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「人間をとる漁師に」

2006年1月22日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書1章14節~20節

悔い改めて福音を信じなさい

 今日の福音書朗読は、イエス様の宣教活動の開始を伝えている箇所です。イエス様は、ガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えてこう言われました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)。

 イエス様は、「神の国は近づいた」と宣言されたました。「神の国」とは、「神の支配」です。神が王として支配してくださることを意味します。王なる神が近づいて来ている。この罪に満ちた世界に、この怒りと憎しみに満ちた世界に、この嘆きと悲しみに満ちた世界に、神様の方から近づいて来ている。そうイエス様は言っておられるのです。神様が慈しみと愛をもって支配するために来られる。それは罪の支配のもとにある人間にとって救いです。神の国は近づいた。それは神の救いは近づいた、ということでもあります。だから「福音」と呼ばれているのです。イエス様は福音の宣教を開始されたのです。

 イエス様の言葉に耳を傾けましょう。「神の国は《近づいた》」と主は言われました。それは「近づいた」のであって、完全に到来しているわけではありません。今日もなお、神の国が完全に到来してはいない事実を、私たちは目にしています。この世界には依然として罪の力が猛威を振るっています。神の御旨に反することが行われています。地上には悲しみの叫びと嘆きの声が絶えることがありません。ですから私たちは今もなお「御国を来たらせたまえ」と祈り続けています。御心が天になるように地には成っていないことを知っているからです。だから今もなお「御心を地にもなさせたまえ」と祈ります。そのように、神の国は完全に到来しているわけではありません。

 しかし、イエス様が言われたように、神の国は確かに「近づいた」のです。時は満ちたのです。決定的な時は既に今から2000年前のあの時に訪れたのです。イエス・キリストが来られた時から、この世界に対する神様の全く新しい関わりが始まっているのです。それまでとは全く違う神様の側からのアクションが始まっているのです。神が驚くべき愛と赦しをもって、この人間の歴史の中に入って来られたのです。イエス・キリストの言葉を通して、そして十字架と復活に至るその御生涯を通して、神の最終的な招きと呼びかけが始まったのです。神様の方から恵みをもって近づいてきておられるのです。時は満ちました。神の国は近づいたのです。

 ですからイエス様はさらにこう言われたのです。「悔い改めて、福音を信じなさい」と。「悔い改める」とは、単に後悔して改めることではありません。方向を転換することです。神に背を向けてきた人が、近づきつつある神に向き直ることです。神から離れて行っていた人が、方向を変えて神に立ち帰ることです。窓を閉ざし、カーテンを引いて、神の光を遮断して真っ暗な部屋にこもっていた人が、窓を開けて、射し込む神の光に身を置いて、神の光に顔を向けることです。光の中を生き始めることです。方向を変えて福音を信じるのです。良き知らせを受け取るのです。受け入れるのです。喜びをもって受け入れるのです。大事なことは、そのように《個々の人間の方向が変わること》なのです。

 そうです、イエス様は、個々の人間が変わることを求め、呼びかけられたのです。主が望まれたのは、国家の体制の変革ではありませんでした。ローマ皇帝の支配を覆えすために動こうとはしませんでした。実はそのような動きは当時、いくらでもあったのです。イエス様がおられたガリラヤは、熱心党運動の拠点でした。それは武力をもって異邦人の支配を打ち倒すことを目指した運動です。しかし、イエス様はその運動に加わりませんでした。イエス様が奇跡的な力を現した時、多くの人々はイエス様がその力を発揮してローマ帝国全体を揺り動かすことを期待しました。しかし、イエス様は御自分の力をそのために行使しようとはしませんでした。主は一人ひとりの人間に関わられたのです。

 またイエス様は、ユダヤ人の最高法院を動かそうともしませんでした。サンヘドリンと呼ばれる最高法院が動けば、離散のユダヤ人たちも含め、全ユダヤ人社会が動きます。しかし、イエス様はユダヤ人社会の体制や制度そのものを変えるために働きはしませんでした。イエス様はエルサレムに活動の拠点を置かなかったのです。そうではなくて、主はまずガリラヤへと向かわれました。エルサレムからすれば辺境の地、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ蔑まれていた地に住む人々の所へと向かわれたのです。

わたしについて来なさい

 今日の聖書箇所も、そのようなイエス様のお姿を伝えています。イエス様は何をしていますか。ガリラヤ湖の周辺をウロウロしています。そうしながらイエス様は――人間に目を向けておられるのです。「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった」(16節)。漁師が湖で網を打っていることに何の不思議もありません。ごく当たり前の日常です。イエス様は、その当たり前の日常を生きている人に目を留められます。シモンやアンデレが取り立てて目を引く特別な何かを持っていたわけではなく、特別な何かをしていたわけでもありません。そのごく平凡な日常の中の漁師たちに主は声をかけます。「わたしについて来なさい」と。

 シモンとアンデレは、「すぐに網を捨てて従った」と書かれています。なぜでしょう。よく分かりません。必ずしもここがイエス様との初対面で、その時の一言で彼らが従って行ったと考える必要はありません。ルカによる福音書では、ペトロが従う前の短いエピソードが記されていますし、ヨハネによる福音書はまた別の経緯を記しています。恐らくこの場面の前に、既にペトロもアンデレもイエス様のことは知っていたのだと思います。しかし、ただイエス様について知っているということの延長に、後の使徒ペトロもアンデレもいないのです。どこかある一点において、そこから彼らはイエス様と共に歩み始めた。それなくして後のペトロもアンデレもいないのです。というわけで、これを書いたマルコにとっては、それまでの経緯はさほど重要ではなかったのでしょう。とにかく、ある時から彼らがイエス様に従い始めたことが重要だったのです。

 それは今日におけるキリストとの関わりにおいても同じです。イエス様については聞いている、知っている――しかし、そこに留まっている限り、その延長上にキリスト者としての生活はありません。従い始める第一歩が必要なのです。イエス・キリストの呼びかけに応え、キリストの福音を信じ、自分の人生をかけてこの御方に従って行こう、生涯この御方と共に、近づいている神の国に顔を向け生きていこう――そう決心して一歩を踏み出すことが必要なのです。

人間をとる漁師にしよう

 そして、イエス様の招きの言葉には、約束の言葉が伴っていました。主はこう言われたのです。「人間をとる漁師にしよう。」ペトロたちはこれまで魚を捕る漁師でした。その漁師たちに、「《人間を》とる漁師にしよう」と言われた言葉は、とてもユーモラスで印象的です。私たちはまず、この「人間を」という言葉に注目したいと思います。

 イエス様にとっての関心は、ペトロという一人の人間が、アンデレという一人の人間が、それぞれ名前を持ち固有の人格をもつ個々の人間が、方向転換をし、福音を信じ、イエス様に従って来るかどうかということにありました。イエス様にとっては、あくまでも個々の人間が大事なのです。主がその思いを、イエス様に従ったペトロとアンデレに手渡します。彼らに託されたのは、世界を変えることではありませんでした。彼らは世界を救う英雄にならなくて良いのです。イエス様がそうであったように、彼らもまた人間を追い求める漁師になるのです。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。やがて弟子たちは、このメッセージを携えて、一人ひとりの人間の心が方向転換することを求めて、出て行くことになるのです。

 それが今日に至るまで、教会が行っていることです。今日もなお、キリスト者に託されている働きです。教会はあくまでも人間と向き合い、人間に関わり続けるのです。それぞれ固有の名前を持ち、固有の人生を歩んできた、固有の人格と関わり続け、一人の人間が方向を変え、福音を信じ、救われることを求め続けるのです。ですから教会は、十把一絡げにホースで水を撒くような仕方で洗礼を授けることはしません。(通常は役員会が代表しますが)教会は各受洗者と一人の人間として向き合い、一人の人間として洗礼を授けます。そして、一人の人間が神のもとに帰ったことを、天使たちと共に喜ぶのです。

 さて、「人間をとる漁師」という言葉のこの「人間を」に注目してきました。私たちはこの言葉に徹底的にこだわる必要があります。というのも現実には私も含めまして、教会が「人間」に思いを向けるというところから逸れてしまうことがいくらでも起こり得るからです。

 開拓期の教会は――わたしも経験がありますが――一人の人が主に導かれるために皆で心砕き、祈り、そしてその人が主を信じて洗礼を受けたとき、そこには一同の内に大きな喜びが溢れます。そうしているうちに、やがて教会が大きくなり、次第に力を持ち、経済的にも豊かになり、有能な人々を数多く有するようになり、あるいは地域社会においても重んじられるようになる。それは自然なことですし、そのこと自体は決して悪いことではありません。しかし、そこで重要なことは、以前と同じように一人の人間が福音を信じ神に立ち帰ることに本当に関心を向け、一人が立ち帰ったことを心から喜べる教会であり続けることができるか、ということなのです。いつの間にか「人間を」とる漁師ではなくなってしまっていたら、それは大きな問題です。私たちの教会においても、もし誰かが洗礼を受けても、そのことにあまり関心がない、その人の名前すら覚えていない、というようなことが起こってきたら、それは危険信号と言わざるを得ないでしょう。ですからこの「人間を」という言葉が大事なのです。

 さて、そのように、主はペトロやアンデレに目を留め、「わたしについて来なさい」と言って招かれ、「人間をとる漁師にしよう」という約束の言葉を与えられました。私たちはここでさらに「漁師にしよう」という主の言葉をも心に留めたいと思います。主は「人間をとる漁師になりなさい」と言われたのではありません。「わたしが漁師にしてあげよう」と言われたのです。

 実際に、ペトロやアンデレが、また他の弟子たちが、人間をとる漁師になるのは、キリストが復活し、天に昇られ、聖霊が降臨した後のことした。天に挙げられたキリストの御霊が与えられて、初めて彼らは人間をとる漁師としてこの世の海原に出ていくことが可能となったのです。

 宣教の業は、あくまでも人間が人間の言葉をもって行います。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語りかけるのは、ペトロでありアンデレであり、代々の教会であり、私たちです。人間をとる漁師には人間がならねばなりません。しかし、人間の言葉そのものは人間の心を神に向き変えることはできません。人間の言葉の説得力が人に信仰を与えるのではありません。宣教は人間を用いて働く神の御業です。信仰は神の賜物です。キリストが人間をとる漁師にしてくださるから、私たちは人間をとる漁師であり得るのです。誰かを通して私たちが主に立ち帰ったように、今度は誰かが立ち帰り救われるために、主は私たちをお用いくださるのです。そのことが分からないと、傲慢な善意の押し売りとなります。

 そしてもう一つ。主は「人間をとる漁師にしよう」と言う前に、ペトロやアンデレの生まれながらの資質や彼らの能力を一切問いませんでした。イエス様にとってそれは問題ではなかったのです。私たちも同じなのです。私たちの生まれながらの性格がどうであるか、強いか弱いか、有能かそうでないか、若いか年老いているか、イエス様にとっては問題ではないのです。宣教は神の御業なのですから。教会においてはもっと大切なことがあるのです。「人間をとる漁師にしよう」という約束に先立つ主の言葉――「わたしについて来なさい」という言葉――にどう応えるかです。そうです、重要なことは、主の眼差しが向けられている一人の人間として、その招きに応えてついていくことです。そして、キリストと共に歩み続けることなのです。

 
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