普段の安息日とは全く違った空気に包まれていました。皆があっけにとられた表情で、語られる言葉に聞き入っています。彼らの前に立っているラビは、明らかただ者ではありませんでした。人々はこれまで全く聞いたことのないような言葉を耳にしていました。人々が驚いていたのは、そのナザレのイエスという御方が、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから」(22節)でした。

 「律法学者のようにではなく」とは、どういうことでしょうか。律法学者の主要な職務は、律法を解釈することにありました。すなわち、聖書の言葉を解釈し、その時代の状況に適用することにありました。その解釈をもって、人々に律法の教育をほどこし、あるいは法廷における判決に関わったのです。そこで重要なことは、律法学者と呼ばれる人たちは、あくまでも解釈者以上の者ではなかった、ということです。最終的な権威は、聖書の言葉そのものが持っていました。それは律法学者にとっても、その解釈を聞く者にとっても自明のことでした。

 ところが、イエス様は自らが「権威ある者として」語られたと言うのです。律法学者とは違っていたのです。単に《聖書の言葉を現実生活に適用すること》を教えていたのではないのです。イエス様の言葉、そしてその存在は、確かにそれ以上のことを意味していたのです。

 残念ながら今日もなお、キリスト教信仰を《聖書の言葉を現実生活に適用すること》ぐらいにしか考えていない人は少なくありません。教会に来るのは、聖書の教えている道徳と人生訓を学ぶため。キリスト教の伝道とは、聖書の教えを布教して、聖書の教えを守る道徳的な人間の多いより良い社会を作ること。子供を教会学校に送るのは、良い子に育って欲しいから――。

 時々聖書に関わる文章の中で、《聖書を生きる》という言葉を目にすることがあります。そういうタイトルの本もあります。立派なキリスト者を指して、「あの人は、まさに聖書を生きている人だ」などと言ったりします。しかし、この《聖書を生きる》ということが、単に《聖書の教えを実践して生きている》という意味でしかないならば、イエス様が来られる以前に、《聖書を生きている》人はいくらでもいたのです。既に律法学者がその専門家でありました。まさに律法学者たちが目指していたのは、そのような意味で、人々が《聖書を生きる》ように教えることだったのです。

 しかし、イエス様はあのカファルナウムの会堂で、律法学者のようにではなく、権威ある者として教えられたのです。主がもたらされたのは、単なる聖書の言葉の適用ではなかったのです。イエス様はもう一人の律法学者として来られたのではないのです。

権威ある者として

 では、イエス様が権威ある者として教えられたということは、いったい私たちに何を意味するのでしょうか。そのことを続く出来事から見ていきましょう。23節以下をご覧下さい。「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ』」(23‐24節)。

 皆が会堂に集まっています。礼拝をしています。イエス様が語り始めました。人々は権威ある者のように語られるイエス様の言葉に驚嘆しながら、全く初めて聴くような新しい言葉に、それこそ全身を耳にして聞き入っています。「そのとき」――まさにその時に、会堂の中に異様な叫び声が響き渡りました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」その場面を想像できますか。

 神学生の時に似たような場面に遭遇したことがあります。ある日の夕方の礼拝に、全く初めての人が来ていたのです。少々アルコールが入っていい気持ちになっていたおじさんでした。駅前にいたその人を私たちが教会にお連れしたのです。ところが、最初は一緒におとなしく礼拝に参加していたのですが、次第に様子が変わってきました。そして、説教が始まって少し経った時に、いきなり説教をしている牧師に向かって叫び出したのです。「ばかやろう!ウソをつけー。この偽善者が!」皆の視線がその人に集まりました。驚いた顔をしている人。迷惑そうな顔をしている人。どうしたら良いのか当惑している人。一瞬、その場が凍り付きました。

 ここに書かれているのは、そんな場面であると想像します。しかし、その凍り付いた空気を、イエス様の声が切り裂きました。主は大声で叱りつけられたのです。「黙れ!」そして、続いて何と言ったでしょうか。「出て行け!」と叫んだのです。しかし、それはその人に対してではありませんでした。「《この人から》出て行け」(もとの語順なら「出て行け、この人から」)と主は叫ばれたのです。

 人々は、礼拝を混乱させる「この人」に出て行って欲しかったに違いありません。しかし、イエス様にとっては、「この人」が大事だったのです。彼はそこにいなくてはならないのです。その人はイエス様にとって、汚れた霊に支配されている悲しい一人の人間なのです。正しく神に向かうことができず、神を礼拝することができず、自分を越えた力に振り回され、自分自身をコントロール出来ない、悲しい一人の人間に他ならないのです。

 「この人から出て行け!」――それは汚れた霊に対する怒りの言葉でした。しかし、それは同時に、この一人の人間に対する、イエス様の深い憐れみからほとばしり出た叫びでもありました。主はあくまでも、この人の側に立って命じているのです。あたかもこの人を抱きかかえて敵から守るかのように、「この人から出て行け」と言われたのです。それは、何としてでもこの人を汚れた霊から解放し、神に向かう本来の人間の姿を回復したいと願う、キリストの熱情の現れでありました。

 そのようにイエス様が汚れた霊を叱りつけると、「汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」と書かれています。そのように、権威ある者として語られたイエス様の御言葉は、この人を解放し、この人の本来の姿を回復したのです。汚れた霊の支配に代わって、神の支配がその人の上に訪れたのです。先週お読みした箇所に書かれていた、イエス様の宣教の言葉を覚えておられますか。「時は満ち、神の国は近づいた」。それがイエス様の宣言でした。その神の国のリアリティが、この一人の人間の上に現れたのです。イエス様の言葉を通して現れたのです。イエス様の存在とその言葉は、ただ単に、聖書の言葉を実践する道徳的な人間を造り出したのではありません。一人の人間の上に、神の国をもたらしたのです。

キリストによる解放

 さて、このような癒しの物語、特に23節から26節にまとまっているこのような形の話は初代教会で繰り返し語られたのでしょう。そのように初代教会の礼拝の場で、語り継がれていく中で、このような短い話にまとまったものと考えられます。何のために、これが礼拝の場で語られてきたと思いますか。単に「かつてイエス様はこのようなことをなさったのですよ」ということを伝えるためではないでしょう。そうではなくて、こうして礼拝しているイエス様はどのような御方であるかを伝えるために違いないのです。つまりこれはだた過去の出来事を伝える物語であるだけでなく、私たちのために十字架にかかられ、そして復活して、今も生きておられるキリストを伝える物語でもあるのです。私たちがこうして礼拝しているキリストが私たちにどのように関わってくださるかを伝える物語でもあるのです。

 そのように、今日の私たちとの関わりにおいてこの物語を読みます時に、この場面はある特殊な状況における特別な出来事ではないということが見えてまいります。あの汚れた霊に支配された人は、決して私たちとは無関係な特別な人間ではないのです。なぜなら、それを汚れた霊と呼ぶか、悪しき霊と呼ぶか、あるいは他の言葉で呼ぶかは別としまして、そのような見えざる力に振り回され、自分自身を制することが出来なくなってしまう悲しみは、少なからず私たち人間の普遍的な経験であるからです。

 国と国、民族と民族の間における戦闘と殺戮の歴史の中に、私たち人間は汚れた霊の支配を実際に見てきたのではないでしょうか。あるいは身近なコミュニティーの中に、小さな家庭の中に、そして個人の心の中に、人間がどうすることもできない力が働くのを、私たちもまた経験してきたのではないでしょうか。人間の意志や知性によってはどうすることもできない支配力の猛威を、私たちは実際にいやというほど経験してきているのではないでしょうか。その意味で、ここに描かれている一人の人物は、私たちと決して無関係ではないでしょう。

 しかし、そのような汚れた霊の支配の中にキリストが入って来られた、というのがこの場面なのです。そして、福音書はその物語を伝えることによって、イエス・キリストが今もその権威をもって、私たちの人生に入って来てくださることを語っているのです。

 イエス様が入って来られる時、そこには葛藤が起こります。今日の聖書箇所に書かれている通りです。キリストが権威ある御方として立った時、あの汚れた霊は叫んだのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ」と。なぜでしょう。汚れた霊はキリストが誰であるかを知っているからです。だから言うのです。「我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と。

 イエス様が単なる律法学者の一人であったなら、そのようなことは起こらなかったはずです。「ここに宗教的な良い教えがありますよ。生活に関する戒めの言葉がありますよ。それを守って生きましょう」という事であるならば、それに対してはさほど大きな抵抗は起こらないのです。「聖書の言葉を実践しましょう」というだけのキリスト教ならば、そこに大きな葛藤は起こらないのです。しかし、キリストが権威をもって近づいて来る時、人間の内において激しい葛藤と抵抗が起こります。「ナザレのイエス、かまわないでくれ」という叫びが起こってくるのです。放っておいて欲しいのです。そのままでいたいのです。しかし、イエス様はそのような私たちに、あくまでも関わってこられるのです。そのような私たちであるからこそ、関わってこられるのです。なぜなら、それは人間の本来の姿ではないからです。汚れた霊に支配され、神に背いている人間の姿は、人間の本来の姿ではないからです。キリストを退けて、闇の中に身を置き続けている姿は、人間の本来の姿ではないからです。

 人間を汚れた霊から解放し、神の支配のもとに回復するのは、律法の権威ではありません。宗教的な戒めや道徳的な言葉が人を解放するのではないのです。また、従う私たちの決意や意志の力が、私たち自身を解放するのではないのです。私たちを解放するのは今も生きておられるキリストです。私たちを憐れみ給うキリストです。「この人は私のものだ。この人は私が血をもって贖った人だ。この人から出て行け」と私たちの側に立って汚れた霊に命じてくださるキリストなのです。私たちには、汚れた霊の言うとおりにキリストを退けて汚れた霊の支配下に留まるか、それとも汚れた霊から解放されるためにキリストを求めてその権威ある御方に自分自身をおゆだねするのか、そのいずれかしかないのです。

 キリスト者であるとは、私たちの人生に入って来られ、私たちに徹底的に関わりたもうキリストの権威のもとに身を起き続け、キリストと共に生きることに他なりません。私たちが主の御名によって集まる礼拝の場所に身を置き続けるのは、その具体的な現れです。私たちは、道徳的な教えを学ぶためにここにいるのではありません。キリストの権威のもとに身を置き、キリストとの交わりの中に身を置くためにここにいるのです。この御方のもとに身を置き続けてこそ、絶えず神に立ち帰り、神との正しい関係にある本来の人間の姿をもって生きていくことができるのです。

 
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