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「飼い葉桶の中に」

2005年12月25日 クリスマス主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書2章1節~20節

場所のない人々

 「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った」(1‐3節)。クリスマスの出来事を伝える聖書の箇所は、そのような言葉から始まります。

 皇帝アウグストゥスの勅令――そのためにマリアとヨセフは、ナザレからベツレヘムへの長い旅をすることになります。マリアは身重でありましたが、その体に無理を強いてまで、長い旅をしなくてはならなかったのは、指定されたベツレヘムにおいて、二人が登録をするためでした。

 住民登録には、大きく二つの目的があったようです。一つは被占領民族からも確実に人頭税を徴収するため、もう一つは兵役に使える人間の数を調べるためでした。要するに、この人口調査と住民登録は、ユダヤ人のような被占領民族を完全にローマ帝国の体制の中に組み込むために行われたのです。

 しかし、「人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った」という記述から始まって、マリアとヨセフがベツレヘムに行ったというお馴染みの話になるのですが、その直後にたいへん奇妙なことが書かれているのです。8節以下の話です。「その地方で羊飼いが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」と書かれているのです。

 羊飼いは「その地方」にいるのです。これはベツレヘム周辺を指していると見てよいでしょう。ベツレヘムは登録のために旅をしてきた人々でいっぱいになっているのです。ところが、そのすぐ周辺にいる羊飼いたちは、あたかもこれらの出来事とはまったく無関係であるかのように描かれているのです。要するに、彼らはアウトサイダーなのです。ローマ帝国の体制においては人の数に入っていない人々なのです。羊飼いとして生活はしておりながらも、国家の中には位置づけを持たない人々だということです。

 では彼らの民族であるユダヤ人の間ではどうだったのでしょうか。どうもユダヤ人社会においても彼らはアウトサイダーだったようです。律法を重んじるユダヤ人社会において、律法にそって生きている人々はお互いを同胞と呼んでおりました。しかし、《同胞》という言葉が存在するということは、《同胞》でない人間がいることをも意味します。《同胞》でない人々とは、第一に非ユダヤ人、すなわち異邦人のことでした。しかし、実は、同じユダヤ人の中においても、「同胞」でない人々がいたのです。彼らは《地の民》と呼ばれ、異邦人と同様に見なされていたのです。その《地の民》の中に羊飼いたちもいたのです。つまり、彼らはユダヤ人社会の中においても、自分の存在の位置を持たなかった人々なのです。

 ですから、ここで野宿をしている羊飼いたちが登場してくるということは、決してほのぼのとした微笑ましい場面ではないのです。国家にも場を持たず、自分の民族からもはじき出された人々が、必死の思いで生きている、そんな場面なのです。

 ではどうして、そのような場面が聖誕劇の中心となるのでしょう。どうしてそれが救いのメッセージとなるのでしょうか。――それは、そのような彼らにこそ、最初に救い主の誕生が知らされたからです。神の言葉が届けられたからなのです。

 これが私たちにどれだけ大きな意味を持つか、それは私たち自身を羊飼いの位置において考えてみると良く分かります。場所がないということ。存在の位置を認められていないということが人間にとってどういうことであるかを考えてみると良く分かるのです。

 私たちは、自分自身の存在の価値というものを、多くの場合、どのような場で生きているか、どのような場に身を置いているかで計ります。どのような社会的地位にいるか、どのような人々のグループに属しているか、どのようなコミュニティに属しているか、どのような役職を与えられているか、どのような学校にいるか、どのようなチームにいるか、どのような位置づけを与えられているか、それは決して小さなことではないと思われます。

 しかし、それはまた実に不確かな基盤であることも事実です。人は自分の場所を失いながら生きていくことになるからです。定年退職をすれば会社に自分の位置はなくなります。年老いて社会の中に自分の場所を見出し得なくなって寂しい思いをしている人は少なくありません。あるいは自分の家にさえ場所を見いだせなくなることもあるでしょう。

 いや、それは決して高齢者に限ったことではありません。失敗によって自分の場を失うこともあります。何かのきっかけで仲間はずれにされることもあるでしょう。あるいは事故によって、病気によって、社会における自分の位置を失って苦しんでいる人はたくさんおります。事実、病気になることの最も大きな苦しみは、病気そのものよりも、むしろ自分の場所を失うことであるとさえ言えるでしょう。いや病気でなくても、私たちは実にちょっとしたことで、自分の場所を失うのです。私たちはなんと不確かな基盤の上に生きていることでしょうか。人は様々な形において、自分の場を失う淋しさとつき合いながら生きて行かざるを得ないのです。

 しかし、聖書は、ローマ帝国にも、ユダヤ人社会にも場を持たなかった羊飼いたちがいたことを語るのです。そして、彼らにこそ神様のメッセージが最初に届けられたのだと語るのです。神様は天使を通して、羊飼いにこう告げたのです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。神様は羊飼いに対して、「あなたがた」と語りかけられたのです。それはどのような状況にある人々にも、「あなたがた」と語りかけてくださる方がおられることを示しています。

 彼らに伝えられたのは、このような言葉でした。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(10‐11節)。ユダヤの人々は彼らを同胞とは呼びませんでした。彼らは神とは無関係の人間とみなされておりました。しかし、神様は彼らに「あなたがたのために!」と語られたのです。それは彼らも救いの対象であるといううことを意味しています。言い換えるならば、神様の救いの御心の内に、彼らの場所があるということです。どこにも彼らの場所がなかったとしても、神様の内には彼らの場所があるということなのです。

これがあなたがたへのしるし

 続けて、神様は天使たちを通してこのように語られます。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(12節)。これもまた奇妙な言葉です。どうして、飼い葉桶に救い主が寝ていることがしるしとなるのでしょうか。どうしてそれが、特に「あなたがたへの」しるしとなるのでしょうか。そのことを考えるためには、そもそもなぜ乳飲み子が飼い葉桶などに寝ているのかを考えなくてはなりません。

 聖書は単純にこう記しています。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(7節)。聖誕劇では、たいてい身重のマリアを連れたヨセフが一軒一軒の宿屋をめぐり歩く場面が出て参ります。すると宿屋の主人はこう言うのです。「だめだめ、うちはいっぱいだよ。」聖書には、宿屋の主人の言葉などは記されていないのですが、恐らくそんなやり取りがなされたであろうことが想像できるわけです。実際、ダビデの血筋である多くの人々がダビデの町と呼ばれたベツレヘムに詰めかけていたことでしょう。ヨセフもダビデの血筋でありました。だからベツレヘムに来たのです。しかし、マリアの胎にいたキリストは、そのダビデの町において自分の場所を持つことができなかったのです。それが飼い葉桶に寝かされているという姿が意味していることです。

 しかし、それは単に事の始まりに過ぎませんでした。ここで閉め出された姿で寝ている幼子キリストは、やがて完全にユダヤ人から捨てられて、人々から捨てられて、人々の間に場所を持たない者として死んでいくのです。彼が十字架にかけられたのは、エルサレムの都の中ではなく、その外でありました。いやそれどころか、キリストはこの地面の上にさえ場所を持たなかったのです。十字架の上で死なれたとは、そういうことです。あの御方は、地上から上げられたところで――十字架の上で死んで行ったのです。つまりこの場面に見るキリストの姿、飼い葉桶に寝かされているキリストの姿は、まさにそのような生涯とその最期とを象徴するような姿に他ならなかったのです。

 羊飼いたちが自分の場所を持たない人々であるとするならば、キリストもまた自分の場所のないお姿で飼い葉桶に眠っていたのです。彼らが、位置づけを奪われた惨めさの中に生きているならば、そこにまで降ってくださったのがキリストなのです。それがしるしでした。彼らに与えられた救い主であることのしるしでありました。

 そして、それはまた私たちへのしるしでもあるのです。わたしたちがどんな人間であっても、たとえどんなに場所を失った惨めさの中にいる人でありましても、そこにまでキリストは伴ってくださる。どんなところにまで神の救いの御子は伴ってくださるのです。そこにまで神の恵みは届いているのです。神の内には私たちの場所があるのです。私たちは神の救いの対象であり、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と語りかけられているのです。飼い葉桶の中の乳飲み子という姿は、そのことを指し示すしるしなのです。

 その後に、「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(20節)と書かれております。彼らは「帰って行った」――その先には、同じ生活が待っています。何も変わっていないように見えます。しかし、彼らは「あなたがたのための救い主」のしるしを見て、神をあがめ、賛美しながら帰って行ったのです。彼らはもはや自分の場所のない者ではありませんでした。彼らは神の内に自分の場所を見出した人々です。そして、クリスマスの物語は、ここにいる私たちにも語り掛けているのです。神の内に、あなたの場所がある。神との交わりに生き、神を誉めたたえ、喜びに溢れて生きることができるのだ、と。

 
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